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自由な活動ができないもどかしさ。冷めない創作への意欲。自分を信じた芸術家たちを描く

水上賢治映画ライター
リモート取材に応じてくれたアレクセイ・ゲルマン・ジュニア監督

 映画『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』は、20世紀のロシアを代表する作家、セルゲイ・ドヴラートフの物語。1970年代のレニングラードでの彼の活動時期に焦点を当てている。

 この時期というのは彼にとって恵まれないころ。ソビエト政府から弾圧とまではいかないが自由な表現を許されない彼は、作品を発表する機会を奪われ、生活もままならない。こののちに彼は移民としてニューヨークへ亡命。その功績がロシアで認められ、国民的作家と呼ばれるようになったのは死後だった。

 なにか遠い国のひと昔前の話に思えるかもしれないが、国や権力を持つ者の意向で創作が規制される光景は、あいちトリエンナーレにおける「平和の少女像」展示中止問題や、映画『主戦場』の映画祭での上映中止騒動などが起きた昨今の日本と妙に重なる。さらに、「忖度」という言葉が当たり前のように使われるようになったいまの日本の政治状況とも重なるといっていいかもしれない。また、表現する場を失ったドヴラートフの姿は、コロナ禍で活動がストップしてしまったすべてのアーティストとダブるかもしれない。

この作品は、わたしの偉大な作家たちへの尊敬と、父と家族への想いが核になっている

 手掛けたのは『神々のたそがれ』などで知られる世界な巨匠、アレクセイ・ゲルマンを父に持つ、アレクセイ・ゲルマン・ジュニア監督。まず、自身とドヴラートフとの関係をこう明かす。

「実は、父とドヴラートフには交流がありました。家が近所で距離にして2キロぐらいで、往来があった。そういうこともあって、たとえばドヴラートフのニューヨーク時代の話とか、警察につかまった話とかなかなか他人には明かせない逸話も(笑)、父から伝え聞いていました。他の人が見たことないようなプライベートな写真も、たくさん見たことがあります。なので、僕にとってもどこか身近に感じられる存在でした。

 父から聞いたことや見た写真の印象としては、孤独な作家だなと。というのも、いろいろ写真は見ましたが、彼が笑っている写真は見たことがない。もしかしたら、ソビエト時代の不遇もあって苦悩の作家というようなイメージを彼自身が作り出していたのかもしれない。そう思うほど、微笑んでいるような写真もなかったので、その悲劇的な内容の作品のイメージも重なって、暗いイメージを抱いていたのは確かです」

 父から話を聞いてはいたものの、実際にドヴラートフの文学に触れたのは20代の半ばを過ぎてからだったという。

「遠ざけていたわけではないのですが、20代半ばでようやく手にして全作品を一気に読み尽くしました。世界的な作家ですから、おそらくそれぞれにイメージがあることでしょう。僕自身は手に取る前は、先ほど触れたように悲劇を書く作家というイメージがありました。ただ、一概にそうもいえないかもしれないなと。というのも、読み込んでいくと、ユーモアやアイロニーも含まれているところがある。だから、優れた悲喜劇の書き手という印象を持ちました。

 このころから、彼についての映画を作れたらと思っていました。ただ、どのように作ればいいかよくわからないまま時間が過ぎていってしまいました」

 15年もの間、試行錯誤を続け、ようやく今回の作品へたどり着いたという。

「長く悩みましたが、まず、ドヴラートフのわかいころに興味がわきました。そのころは、わたしの父もまた苦境にいるころでもあった。そして、ふたりは同じ町に住んでいた。また、詩人のヨシフ・ブロツキーをはじめ苦境に立たされた作家がほかにもたくさんいた。こうしたことをひとつにまとめて描いてみたいと思ったのです。

