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身も心も丸裸になった女優の覚悟とインド出身監督の日本への鋭い眼差し。『東京不穏詩』が描くリアル東京

水上賢治映画ライター
映画『東京不穏詩』 アンシェル・チョウハン監督(左)と飯島珠奈(右) 筆者撮影

 はじめに触れておくと本作『東京不穏詩』は、日本を舞台に主だったキャストは日本人で撮影されている。ただ、監督をはじめとする主要スタッフは、日本人ではないさまざまな国の映画人が名を連ねる。

 そのこと自体は驚くべきことではない。そういう形で撮られた映画はいくつかある。

 驚くべきは、外国人による日本映画だが、へんなオリエンタリズムや、たとえば寿司といった画一的な日本のイメージもない。普遍的な物語でありながらも、日本人も気づいていない日本人の心の在り様をとらえていることだ。それはあまり普段は意識することではないが、皮膚感覚でなんとなく体感していること。とりわけ東京で暮らす人々の殺伐とした人間関係や孤独といったことが浮かび上がる。

アンシェル・チョウハン監督(左)と飯島珠奈(右) 筆者撮影
アンシェル・チョウハン監督(左)と飯島珠奈(右) 筆者撮影

 手掛けたアンシェル・チョウハン監督はインド出身。2011年に来日して以来、創作活動をしながら日本を、東京を見つめてきた。その月日が確実に本作には反映されていると明かす。

「日本に来たときに、まず感じたのは、とても街が平穏といいますか。平和的な調和がなされているということです。たとえば、道の混雑する東京の都会ですら、クラクションが鳴りっぱなしということはない。とても平和で穏やかな国だと思いました。

 それから、不思議に思ったのは、すべてがフォーマルというか。たとえば恋人同士が会うときに、『ちょっとスケジュール見るね』とお互いに時間が空いているかどうかを確認する。その上で日時を決める。それが僕にはとても不思議でした。恋人同士なんだから、会いたいときに会えばいいんじゃないかと。

 友人関係についても同じですよね。友人同士で会うにもやはりスケジュール確認して『今日空いている?』という上で、会う。インドだったら、友人は友人なので、会いたいときに家にいって、連れ出して遊びにいけばいい。それだけなんです。それが友人というものなんです。

 たとえば、友人が少し落ち込んでいて自宅にこもっていたら、インドだったらとくに相手には連絡しないで家にいって、ドアを叩いて、その友人を連れ出して励ませばいい。でも、日本だと、『大丈夫かな』と思っても、相手をおもんぱかるあまりに家にいったりはしないですよね。僕らインド人からすると、心配なら家に直接いって、とりあえず会えばいいのにって思ってしまうんです。

 そういうところが日本はフォーマルすぎるなとおもってしまうんです」

日本をみつめる中で、気になった日本の犯罪傾向

 日本に滞在する中で、さらに深い日本の人々の心に気づいていったという。

「日本で暮らす中で、やはり社会で起きる現象に目が向くようにもなりました。とりわけわたしが興味を抱いたのは犯罪事件。それというのも、日本の殺人といった犯罪は世界とは少し傾向が異なると感じたんです。

 たとえば、ちょっとした些細なことで恋人を突然ナイフで刺してしまったりする。しかも、突発的にそういう犯罪を犯して、逃走することもなく、そのまま警察に自首する。このように、表面だけみると急転直下で突発的に起きた事件が多いような気がしました。ほんの些細なことがいきなり爆発して殺人にまで及んでしまうような印象を受けました。

 自分なりに推察しますと、日本の人々は、あまり気持ちを表に出さないというか。日常生活でうまく相手に自分の気持ちを伝えられない。それで知らず知らずのうちに鬱憤がたまって、ある瞬間にそれが爆発してしまうように思いました。そうしたメンタルが日本の人々の深層にあるのではないかと思うのです。

 もしかしたら、今回の作品をみて、なぜあの人物は突然暴力を振るうんだとおっしゃる方はいるかもしれない。でも、ひとつひとつよくみてもらうと、日本では日常茶飯事で起きていることだと思います。

 たとえば、居酒屋で働いているわたしの友人は、いつもミスをすると店長に頭を叩かれるといいます。それぐらい何気ない形で暴力が日常のすぐそばに潜んでいる。ただ、こういったことが表面的には出てこない。これは日本の大きな問題だとわたしは思います。

