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公開延期が相次ぐいま、新作映画を「仮設」で上映へ。想田和弘監督『精神0』の試み

水上賢治映画ライター
想田和弘監督 提供:東風

 すでに周知の事実ではあるが、新型コロナウイルス禍の深刻化と、感染者増加に対応する緊急事態宣言によって映画館は閉館が余儀なくされ、全国の映画館が危機に立たされている。同時に公開を予定していた新作映画の公開延期も相次ぎ、先行きはまだ見えない。

 その中で、想田和弘監督の『精神0』は、本来の「劇場」での公開とは違う形ではあるが、とにもかくにも予定通り5月2日に公開を迎えた。劇場が閉館する中、デジタル配信による「仮設の映画館」での公開を決めた理由、このような非常時に新作映画を届ける意味など、想田監督にリモート取材で話しを聞いた。

2008年の『精神』のころは、ジャーナリズムの癖のようなものが残っていた

 まずは異例の形ではあるが無事公開という船出を迎えた『精神0』の話から。本作の話に入るには、先に前段に当たる 2008 年に発表した『精神』を 振り返らなくてはいけない。岡山にある精神科診療所「こらーる岡山」に通院する患者と彼らと向き合う山本昌知医師の毎日を記録した本作は、現代人の心の在り様をみつめた。同時に学生時代、心を病んだことのあった想田自身が「人間のメンタル」という一度向き合いたいと考えていたテーマに臨んだ作品でもあった。いまあたらめてこの作品を想田監督はこう振り返る。

「いま見ると、『精神』のときは自分の中にジャーナリズムの癖のようなものがまだ強く残っていて、その枠組みの中で映画を作っていたような気がします。どういうことかというと、NHKで放送されるドキュメンタリーを量産していた時期が7年間あって、その手法に対するアンチテーゼといいますか、その作り方を否定することから僕の観察映画は始まった。それで、事前のリサーチをしないとか、台本を書かないといった観察映画の十戒を作ったわけです。でも、当時はまだそうなりきれていないというか。自分自身、常に焦っていたような覚えがあるんですよ。 『もっといろいろな患者さんを登場させた方がいいんじゃないか』とか、『ドラマチックなことが起きた瞬間をとらえないと駄目なんじゃないか』とか(苦笑) 。テレビ時代にずっとそういうことを求められてきたから。その癖がまだ抜けき っていない気がします」

 対して今回の『精神0』は、そこから完全に脱したことを実感したと明かす。

「7日間しかカメラを回していないし、シーンも大体、5 場面ぐらいしかないんですよ。大きく分けると。で、撮れてるものも本当に日常的な場面ばかり。でも、それでも、『足りないんじゃないか』といった不安に苛まれることはなかった。むしろ『これは見ごたえのある映画になるんじゃないか』という妙な確信があったんですよ。『精神』のときだったら、 怖くて撮影を終えられなかったんじゃないかと思います」

 ただ、出発点はいつもと変わらなかった。

「どの作品も出発は個人的な動機からなんですけど、今回もそうで。山本先生が引退されると聞いたとき、時の流れを痛切に感じました。同時に、そのことが僕が子どものころから興味を抱いていた『老い』や『死』という問題とも、つながってみえた。そこからこの作品は始まった気がします」

山本先生の引退は、恐れていた日が『いよいよ来てしまった』という感覚

 『精神0』は『精神』の続編というか。姉妹編とも、いや完結編ともいうべき1作。『精神』は、心の病にある人々を中心に置きながら、「こらーる岡山」という精神科の診療所の場がみえてくるようなところがあった。あくまで診察にあたる山本医師は登場人物のひとりに過ぎなかった。対して、今回の『精神0』は、引退を決めた山本医師をクローズアップする。山本医師の引退を知ったときをこう振り返る。

「自分の中で恐れていた日が『いよいよ来てしまった』という感覚でした。(山本医師の妻の)芳子さんが病を患っておられることは知っていたので、『これからは 2人の時間を持つ決心をされたんだな』とも思いました」

