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分家の家老だった織田信長のルーツ

森岡浩姓氏研究家
信長が本拠とした岐阜城跡(筆者撮影)

大河ドラマ「どうする家康」で、武田信玄没後、将軍足利義昭も追い一挙に天下の掌握に近づいた織田信長。この織田家とはそもそもどういう家なのだろうか。

織田氏のルーツ

織田氏は尾張の戦国大名であった。しかし、信長はその嫡流の生まれではない。

織田氏は系図上では平重盛の子資盛を祖としている。

『織田家譜』などによると、平氏が滅亡した際に資盛が壇ノ浦で自害すると、その妻は幼児だった親真を抱いて近江国蒲生郡津田荘(現在の滋賀県近江八幡市)に逃れ、のちにこの親真が越前国敦賀郡織田(現在の福井県丹生郡越前町織田)の剱神社の神官の養子となって織田氏を称したのが祖という。

しかし、この系図が詐称であることは明白で、現在では忌部氏の一族といわれており、平成23年には祖親真の墓が越前町で発見されている。織田荘荘官をつとめていた織田氏が守護斯波氏の被官化し、やがて勢力を蓄えていったものとみられる。

尾張織田氏

越前守護斯波氏の家臣となった織田氏は、斯波義重が尾張守護を兼ねると、常昌が守護代に抜擢されて尾張に転じた。

やがて織田氏は、岩倉城に拠って丹羽・羽栗・中島・春日井の尾張上4郡を支配する嫡流の岩倉織田家(伊勢守家)と、清洲城に拠って斯波氏を奉じ、海東・海西・愛知・知多の尾張下4郡を支配する清洲織田家(大和守家)に分裂して争った。両織田家の系譜については諸説ありはっきりしない。

このうち、清洲織田家は戦国時代には尾張下4郡を支配したとされるが、永正10年(1513)に達定が守護斯波義達と対立して討死し、以後因幡守家・藤左衛門尉家・弾正忠家の3庶子家が家老として事実上支配した。

この清洲織田家の3家老のうち、実権を握ったのが弾正忠家である。勝幡(しょばた、現在の愛知県愛西市勝幡町)城に拠っていたことから、勝幡織田家とも呼ばれ、当時伊勢湾水運の拠点であった津島を支配下に置いて経済力を蓄えた。

信長の立ち位置

信長が生まれたのはこの勝幡織田家で、織田氏全体からみれば、「分家の家老の1つ」という位置にすぎない。

しかし、信長の父信秀は那古野城(現在の名古屋市中区)に転じて勢力を広げ、斎藤道三の娘を嫡男信長の嫁に迎えて斎藤氏と結ぶなど、主家である清洲織田家を凌ぐ力を持っていた。

そして、天文20年(1551)に家督を継いだ信長は、主家である清洲城主織田信友や、弟信行、異母兄信広を討って清洲織田家を統一。さらに永禄元年(1558)には嫡流である岩倉城主信賢も討って、織田氏全体を統一している。

これは、嫡流とはいいながら、多くの有力庶子家との対立を乗り越えて松平氏全体を統一した家康と立ち位置的には似ているといえないこともない。

このあたりが、名門の嫡流として武田家を継いだ勝頼との大きな違いである。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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