 ですから、今回の作品は、そうした、わたしが日本で感じた違和がそのまま反映されているといっていいでしょう」

外国人だから気づいた日本人のメンタル

 作品は、女優を夢見ながら、東京のクラブで働く30歳のジュンが主人公。あるトラブルから貯めていたお金をすべて奪われ、顔に深い傷を負った彼女は、5年前飛び出した長野の実家へ。そこでさらに受け入れがたい過去を知ったことから彼女はある破滅的な行為に及んでいく。

映画『東京不穏詩』より
映画『東京不穏詩』より

 そこには、暴力、憎しみ、怒り、歪んだ愛情がドメスティックな方へと向いていく日本人のメンタリティーがどこか映されている。それは日本で起きる殺人事件がほとんどが身内関係であることなどにつながり、それが本作の背景にも反映されている。そういう意味で、きわめて日本のひとこまをとらえたストーリーであるといっていい。

「人は国によって違いがあるわけではないと僕は思っています。国籍とか関係なく、その人はその人でしかない。

 ただ、日本人は気づいていないけど、外国人からみると気づくことがある。そこを色眼鏡でみることなく、あくまで客観的に描こうと思いました。というのも、これをきちんとした日本映画にしようと考えたりすると、日本らしさを強調したり、日本ぽさみたいな上塗りみたいな脚色をしかねない。だから、自分が日本で感じたことをそのままに描くことに集中しました。そうすれば勝手に日本が浮かびあがってくると思ったのです。ですから、日本のリアルが映っているかもしれない。でも、世界に通じる普遍的な物語でもあると僕は思っています」

 一方、主人公のジュンを演じたのは『ケンとカズ』などに出演している飯島珠奈。脚本に目を通したときの印象をこう明かす。

「脚本をいただいたときは、その場で一気に読んでしましました。ジュンというキャラクターかもしれないし、この作品にかけているアンシェル監督かもしれないけど、ものすごい作品の熱量が伝わってきました。とくに、暴力や裏切り、ままならない現状にもがき苦しみながら、それでもひたすら、ひたすら生をまっとうしようとするジュンのパワーに圧倒されましたね」

 ひとりの女性としてジュンには、シンパシーを覚えるものがあったという。

「女優であるということ以外は、ジュンが体験するようなことをわたしはいままで経験したことがない。ただ、30歳前後で女優としてまだ鳴かず飛ばずで、くすぶってるという思いがジュンと同様にわたしにもあったのは確か。共感とはちょっと違いますけど、彼女の心のもやもやは共有するところがありました。

 あとは彼女の強さ。打たれても打たれても這い上がる。立ち上がる強さは憧れました。自分もそうありたいと思ったところですね」

ジュンという役を通して、少し自分を解放できるかもしれない

 役を通して、自身を解放できるのではないかと思ったという。

「わたし自身にくすぶっている思いはあるんですけど、いままでそれを表にだすことはなかったんですね。

 たとえば、ある友人がすごく怒って帰宅したときがあったんです。きいてみたら並んでいた列に『割り込みをされた』と。彼女はストレートに怒りをぶちまけたり、持続させることができる。こういうことがわたしにはなかなかできない。だから、ないものねだりじゃないですけど、憧れちゃうんです。でも、自分の中にもドロドロした感情はある。だから、ジュンを通して、なにか自分の衝動を抑えてしまう自分を少し解放できるんじゃないかなと思ったんです。ですから、この役は手放したくないと思いました」

 このジュンを30歳の女優志望という設定に置いた理由を監督はこう明かす。

「これは飯島さんへの当て書きといっていい。彼女を想定していた。

 あと、30歳前後といのは、ひとつの節目の時期だと思うんです。第2の人生がスタートするというか。今までの人生からがらりと変わって、新しいことに踏み出す時期なんじゃないかと。

 たとえば大学を出て、就職をして、10年ぐらい働くとちょうど30歳過ぎで。たぶん多くの人が、『自分の夢はこれじゃなかったかもしれない』『このままの人生でいいのだろうか』とふと振り返る時期ではないでしょうか。

 実際に新しいステップに踏み出すか否かは、その人次第。でも、いずれにしても立ち止まるときではある。

 自分自身もアニメーションのスタジオで長く働いているけれども、何か違うんじゃないかと感じることがあった。そして、映画を作りたいという気持ちが大きくなって、この作品にチャレンジしたんです。

 この作品で、ネクストステージに僕も、飯島珠奈という女優もいけたらと思いました」

肉体と精神をもってジュンを演じ切る

 その監督の見立てか、目論見か。ここで飯島のみせる演技は、そのすさまじさに圧倒される。ただ、このジュンという役柄は、演じるのをためらってもおかしくない。それほど身も心も丸裸になってすべてをさらけ出さないとできない役。生半可な気持ちではできない役といっていい。それを飯島はその肉体と精神をもって演じ切っている。その演技は大阪アジアン映画祭とスレマニ国際映画祭で最優秀女優賞に輝くなど、高い評価を得ている。