映画『精神0』より
映画『精神0』より

 引退の話を聞いて、すぐに撮影に行くことを決めたという。

「山本先生が引退されると聞いたのが 2018 年2月のこと。そして、翌月の3月いっぱいで辞めると聞き、もうこれはすぐに行くしかないなと。取る者も取り敢えず、カメラを抱えて現場に向かった感じですね。だから、今まで以上にほんとうに『何が撮れて、どんな映画になるのか』まったく分からないまま、撮影に入った気がします」

 『精神』をすでにみている方ならば、山本医師の引退が意味することの重大さはわかるに違いない。ただ、『精神0』に映し出される山本医師を目にすると、引退もやむなしと思わざるえない。高齢を迎えた山本医師だが、まだまだ聡明で患者との向き合い方もまったくかわらない。でも、確実に月日は流れ、その様子から何か潮時が迫っていることを感じざるを得ない。

「人間が老いるというのは、自然の摂理です。不死身の人はいないっていうことです。人類の中にひとりも、死を迎えなかった人間はいないわけですから。そういうことだと思います」

実は「こらーる岡山」はすでに閉鎖されていた

 作品は、引退のその日まで患者たちと真摯に向き合おうとする山本医師の日常に並走。山本医師の診察を心のよりどころにしてきた患者たちの気持ちはざわつき、不安を隠せない。そこからは山本医師とこの地域に根付いてきた診療所の存在の大きさがにわかにたちのぼってくる。その場はひとつのユートピアのように映る。

「映画の中で説明はしていないんですけど、実のところ『こらーる岡山』は 2016 年に閉鎖しているんです。その後、別の先生が診療所の施設をひきとり、大和診療所として開院し、そこに山本先生が非常勤で入り診療を続けておられたんですね。つまり、すでにこらーる岡山は数年前に消滅していた。でも、山本先生の診察は変わらず続いていて、先生を慕う患者のみなさんは通い続けていたわけです。

 撮影はある意味、失われつつあった場所が、山本先生の引退でいよいよ永遠に無くなってしまう時期でした。たぶん患者さんのみなさんも、心の片隅で察していたと思うんです。『もう先生も高齢だし、いつかお別れの日が来るんだ』と。でも、そうはいってもなかなかその現実を受け入れられない。どこか信じたくない。けど、来るべき日は近づいてくる。みなさん『ついにこの日がきてしまった。ほんとうにこの場所がいよいよなくなってしまうのか』という気持ちだったと思います。僕も同じで、ほんとうにかけがえのない場所だっ たんだと思います」

お墓参りは、奇跡的なシーンだなと撮りながら思った

 この山本医師の引退が本作の主題になっていることは間違いない。ただ、そのことに言及はしていない。引退の理由についてもあえて触れていない(それはみてもらえれば察しはつく)。ここでむしろみつめたのは、引退を決めた山本医師のこれからといっていいかもしれない。そこに視点をおいたとき、山本医師の矜持であり、精神科医としてまっとうしたこれまでの歩みが鮮明に浮かびあがる。そして、それは妻の芳子さんとの軌跡でもある。山本夫妻が墓参りに向かう終盤のシークエンスは、さながらロードムービーのよう。苦楽をともにしてきた二人の歩みを表しているように感じてしまうのはわたしだけだろうか。

「撮影に入るとき、きっと山本先生だけではなく、ずっと伴走されてきた芳子さんも撮らせていただくことになるのだろうなという感覚は、漠然とですけど、ありました。

 お墓参りに関しては、いろんな意味で奇跡的なシーンだな、と撮りながら思っていました。もっというと、撮りながらこれはたぶん、この作品のひとつの核というか。作品全体を体 現するようなシーンになるんじゃないかなと。

 あの墓参りだけを抜き出して見るならば、『おじいさんとおばあさんが墓参りをしてるな』ぐらいの印象でしかないかもしれない。でも、'''僕はそこに山本先生と芳子さんの人生が凝縮されてるように感じたし、もっといえば、人として生きるというのはこういうことなん

じゃないかとさえ思った'''。だから、編集の一つの目標は、あのお墓参りに『文脈』を与えることでした。極論すると、あの場面を理解してもらうために、それまでのシーンを組み立てていったわけです」

