Yahoo!ニュース

女性差別や環境汚染など母国の現実を歪めることなく。始まりは行方不明になっていた男の帰郷の記事

水上賢治映画ライター
「父は憶えている」より

 ロシアに出稼ぎに行ったきり行方がわからなっていたひとりの男が、23年ぶりに母国キルギスに戻ってくる。

 ところが男は記憶喪失の上、言葉も失った状態。久々に再会した家族や知人のことがわからないどころか、彼らと言葉を交わすこともできない。

 しかし、彼の心の中には、記憶を失ってもなお消えることのない大切な思い出があるのだった……。

 映画「父は憶えている」の簡単なあらすじはこんなところだ。

 なにか偉業を成し遂げたり、特別な個性をもった人間ではない。

 市井の人間である男の記憶をめぐるエピソードがシンプルに語られる。

 ただ、世界からみれば、ちっぽけな存在に過ぎない男の個人的な物語が、いまという時代、いまを生きる人々の生活の営み、そして心の在り様にまでつながり、その中では、女性差別、宗教問題、環境汚染といった社会問題に鋭い眼差しを注ぐ。

 個人の物語からいままさに世界で起きている諸問題に言及した驚くべき広がりをもった一作となっている。

 手掛けたのは「あの娘と自転車に乗って」や「馬を放つ」などで知られる中央アジア・キルギスの名匠、アクタン・アリム・クバト監督。

 フランスの芸術文化勲章「シュヴァリエ」を受章するなど、世界で高い評価を得ている彼に訊く。全四回。

アクタン・アリム・クバト監督
アクタン・アリム・クバト監督

言葉や記憶を失っても気高い魂を失っていない彼を軸にすることで、

いい方向に進んでいるとは言い難いキルギスの今を描こうと思いました

 はじめに、キルギスの村に、23年ぶりにひとりの男・ザールクが戻ってくるという物語は、あるニュースに触れたことが出発点になってできていったという。

「あるとき、行方不明になっていた人間が23年を経て見つかり、故郷に戻ったというニュースをインターネットの記事で目にしました。

 そのことがアイデアの基礎となって、記憶を失った男にまつわるストーリーが出来上がっていきました。

 視点として大切にしたのは、記憶と言葉を失ってしまった主人公のザールク自身がどういうことになるか、ではなく、彼を知る人々がどういう反応をすることになるのか。

 父であるザールクを家に迎えることになった息子のクバトと彼の妻と娘、すでにザールクは死んだと思い、いろいろな事情があって別の男と結婚してしまったウムスナイとその現夫と姑、ザールクのことをよく知る親戚や友人ら。彼らが長らく不在だった上、記憶と言葉を失って戻ってきたザールクと再会して、どんなことを思い、どんな変化が起こるのかを描こうと思いました。

 本作において、いわばザールクはリトマス試験紙のような存在で、道徳の指標となっているといっていい。

 ある意味、言葉や記憶を失っても気高い魂を失っていない彼を軸にすることで、決していい方向に進んでいるとは言い難いキルギスの今を描こうと思いました。また、キルギスの今の社会に起きている問題というのは、なにもキルギスだけに起こっているわけではない。世界のあらゆる場所でも起こっているとの思いもありました」

キルギスでいま起こっていることを、事実を歪めることなく

 この監督の言葉が表すように、本作はザールクという男の23年ぶりの帰郷から、家族における女性の立場、宗教、環境問題といった現代のキルギスの社会問題であり、世界の社会問題でもあることが次々と浮かびあがる。

「キルギスでいま起こっていることを、事実を歪めることなく描こうと思いました。

 イスラム教の過激化、家族関係の変化、ごみ問題、すべて実際に起こっていることです。

 たとえば、たぶんこの映画を見てくださった方は、わかると思いますが、今回の舞台となった場所は豊かな自然に囲まれたエリアです。しかし、そこら中にごみが散乱している。にわかに信じがたいと思います。でも、事実なのです。

 ゴミ問題というのはいま世界中で起こっている大きな問題です。キルギスも例外ではありません。

 キルギスに関して言えば、ごみ問題が起きたのは、ソ連崩壊後といっていいでしょう。

 ソ連崩壊後、ほかの多くの世界と同じく、社会にいろいろなモノが入ってきて、大量に消費されることになった。

 でも、そこでごみを廃棄することに注意が払われなかった。

 それとともに人々もゴミが身近なところに落ちていても気にしなくなってしまった。

 いまも年々、ごみの量は増え続け、土地がごみであふれるようなことになっています。

 作品内で、ごみ廃棄場が出てきますが、あの場所はわたしが暮らす場所のすぐ近くにあります。

 広大な土地のゴミ捨て場と思われるかもしれません。

 でも、キルギスにおいてあのごみ捨て場はたいした規模ではありません。

 もっと巨大でひどい状況のごみ集積場があります。発火したごみによる煙が何十年にわたって燻り続け、常にガスがかかったようになっている集積場があります。

 本来であればごみをリサイクルできるものと区分けして、きちんと処理しなければならない。でも、キルギスにそういったごみ処理場はありません。

 すべてのごみを集積場に集めて埋め立てる形になっているのが現状です。

 ですので、そういった意味で、キルギスは環境問題に関しては最大レベルの危機に瀕している国の一つです。

 自分たちが招いていることではありますが、嘆かわしいことです」

(※第二回に続く)

「父は憶えている」メインビジュアル
「父は憶えている」メインビジュアル

「父は憶えている」

監督・脚本・主演:アクタン・アリム・クバト

脚本:ダルミラ・チレブベルゲノワ

撮影:タラント・アキンベコフ

編集:エフゲニー・クロクマレンコ

出演:ミルラン・アブディカリコフ、タアライカン・アバゾヴァ

公式HP: www.bitters.co.jp/oboeteiru/

新宿武蔵野館ほか全国順次公開中

写真はすべて(C)Kyrgyzfilm, Oy Art, Bitters End, Volya Films, Mandra Films

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

水上賢治の最近の記事