 打ち明けると、この作品は、わたしのドヴラートフおよびほかの作家たちへの尊敬と、わたしの父と家族への想いが作品の核になっているといっていいでしょう」

国外追放、上映中止、1971年ソビエトが意味すること

 作品は1970年代初頭のレニングラードが舞台。この時代を監督はこう語る。

この時代のソビエトというのは、少し緩んでいたネジがキュッと締められたといいますか。自由の残響がありながらも、政権による統制がじわじわとはじまり、なによりも体制の望むものが求められるようになり始めた。だから、反体制だけではなく、ドヴラートフのように反体制とは無関係ながらピュアに自由な創作を望むアーティストも不自由になり始めていた。自分の作品を世に出したい作家たちにとっては窮屈な時代への入り口でした」

 1971年という設定にも理由がある。

「理由はいくつかあります。ひとつはドヴラートフがまだ作家として広く知られる前、まだ何者にもなれていないときを描きたいと思いました。偉大な作家としての彼ではなく、ひとりの人間としての彼と向き合いたい想いがあったからです。

 それから、(ヨシフ・)ブロツキーの存在。この年は、彼がレニングラードにいた最後の年で、翌年、国外追放されてしまう。のちにノーベル賞を受賞する彼にも触れたかった。

 それから直接作品では触れていませんが、父のアレクセイ・ゲルマンが祖父のユーリー・ゲルマンの小説を原作とする映画『道中の点検』を発表したのが1971年のこと。この作品は検閲により上映禁止処分を受け、1986年までの15年間、ソビエトでの公開を中止されました。そういういくつかの要素からこの年にしました。

 そのことで、政治的な環境のせいで望むことができない、しかしそれでも自分を信じた才能ある芸術家たちの姿を、歴史と彼らの私生活を結びつけることで描けると思ったのです」

映画「ドヴラートフ レニングラードの作家たち」より
映画「ドヴラートフ レニングラードの作家たち」より

 アレクセイ・ゲルマン・ジュニア監督自身は1976年生まれ。ただ、1971年という時代の空気は覚えがあるという。

「実は、1971年から85年ぐらいまで、ソビエトというのは変化があまりなかった。だから、わたしの少年時代というのも重なるところがあるといっていいでしょう。

 よく覚えているのは、町の暗さというかな。とにかく町に色がなくてグレイのようなイメージです。それから、完全に自分を発揮できないといいますか。わたしの父と母も文化人でしたから、作家をはじめとしたいわゆる知識人がなにもできないでいたこともなんとなく記憶しています。

 それから、亡命や移住についてよく会話の話題に上がっていた。このことも記憶にありますね。その話でいうと、わたしには、アメリカに渡った叔父がひとりいるのですが、彼は億万長者になった。その叔父は、うちの父にそのとき最も高いソビエトの車をプレゼントしてくれました。まだ、ソビエトでは個人所有の車がほとんどなかったころです。一方、ドヴラートフはその逆でアメリカに渡っても貧しい生活から抜けられなかった。亡命者の光と影といいますか。そんなことも今回の作品は考える機会になりましたね」

6日間の物語で、その作家の人生観を浮かび上がらせる

 作品は、1971年、ロシア革命記念日である11月7日前日までの6日間に絞り、ジャーナリストとして働きながら文筆活動をするドヴラートフの日常を描出。たった6日間で、彼の時流との格闘から、境遇、作家としての矜持、そして人生観までを浮かび上がらせる。この6日間に集約した理由をこう明かす。

「ドヴラートフの作品というのは、ドラマツルギーではない。なにか物事を順序だてて構成するような全体性や統一性をもつものではなく、エッセーのような短い文章を基調にしている。こうした彼の作家性を考えたとき、その生涯を語るにあたって、すべての人生を描くようなスタイルは違うんじゃないかと。たとえば、いつ生まれて、こういう子ども時代で、いつ結婚しましたというような構成ではないと思いました。

 彼の人生の一部を切り取っただけで、彼をズバッと表すような形こそ、ドヴラートフらしいんじゃないかと思ったのです」

才能をコントロールしようとする国。でも、芸術はコントロールできないもの

 その物語全体を通じて伝わってくるのは、権力者による弾圧や統制。それらがもたらす影響といっていい。

「いま、おっしゃったことはこの作品の重要なテーマです。ドヴラートフにしても、ブロツキーにしても、政権を批判するために創作をしていたわけではない。彼らは単純に自分自身でありたかっただけ。でも、それが許されず、国を去ることになる

