「五輪経由ワールドカップ行き」

 前回も書いたが、この言葉が今の日本サッカー界では1つのスタンダードになっているのはご存じの通りだ。現在、日本代表で活躍する選手の多くが通過してきた道である。

 五輪が「キャリアアップへの登竜門」という意味では昔も今も変わらない。

 それを見事に体現したのが、2000年シドニー五輪でベスト8入りした「シドニー世代」だろう。生き証人の1人である明神智和(ガンバ大阪ジュニアユースコーチ)は「シドニー五輪経由日韓ワールドカップ行き」を現実にし、41歳までキャリアを継続した。「五輪で世界の凄さを知ったし、世界基準が分かった」という彼の言葉を参考にしながら、選手にとっての五輪の価値を考えてみることにする。

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トルシエの4年間の段階的引き上げが成功

 五輪とワールドカップが直結していなかったアトランタ世代とは異なり、2000年シドニー五輪は2002年日韓ワールドカップと一体化していた。というのも、ご存じの通り、フィリップ・トルシエ監督(現U-18ベトナム代表監督)がU-20、U-23、A代表と3世代のチームを一手に背負い、段階的に強化していたからだ。

「シドニー五輪経由日韓大会」という理想的ステップを踏んだ1人である明神は、「五輪とA代表が直結していたのは選手にとって大きなチャンスだった」と振り返る。

「若い選手にとってA代表の監督に見てもらっていることはすごく大きなチャンス。僕もシドニーの後、すぐにA代表に呼んでもらって、ワールドカップまで行くことができました。トルシエには『世界を見ろ』と常日頃から言われていたし、『アジアじゃなくて世界と戦うんだ』と日々、叱咤激励されていた。そうやって意識を変えてもらったことが、その後のキャリアのプラスになったのは間違いないと思います」

 明神が言うように、98~2002年までの4年間は「下の世代を育ててA代表に引き上げる」というシステムが最も機能していた時期と見ていい。トルシエは98年10月に初来日した頃から若い選手たちの際立った才能に着目。毎月のように合宿を繰り返してレベルアップを目指した。

シドニーでボランチとしてフル稼働した明神

 シドニー五輪代表は当初、明神や中村俊輔(横浜FC)、柳沢敦(鹿島ユースコーチ)、宮本恒靖(G大阪監督)ら77~78年生まれの選手で構成されていたが、99年ワールドユース(現U-20ワールドカップ=ナイジェリア)準優勝という成功を収めると、その主力である小野伸二(琉球)、高原直泰(沖縄SV)、中田浩二(鹿島CRO)、本山雅志ら79~80年代生まれのメンバーを続々と抜擢。彼らを融合させ、さらにA代表の中心でもあった楢崎正剛(名古屋アカデミーGKコーチ)、森岡隆三(解説者)を加えて「2002年予備軍」とも言えるようなチームを構成。2000年9月のシドニー五輪を戦った。

 日本は南アフリカを2-1で下して好スタートを切り、続くスロバキア戦も2-1で連勝。だが、これでは1次リーグ突破が決まらず、8強入りの行方は3戦目のブラジル戦に持ち越された。この大一番を前に森岡と中田という攻守の大黒柱が揃って出場停止に。3バックの中央には宮本、トップ下には3-5-2の左サイドで使われていた中村俊輔が入ったが、マイアミの奇跡の再現はならず、日本は0-1で敗戦。それでも上位2位以内をキープし、32年ぶりの準々決勝に進むことができた。その相手は新興国・アメリカ。これに勝てばメダルも見えてくるという期待も高まったが、柳沢、高原のゴールによる2度のリードを守り切れずに延長戦に突入。それでも決着がつかず、PK戦で中田がまさかの失敗。日本のメダル獲得の夢はついえた。

「このレベルに到達しないと世界では戦えない」

「シドニーで体感したのは、対戦相手のレベルでした。南アには当時マンチェスター・ユナイテッド所属のMFフォーチュンがいましたけど、スピードが凄まじかった。今までに感じたことのない速さで『このレベルがマンUなんだ』と実感したんです。『このレベルに到達しないと世界では戦えない』と危機感が強まったのをよく覚えています。トルシエは練習で間合いや寄せ方を強調していたけど、相手がボールを持っている状況によってどんな準備をすべきか、どうやってプレスをかけるかを意識して戦ったつもりです。その基本を学び、身に着けたことで、僕は2002年ワールドカップの舞台に立てたし、ガンバで何度もタイトルを取ることもできた。海外ではプレーしませんでしたけど、シドニー五輪の経験が『世界基準』になったのは間違いないです」と明神はしみじみ言う。

デュエルに強いボランチの重要性を知らしめた男

 明神のような「デュエルに強い選手」が時間を追うごとに重要視されていったのも確かだ。彼の後、鈴木啓太(AuB株式会社代表取締役)や今野泰幸(磐田)、山口蛍(神戸)、井手口陽介(G大阪)とボール奪取力と豊富な運動量、献身性に秀でたボランチが代表で活躍したが、トルシエは「そういう存在がいてこそチームが円滑に動く」というのをよく分かっていたのだろう。だからこそ、2002年日韓ワールドカップでも稲本潤一(相模原)や戸田和幸、福西崇史(ともに解説者)らを抜擢している。右サイドバックとボランチの両方をこなす明神は使い勝手のいい存在だったに違いない。

東京世代は代表活動期間が激減

 2022年カタールワールドカップを目指している森保一監督も「東京五輪経由カタール行き」の選手を数多く育て上げて、トルシエと同じような成功を収めたいと思い描いていたはず。協会の田嶋幸三会長が兼任監督に据えたのも、やはり同様な考えがあったからだろう。

 しかし、当時と現在の代表の置かれた環境は大きく異なっており、代表活動期間は著しく減っている。「Jリーグが週1ペースで行われている時の月火水曜日にJヴィレッジへ行って、毎月のように合宿をした覚えがあります」と明神も述懐していたが、当時はJのチーム数が少なく、日程に余裕があったうえ、代表至上主義がまかり通っていたから、そういう強化ができたのだ。

 けれども、今は選手の大半が欧州組で招集がままならず、国内組だけで合宿をしようにも、Jの日程が詰まっていて時間的余裕がない。新型コロナウイルスの感染拡大によって、東京五輪が1年ずれ込み、新たな強化時間が生まれたといっても、Jリーグさえいつ再開できるか分からない状況だけに、五輪代表強化が十分にできるとも言い切れない部分があるのだ。

「1年延期の困難を乗り越え、世界を体感してほしい」

 年齢制限はU-24になったとはいえ、来年はカタールワールドカップアジア最終予選も控えている。久保建英(マジョルカ)や堂安律(PSV)らはA代表優先になると見られるため、「五輪経由カタール」という育て方ができるか全くの未知数なのだ。

「五輪が1年遅れるのは選手にとってもきついだろうし、監督にとってもビジョンを描きにくいところがあると思いますけど、やっぱり五輪が世界の同世代のタレントと真剣勝負できる貴重なチャンスであることには変わりないと思うんです。僕がフォーチュンとマッチアップして世界を感じたように、今の東京五輪世代もそういう経験ができると思う。だからぜひ経験してほしいし、気づきを得る機会にしてほしいと思います」

 41歳まで現役を続け、2019年末までキャリアを続けた明神の言葉には重みがある。現状では東京五輪の開催も確実とは言い切れない部分があるが、その大舞台を目指して選手個々が最大限成長すること。97年1月1日生まれ以下の選手たちにはまずそれを最優先に考えてほしいものだ。