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ドラマ「日本沈没」田所博士と世良教授の論争は、明治時代の実話をモデルにしているのでは

森田正光気象解説者/気象予報士/ウェザーマップ会長
海底火山噴火(写真:海上保安庁/ロイター/アフロ)

 この秋、TBS系列で放送されているドラマ「日本沈没」は、1973年に出版された小松左京の小説を現代風にアレンジしたものです。

 原作は、1912年にドイツの気象学者、アルフレッド・ウェゲナーが発表した「大陸移動説」の理論を斬新な形でSFの世界に取り入れたもので、当時、社会的ブームになりました。

 今回のドラマでは原作にはない設定も当然あります。なかでも、「関東沈没」を主張する田所博士(香川照之)と、地球物理学の権威である世良教授(國村隼)の論争は原作にはありませんが、情報開示をめぐっての立場の違いは、現代的なリアリティが感じられました。

 二人の主張を簡単に述べると、伊豆諸島近海の日之島(架空の島)が沈んだことや海底に異変があることなどから、「関東沈没」が近いと主張する田所博士、それに対して、その説は証拠も無いのに人心を惑わせるだけだ、と世良教授は批判しました。

 物語の設定上、田所博士の主張が正しいということになっていくのですが、果たして、不確かな情報をそのまま政府発表として出していいのかは、議論の分かれるところだと思います。

 そしてこの論争を見て、私は実際にあった過去の地震論争を思い出しました。

関東大震災を予言した地震学者

大森房吉と今村明恒(パブリックドメイン)
大森房吉と今村明恒(パブリックドメイン)

 関東大震災が起こった1923年(大正12年)より、遡ることおよそ30年前の1891年(明治24年)、日本史上最大の内陸型地震が濃尾地方を襲いました。この濃尾地震に触発された、ある二人の地震学者がいます。

 一人は大森房吉(おおもりふさきち)です。大森は濃尾地震での被害状況など、独自の調査を行い、その後、世界に先駆けて連続記録可能な「大森式地震計」を開発します。さらに震度を七階級に分けた絶対震度階の提唱や、震源距離を求める「大森公式」なども考案しました。彼は、東京帝国大学教授でもあり、当時の地震学の最高権威でもありました。

 そしてもう一人は、今村明恒(いまむらあきつね)です。今村は大森の二歳年下で濃尾地震の時はまだ学生でした。二歳しか年齢は離れていないのですが、この年齢差もあってか今村は助教授時代が長く、「万年助教授」とも陰口を叩かれていたそうです。

 その二人が最初に対立したのは、1896年(明治29年)の明治三陸地震津波でした。当時、津波の原因はまだ分かっていなくて、今村は「海底地殻変動説」を、大森は「液体振り子説」を主張しました。

 「海底地殻変動説」はいわゆる、海底のプレートが動くことにより発生するという現代の説に近いもの、一方、「液体振り子説」は、港湾などで波と波が共鳴して大きくなるような現象を言ったもののようです。現代でも異常潮位などが観測されると、その原因は港湾内における副振動などだったりするので、それが突飛な説というわけではありませんが、現代からみると、今村の「海底地殻変動説」に分があるでしょう。

今村博士の主張と大森教授の論争

総合雑誌「太陽」1895年(明治28年)創刊号(パブリックドメイン)
総合雑誌「太陽」1895年(明治28年)創刊号(パブリックドメイン)

 二人の関係が決定的に悪くなったのは、今村が1905年(明治38年)に総合雑誌”太陽・9月号”で発表した一文でした。

 この中で今村は「大地震は平均100年に一回起きている。安政2年(1855年)※以降、すでに50年が経過している。次の大地震までは多少の時期があるかも知れないけれど、江戸時代には大地震が54年後に発生したこともあるので、防災は一日の猶予もならない」(筆者意訳)と述べました。そしてもし地震が起きたら、石油ランプによる火災などで、東京の死者は10万~20万人に達するとも書きました。

 この記事自体は注意喚起を呼びかけるもので、それほど過激という印象はありません。ところがその翌年、この一文が”東京二六新聞”に「今村博士の大地震襲来説・東京市大罹災の予言」として記事化されると、他の新聞も地震関連記事を書くようになります。

 実は”東京二六新聞”は今村に確認をしておらず、あたかも大地震がすぐにも来るような印象を与えたのです。

 そしてこの騒ぎを収める意図もあったのか、今度は大森が”読売新聞”で「大地震の襲来は浮説に就きて」として、今村説は根拠の無いものと切り捨てます。これに対し今村は過去の統計を元に大森に反論します。すると大森は「不完全なる統計に依れる調査だ」として、再び反論。

 こうした論争はその後10年以上にわたって雑誌・新聞などで繰り返されました。一説には、大森は政府の要職に就いており、人心を惑わす言説に対して敏感だったのでは、とも言われています。

そして関東大震災がやってきた

関東大震災時の様子
関東大震災時の様子提供:MeijiShowa/アフロ

 大森は過去の地震から、地震が起きる場所には規則性があり地震帯の中であっても震源は移動し、同じ場所では地震は起こらないと考えていました。対して今村は周期性に着目し、同じ場所でも繰り返し起きると考えていました。

 それが関東大地震に対しても、今村は100年程度の周期と考え、大森は数百年に一回と考えた根拠でした。

 そして1923年(大正12年)9月1日、安政地震から68年後に首都圏は大地震に見舞われました。死者は推定で10万5千人。死者の大半は火災によるもので今村の危惧が現実のものとなってしまいました。

 大森はオーストラリア出張中に関東大震災を知り失意の帰国後、震災から約1か月後の11月8日に脳腫瘍でこの世を去りました。

 結果的にこの論争に敗れた大森ですが、地震学の発展に寄与したことから現在でも「日本地震学の父」と呼ばれています。

備えあれば憂いなし

 こうしてみると、ドラマ・日本沈没の田所博士を今村博士、世良教授を大森教授とダブらせてみることもできるでしょう。

 ただ、昔も今も地震予知が難しいことに変わりはありません。わが国では1960年代から地震予知が国家的プロジェクトになりましたが、近年では困難な予知よりも、いつ地震が来ても大丈夫なように備えることの方が重要ではないかという方向に変わってきました。

 気象庁のホームページ”地震予知”の項目には、以下のように書いてあります。

「一般に、日時と場所を特定した地震を予知する情報はデマと考えられます。」

 ドラマ「日本沈没」はフィクションですから、そのまま楽しめばいいのでしょうが、現実の問題としてとらえてみると、田所博士と世良教授、今村博士と大森教授の論争は、正しいか間違っているかの問題ではないような気がします。要は、備えあれば憂いなしということなのでしょう。

注※ 安政江戸地震

参考

「関東大地震をめぐる大森・今村論争から学ぶべきもの」小和田欣裕執筆 開発土木研究所月報1995年6月号

「大森房吉と今村明恒」東京大学地震研究所HP                  

「地震学偉人伝・信念の人今村明恒」桑原央治執筆 日本地震学会広報誌

「幻の地震”予知”日本を揺るがした大論争」2021年10月29日放送 NHKEテレ

気象解説者/気象予報士/ウェザーマップ会長

1950年名古屋市生まれ。日本気象協会に入り、東海本部、東京本部勤務を経て41歳で独立、フリーのお天気キャスターとなる。1992年、民間気象会社ウェザーマップを設立。テレビやラジオでの気象解説のほか講演活動、執筆などを行っている。天気と社会現象の関わりについて、見聞きしたこと、思うことを述べていきたい。2017年8月『天気のしくみ ―雲のでき方からオーロラの正体まで― 』(共立出版)という本を出版しました。

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