映画『精神0』より
映画『精神0』より

 こうした夫婦の軌跡が自然と語られる一方で、引退を決意した山本医師の人間性も浮かび上がる。どんな心の病を抱えた人も、ありのまま受け入れる。その山本医師の人間力と人としての器にはもう感服するしかない。コロナ禍でさまざまな場面で言い争いや誹謗中傷が絶えないいま、山本医師の姿勢は人として失いたくない心を教えてくれるよう。正直、なかなかその境地まで達することは難しいが……。

「なかなか、ああいうふうにはなれませんよね。山本先生にはまず、あのように患者さんと向き合える素養があるんだと思います。それプラス、長年の経験ですよね。精神科の診療を続けられる中で、患者さん本位の支援をずっと、もう何十年もライフワークとしてされてきた。山本先生いわく『いろいろな間違いを犯してきた』とおっしゃる。『失敗ばっかりじゃ』と。でも、その失敗を繰り返しながら、試行錯誤でいろいろやってこられて、そのような域に達したと思うんですよね。医師と患者とかこえて人と人として向き合うような。

 そしていま、それがすごく山本先生ご自身や、芳子さんの助けになっている気がします。これまで他人を助けるためにいろいろと尽力され、多くの経験をされてきて、それがすべてご自身を助けることにつながっている。そういうふうに、僕には見えました。それまでの行いが結局、最後は自分に返ってくるんだなと思いましたね。

 というのも、ちょっと形は違いますけど、変な話、山本先生と芳子さんの状態は、お二人が助けられてきた患者さんと似たような状態ですよね。もしお二人が患者さんのことをリスペクトせず、人間扱いしてこない人生を過ごしてきたのだとしたら、おそらく今の自分たちのこともリスペクトできないし、人間扱いできない気がするんですよね。

 山本先生は他者を、患者さんたちを人間としてずっと支えてきた。ひとりの人間として接して、どうしたら人間らしく治療を進めていけるのかっていうことをずっと追求されてきた。それがそのまま、芳子さんとの接し方や、ご自分自身との接し方に表れているんだと思います。もう達人です。そう簡単には真似できないです(笑)」

 

 「いじめたり、蹴落としたりする時代、生きていることがすげえことじゃ」「よくやけ起こさなかったな」など、訪れてくる患者に対してかける山本医師の意表をつく言葉、山本語録にも心打たれる。

「ほんとうにすごい。実は僕も、『精神』の後、けっこう個人的な悩みがあると相談させていただいたりして、そのたびに助けられていたんですよ。意外な答えが返ってくるんですけど、でもその意外な答えが実に山本先生らしく、助けになるんです」

 先述した通り、撮影は1週間で終わった。それはにわかに信じがたいが……。

「当然ですけど、期限は決めていませんでした。当初は2年ぐらい撮らせてもらうことになるんじゃないかと、漠然と思っていました。

 ところが 5 日目の撮影が終わったときに、『精神』のときから取材をしてくださっている地元の山陽新聞の記者さんがいらっしゃるんですけど、彼から取材を受けたんですよ。『今回の映画は、どんなものになりそうですか?』と。それで、僕は『いやあ、まだ始めたばっかりだから、何にも分かんないんですよ』って言いながら、いままで何を撮ったかを説明したんです。で、撮れたシーンを並べていったとき気づいた。『あれ、もうほとんど作品1本分撮れてるじゃん』と(笑)

 それで山本先生に申し上げたんです。『もうだいたい撮れたので、これで撮影は終わりです』と。そうしたら、先生が『もう一軒、芳子さんのお友達のうちに行かん?』と言われて、『じ ゃあ』とついていって、あのお宅におじゃまして撮影はほぼ終了でした。

 でも、いま考えると、芳子さんのお友達のお宅のシーンは絶対に必要不可欠で。あれなしで撮影を終えようとしていた自分には、ヤバかったなあと思いますね。あのシーンが入るか入らないかで、作品の深みがまったく違う。危なかったです(苦笑)」

 ただ、撮影期間が短いからといって取材を簡単に済ましたと勘違いしてはいけない。要は重要な瞬間を収めているか否か。山本医師と患者たちとの最後になるかもしれない診察の瞬間など、重要な瞬間瞬間をカメラはとらえている。