 優れた者の才能の管理は、ロシアの問題のひとつ。国がアーティストの才能をコントロールしようとするところがロシアには常にある。芸術はコントロールできないものであるのに

 でも、いまや芸術はロシアに限らず、ほとんどの世界でコントロールされているといっていいでしょう。自由が歌われている国では、もはや芸術はお金でコントロールされている

 そういう意味で、自由な創作というのはもうどこに存在しないのかもしれない。

 映画に関しても、どうでしょうか?40年前の作品のほうが、自由な表現が許されているのではないでしょうか。わたしの好きな1970、80年代の映画というのは、自由があふれている。そういう作品がいまどんどん減っていっている気がしてなりません。

 また、ひと昔前は映画祭が、そうしたユニークな才能をもった人物を発見してくれる場だった。でも、いまや映画祭は、大きなプロジェクトをサポートするようなものになりつつある

 そういうことへの危惧もこの作品では表現したかったのです」

映画「ドヴラートフ レニングラードの作家たち」より
映画「ドヴラートフ レニングラードの作家たち」より

 では、自身の作家性はどうやって担保しているのだろう?

「これは大変なことです。本音をいってしまえば、担保しにくいというのが実情です。たとえば、内容や設定のわかりやすさ、予算のこと、これならこのぐらいの収入が見込めるといったマーケティング的なところ、すべてクリアすることが求められる。

 ほんとうに自由に作ることは厳しくなっている。毎回、せめぎ合いとだけいっておきましょう。

 ただ、その中でもいままで誰もやったことがないようなものを撮りたい。その気持ちだけは常に忘れないようにしています」

父は生涯をかけて困難なことを成し遂げようと闘っていた人

 「自由な表現」は、彼の父であるアレクセイ・ゲルマンもまた体現していたといっていいだろう。世界的に知られる偉大な監督である父は、彼の目にはどう映っていたのだろう?

生涯をかけて困難なことを成し遂げようと闘っていた人ですね。常に撮るのが不可能というようなことに果敢にあきらめずにトライしようとしていた。その分、苦悩することや逆境に見舞われることも多かった。それを間近で見ていた自分としては父は真の芸術家で、芸術を映画を極めようとしていた。そのことは理解していたつもりです

 ただ、ふだんは映画監督ではなく、父は父でした。ごく普通の温かい父子関係だったと思います」

 なぜ、父と同じ道を歩もうと思ったのだろうか?

「これは、成り行きです。気づいたらこうなっていた(苦笑)。ほかになにも見つけられなかったのです。

 実は映画監督になろうと思ったことはないんです。でも、映画に関わるうちに映画作りよりもおもしろいものを見つけられなかった。あるいは、この仕事しかおもしろいと思えなかった。それで気づけばといった感じです。

 いまは監督であった父の苦労がちょっとわかる気がします。映画作りというのは、場合によっては霧の中でひとり闘っているような気分になる。目の前がどうなっているかわからず、なかばやみくもになにか探し求め、つかもうとする。何度も霧を手で晴らそうとするのだけれど、振り払っている間にもまた違う霧が現れる。そういうものです。でも、だからこそなにか大切なことにたどり着ける」

 いま、父の背を見て思うことがある。

「父の映画作りというのは年を重ねれば重ねるほど、技術からなにからどんどんシンプルになっていった。いうなれば、いらないことをそぎ落として、ほんとうに必要なピュアなものだけ残すようだった。それは正しいようにいま監督をしていて感じます」

映画「ドヴラートフ レニングラードの作家たち」より
映画「ドヴラートフ レニングラードの作家たち」より

『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』

6月20日(土)より東京・ユーロスペース、6月26日(金)より大阪・テアトル梅田/京都・京都シネマ、7月10日(金)より埼玉・ユナイテッド・シネマ ウニクス南古谷/石川・ユナイテッド・シネマ金沢/福岡・ユナイテッド・シネマ キャナルシティ13にて公開。以後、全国順次公開予定

写真はすべて(C)2018 SAGa/ Channel One Russia/ Message Film/ Eurimages

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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