日本がワールドカップでベスト16入りしたのは過去3回。2002年日韓、2010年南アフリカ、2018年ロシアの各大会だ。このうち、南アは危機的状況に陥った岡田武史監督が本番直前に戦い方をガラリと変え、1次リーグ1位通過というミラクルを起こしたことで知られている。もしもパラグアイにPK負けしていなかったら、日本は8強の壁を超えていただろう。

 その立役者である田中マルクス闘莉王、阿部勇樹(浦和)、駒野友一(今治)、松井大輔(横浜FC)、大久保嘉人(東京V)、今野泰幸(磐田)の6人は2004年アテネ五輪経験者。「五輪経由ワールドカップ行き」を果たした成功例と言っていい。

南アフリカワールドカップのけん引役になったアテネ世代

 しかしながら、アテネ世代の船出は暗雲が漂っていた。彼らは1世代上の黄金世代(79年組)とつねに比較され、酷評され続けてきたからだ。黄金世代には小野伸二(琉球)、高原直泰(沖縄SV)、稲本潤一(相模原)という99年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)準優勝メンバーがいて、彼らの高い壁に直面し続けた。その高原がJリーグMVPと得点王をダブル受賞した2002年秋、アテネ五輪への立ち上げチームが高原・中山雅史(沼津)の強力2トップ擁するジュビロ磐田に挑み、0-7の惨敗。指揮を執っていた山本昌邦監督も頭を抱え、松井、駒野らも大きなショックを受けた。

 そんな苦境から這い上がり、彼らは3大会連続の五輪切符を手に入れることになる。2004年3月に行われた最終予選・UAEラウンドでは原因不明の下痢事件に見舞われながらUAEを2-0で撃破するなどタフさを披露。日本ラウンドでも第1戦のバーレーン戦を0-1で落とすという危機に瀕しながら、レバノン、UAEに連勝して、本大会へと駒を進めることになったのだ。

黄金時代の磐田に7失点惨敗した最悪の船出

 しかし山本監督は本番を前に小野、高原、曽ヶ端準(鹿島)の黄金世代3人をオーバーエージ枠に抜擢。予選でキャプテンマークを巻いていた鈴木啓太(現AuB株式会社代表取締役)を外すという判断を下す。すでに欧州でプレーしていた小野と高原の国際経験値が必要不可欠だと判断してのことだった。が、高原が肺動脈血栓症を再発させ、五輪出場が叶わなくなるアクシデントが起きる。小野を軸としたチーム再構築もうまくいかず、本大会は結局、パラグアイに3-4、イタリアに2-3と連敗。この時点で1次リーグ敗退が決まってしまう。最終戦のガーナ戦は大久保が一矢報いて1-0で白星を挙げたものの、2大会連続の8強入りは叶わなかった。

 黄金世代を含むシドニー五輪代表と差がつき、「谷間の世代」という不名誉な称号をつけられたアテネ世代だったが、そこからの巻き返しは凄まじかった。まずアテネ五輪直後に松井がフランス・リーグドゥ(当時)のルマンへ移籍。2005年1月には大久保がスペイン・リーガエスパニョーラのマジョルカへ赴いた。平山相太も2005年夏にはオランダ・エールディビジのヘラクレスへ移籍。実現しなかったものの、今野や石川直宏(FC東京クラブコミュニケーター)にも欧州行きの話が舞い込むなど、五輪を契機に海外移籍の道が一気に開かれる形になったのだ。そこはアトランタ、シドニー世代との大きな違いではないか。

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五輪後に海外移籍の道が開かれた世代

 アトランタの頃は世界における日本サッカーの認知度がまだまだ低く、シドニーの時点でも中田英寿や名波浩(解説者)ら数人が欧州でプレーしているだけで、日本人選手のポテンシャルは未知数だった。しかし2001年にオランダ・フェイエノールトへ移籍した小野が01-02シーズンのUEFAカップ(現UEFAヨーロッパリーグ)優勝の原動力となり、2002年日韓大会の後には中村俊輔(横浜FC)や柳沢敦(鹿島ユースコーチ)、高原らが続々と欧州へ渡って評価を上げていた。その流れがアテネ世代の追い風になり、松井はアテネの前からすでにフランスで注目を集めていた。

 彼の著書「日本人が海外で成功する方法」(KADOKAWA刊)に携わった筆者はフランス行きの経緯を詳細に聞く機会に恵まれたが、2002年のトゥーロン国際トーナメントでベストエレガント賞を受賞した時からすでに松井の非凡なテクニックはルマンのスカウトから注目されていたのだ。

早いうちからフランスで注目されていた松井

「2002年のトゥーロン、2003年のコンフェデレーションズカップと2年連続でフランスでの大きな国際大会に出たことで、ルマンが僕の存在を認識したんだと思います。中学3年の時にパリサンジェルマンに練習参加したこともあって、僕にとってフランスは縁のある国。アテネの頃にはかなり話が進んでいて、ほぼ本決まりになっていたと思います。

 契約は最初の半年間は京都サンガからのレンタルで、その後の買い取りオプションがついていた。自分としてはシンプルに結果を出すことだけに集中すればよかった。レンタルなので『帰る先がある』という安心感もありました。ルマンにとっても『日本から来た未知数の選手を最初から買い取る確信が持てない』という考えがあったんじゃないかな。そういう意味でも僕は幸運でした」と松井は16年前の出来事を述懐する。

「俺たちはやれる」と実感した南アの大舞台

 その松井が「ルマンの太陽」と称されるほどの活躍を見せ、アテネ世代の国際的な評価を押し上げたのは間違いない。最初に考えていた通り、シンプルに結果を出した松井は完全移籍を勝ち取り、ルマンのリーグアン昇格に貢献。ルマンで4シーズンを過ごした後、サンテティエンヌ、グルノーブルを渡り歩いて、長年の夢だったワールドカップの代表入りを勝ち取った。2006年ドイツ大会の頃は中田英寿、中村俊輔、小野伸二らが27~29歳という円熟期を迎えていたため、アテネ世代のアタッカー陣は入り込む余地を見出せなかったが、彼らが30代になった2010年に主力になるチャンスが巡ってきた。彼らの奮闘がなければ、南アの地で日本がサプライズを起こすことはあり得なかった。「長年『谷間の世代』と言われてきたけど『俺たちはやれる』ってことを示せたと思う」と松井もしみじみと語ったことがある。

五輪経由ワールドカップは6年かかることも

 彼らの例から考えてみると、「五輪経由ワールドカップ行き」が叶うのは、2年後ではなく6年後も十分あり得るということだ。東京五輪世代は今、多くの選手が2022年カタール大会を目指しているが、97年生まれの選手でもその時点では25歳。久保建英のような2001年生まれの選手であれば、まだ21歳ということになる。2026年はもちろんのこと、2030年も目指せるかもしれない。そのくらいサッカー選手のキャリアというのは長期スパンで考えていい。アテネ世代のように30歳手前でワールドカップに出て、ある程度の成功をつかみ、その後10年間、現役を続けるというのはある意味、理想的なモデルかもしれない。アテネ世代の軌跡を改めて振り返ってみることも、今後の日本サッカー界の大きなプラスになるはずだ。