「ほんとうにかけがえのない瞬間に立ち会うことができたと思います。この瞬間を熱いう ちに作品に封じ込めたいという気持ちがあったんですよね。

 料理にたとえるのもなんですけど、ラーメンみたいに熱いのをさっと食べるのがおいしいも料理もあれば、カレーやシチューのように何日も煮込んだほうがおいしい料理もあるでしょう。作品も同じで。長期密着取材したほうがいいケースもあれば、その瞬間をさっと撮って、さっと出したほうがいいものもあると思うんですよね。今回の場合は後者だった」

 その中で、山本医師の引退に紐づくような、なにかひとつのものが終わりを迎える、朽ちていくことを想起させるようなカットもぬかりなく収められている。

「山本先生と患者さんの診察をみていると、どこか今生の別れのようにみえてくる。そういう場面に幾度となく出くわすと、カメラと三脚を担いで道を歩いていても、そうしたものを感じるところに自然と目がいく。

 たとえば船のショット。あの船は、実は『精神』のときも登場している。岡山城のお堀に浮かんでいる船なんですけど、それを改めて撮りたいと思って現場にいったら、あのように朽ちていたんです。それはもうほんとうに時の流れを感じさせられた。ひと言でいえば、 無常。そういうところに目がいったのは確かですね」

 短期間撮影だからというわけではないが、早く作品にまとめたい思いがあったという。そこにはこんな理由があった。

「実はすでに撮影を完了している作品がもう1本あるんです。でも、そっちは置いておいて、『精神0』を先に編集することにしました。それは、やはり山本先生と芳子さんに観てほしい気持ちがあったから。お二人とも今もお元気ですけど、現実問題としてご高齢でいつ何が起きても不思議ではない。少しでも早く、お二人にまずは届けたい。だから、こちらを先にという思いに至りました」

個人的には公開延期と思ったが……

 こうして通常ならば「劇場での」公開を迎えるはずだった。だが、まずは「仮設の映画館」での公開でスタートした。これはひとつの苦渋の選択であった。

「『コロナ禍のなか公開しても、どれだけの人が見てくれるのかな』と。あと、安心して見ていただける状況でもない。それから、僕自身が積極的に『ぜひ映画館に来てください』と言えない。こうなってしまうと、もう 1年ぐらい思い切って延期するのが作品にとってはいいんじゃないかと、個人的には思いました。それは普通の発想だと思うんですよ。実際、そうそうに延期を決めた作品がいっぱいあるじゃないですか。

 だけど、そのことを配給元に提案したら、意外な答えが返ってきた。『いまみんなが作品の公開を延期したら、劇場が全部つぶれちゃいます』と。政府による休業補償が不十分かつ遅れている中、来月の家賃が払えないっていうような状況のミニシアターも多いんです。下手すると 1年延期した後に映画を見せようと思っても、『もう見せる場所がなくなっていた』なんて可能性もあるわけで。そうなってしまったら、1年後に延期しても、自分の作品を守ったかのようにみえて、実はまったく守れないということになる。自分の作品を生 かそうと思ったら、ミニシアターにも生き延びてもらわないといけないわけです。

 そこで『じゃあ、どうしましょう?』という相談の中から生まれたのが、今回の『仮設の映画館』です。これがうまくいけば、休館中の映画館にも収入の道が確保できる。この危機は長期化する可能性もあるわけで、その場合は特に有効になるんじゃないかと僕は思っています。だからいろいろな作品がこれを真似してくれて広まるといいと僕は思っています。そのためにも『精神0』がいい結果になればなと思いつつ、あくまで『仮設』の劇場なので、少しでも早く終息して、ふつうに劇場で作品が観られる日がくればと思っています。あくまで『仮設』なので、必要なくなったらいつでも撤去できる準備はできています (苦笑)」

 ある意味、失われたかけがえのない場所の最期を見届け、映像に遺した映画『精神0』。その作品が、このまま手をこまねいていては消滅してしまいかねないミニシアターという場所を守るために予定通り公開へ踏み切った。ここに何か意味を見い出さずにはいられない。この『精神0』の試みがいいアクションを生むことを切に願う。

映画『精神』より
映画『精神』より

『精神0』

「仮設の映画館」にてデジタル配信中、ほか全国順次公開予定

http://www.temporary-cinema.jp

場面写真はすべて(C)2020 Laboratory X, Inc

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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