「この役をやらないオプションはなかったですね。

 アンシュル監督の作品へのこだわりがほんとうに強くて。そもそも彼がすべて全身全霊を作品に注ぎこむ意気込みだったので、それに自分も心打たれたというか、感化されたというか。もう、自分も作品に捧げられるだけ捧げられたらという気持ちだけでしたね。

 ただ、わたし自身は、見返すたびに粗ばっかりがみえて、何でここはこうできなかったのかとか、ここはもうちょっとこう演じるべきだったとか、役者としてまだまだなことを痛感してばかり。もう反省することの繰り返しなんですよね。

 撮影中に監督からよく言われて覚えているのは『抑えて、抑えて』ということ。たぶん一気に感情をあふれ出すことはできるんですけど、それを抑えて滲み出すことができない。そこはアンシェル監督の演出力にたぶんかなり助けられています」

 監督はこう振り返る。

「飯島珠奈がこの役をできないとか、やりたくないかもということはまったく考えなかったです。飯島さんに当て書きした役ですから。

 もちろんすばらしいパフォーマンスだったと思います。それを裏打ちするように受賞もしました。

 でも、あえて厳しいことをいうと、彼女はもっとできたんだろうなと思うシーンはいっぱいあります。

 たとえば幾つかのシーンでわたしはあまり好きではないシーンがある。いってしまえばうまくいかなかったシーンがある。ただ、それは彼女の演技が悪かったからではない。シーンというのはいろいろな要素で成り立っている。演技はその一部でしかない。いろいろなことが重なって、いくつかのシーンには納得していない。

 でも、監督としては作品に満足してはいけない。やはりいつまでも高みを目指したいですから。わたしは映画監督としてまだ踏み出したばかり。学びの途中にいる。ですから、今回の作品よりもっとこの先、いい作品を作りたいと思っています。そういう意味で、今回の作品はいろいろと賞をいただいていますけど、まだまだ満足していません」

 飯島もこう明かす。

「わたしも同じです。まだまだだと思います。ですから、賞をもらったときはほんとうに心からびっくりしました。まさかでしたね」

映画『東京不穏詩』より
映画『東京不穏詩』より

 飯島珠奈という俳優がここで見せる演技は、もうあれこれ言葉を並べるよりもまずはみてもらえればいい。ジュンという人物となってこの世界にきちんと存在している。アンシェル監督はこう明かす。

「たとえば女の人だったら、家の中にひとりいるときはとくにメークはしないで、すっぴんでしょう。そういうところはすごく考えました。

 今回の撮影ではメークさんがいらっしゃらなかったので、ほとんどすっぴんで、たとえばジュンが仕事に行くときは、飯島さん自身にメークをしてもらいました。ふだんしている感じと、仕事にいくときなど変えています。

 ですから、ナチュラルでいられることが大切だったのです。逆をいえば、ありのままでいれる人でないとダメだった。特別に着飾ったり、特別なメークをほどこしたりしていたら、おそらくこの作品世界は壊れていたことでしょう。それこそリアリティのないものすごく作り物の世界にみえてしまうものになっていた気がします。

 そういう意味でも、飯島さんには素顔でいてもらいたかったのです」

 作品は、このジュンのいわば生き様が描かれていく。その中で、彼女の人生に深く関わる男性が3人登場する。この男性がまたいまの日本を感じさせる。

「これは日本の社会に根深くある男尊女卑を表したのではなく、わたしとしてはひとりひとりの人間が男女関係なく違って、いろいろな側面がある。そのことを描きたかったのです。

 どんないい人でも一歩間違うと悪事に手を染めてしまうかもしれない。そういったところに立っていることを描きたいと思いました。人の心の中には善意あれば悪意もある。そうした両面で常に揺れ動いているのではないでしょうか」

 日本の、東京の不穏さと猥雑さ、そこで生きる人々のむなしさ、あくどさが確実に宿り、日本人の気づかない日本の実像がみえてくる映画『東京不穏詩』。飯島珠奈の演技とともに出会ってほしい。

映画『東京不穏詩』より
映画『東京不穏詩』より

『東京不穏詩』

シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開中

場面写真はすべて(C)2018 KOWATANDA FILMS. ALL RIGHTS RESERVED

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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