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「鎌倉殿の13人」、勝ち残った三浦一族のその後

森岡浩姓氏研究家
三浦一族のルーツの地、横須賀市佐島地区(筆者撮影)

鎌倉幕府の成立後、次々と幕府内での粛清を繰り返し、有力一族を滅ぼしてきた北条義時。最後に勝ち残ったのは、武家では義時と三浦義村だった。承久の乱後義時は急死したものの、引き続き北条一族は執権として鎌倉幕府を運営した。では、三浦一族はその後どうなったのだろうか。

三浦義村のその後

建暦3年(1213)に起こった和田の乱で三浦義村の従兄弟の和田義盛が討たれると、義村が惣領となって三浦一族を率いた。そして、承久の乱でも京方となった弟胤義の誘いを拒否して幕府方として活躍する。以後、一族で河内・紀伊・讃岐・土佐の守護をつとめる他、義村や泰村・光村(ともに義村の子)は評定衆となるなど全盛期を築いた。

しかし、その繁栄は長く続かなかった。次第に北条氏との対立を深めていき、宝治元年(1247)に5代執権北条時頼の策謀で宝治合戦を起こして一族はほぼ滅亡した。

この際、一族の佐原盛連は北条氏の縁戚であったことから、その子らは北条方に参加。乱後、盛連の子盛時が本家を次いで三浦介を継承、新たに「三浦」を名乗った。しかし、以後相模国には守護が設置されず、かつての勢力を回復することはできなかった。

その後の三浦氏

鎌倉幕府が滅んだ後も三浦一族は生き延びる。室町時代には鎌倉公方に仕え、永享10年(1438)の永享の乱で時高は鎌倉公方足利持氏を自殺に追い込んで、関東地方に大きな勢力を得た。

時高は上杉氏から義同を養子として迎えたが、その後実子が生まれたことから時高と義同は不和となる。そして、明応3年(1494)義同は時高を討って三浦氏を継ぎ岡崎城に拠って、相模の戦国大名として名を馳せた。

しかし、永正9年(1512)伊豆から侵入してきた北条早雲に敗れて岡崎城が落城、義同は子義意とともに新井城に籠城したが、同13年には新井城も落城。義同・義意ともに討死してついに相模三浦氏は滅亡した。

全国に広がった三浦氏

三浦本家は滅亡したが、三浦一族は全国に広がった。

討死した義意の弟の時綱は里見氏を頼って安房に逃れて正木義時の養子となり、子孫は江戸時代紀伊藩家老となっている。

この他、鎌倉時代に各地に所領を得て広がった一族は各地に根を下ろし、土地の有力氏族となった。戦国時代の美作国に戦国大名三浦氏がいた他、江戸時代にも美作勝山藩主に三浦氏があり、いずれもこの三浦氏の末裔と伝えている。

この他にも各地に三浦氏があり、そのほとんどは相模三浦氏の一族の末裔であると伝えている。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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