上映中止から5年を経て公開へ。これを問題作にするのが問題だ!『解放区』上映の道のりが問う表現の自由

映画『解放区』 太田信吾監督 筆者撮影

 俳優としても活動する太田信吾監督が手掛けた『解放区』は2014年に制作されている。つまり公開されるまでに5年の歳月を要した

 作品は、東京国際映画祭やゆうばり国際ファンタスティック映画祭などで上映され、反響を得た。にもかかわらず、なかなか公開は叶わなかった。

 この5年のいわばお蔵入り状態には理由がある。そのことは今年、相次いだアートをめぐる中止騒動にもつながる。

 公開まで5年もなぜかかったのか、そして、この作品が今公開される意味を太田監督との対話から明かす。

映画『解放区』 太田信吾監督 筆者撮影
映画『解放区』 太田信吾監督 筆者撮影

大阪アジアン映画祭での上映を目指して制作がスタート

 まず、事の始まりは2010年までさかのぼる。

「前作(『わたしたちに許された特別な時間の終わり』)の上映で、初めて大阪を訪れました。このとき、ある種のカルチャーショックを受けたというか。ずっと東京で暮らしてきたこともあって、町の景観とかあらゆることが新鮮で。この驚きを何か映像にしたいなと。それが今回の作品の出発点でした」

 すぐにチャンスはこなかった。だが、2013年、大阪での映像制作者の支援と映像文化の発信を目的とするプロジェクト<シネアスト・オーガニゼーション大阪(通称CO2)>の企画に応募。見事に対象監督に選定され、大阪アジアン映画祭での上映を目指して制作がスタートした。

「僕を含めて3つの企画が選出されました。そこから脚本を書き始めて確か提出したのが2013年の9月のこと。撮影は11月から入って、完成したのが2014年の2月でした」

 ここで大阪市からストップがかかる。

「編集が終わって、提出した映像をみた大阪市の方からストップがかかりました。もう西成とわかるところの描写は一切カットしてほしいと。三角公園やシャブの売人のシーンとかも好ましくないのでここも削ってほしいといったように、具体的な箇所を指示されて、削除を求められました

 確かに描かれれていることはクスリの売人が登場したりと危うい、この町のダークな側面を描いているところはある。ただ、提出した脚本にあらかじめきちんと書かれていたという。大幅に変更した内容はまったくない。なのに、なのである。

「脚本で言えば、ディテールの部分を書き込んで膨らませていったところはあります。たとえば、クスリの売人がどこでどう立ってとか、どういうセリフを言うのかっていうのは、ト書きで書いて、細かくは実際の現場で演技指導をしていく中で固めていきました。そういう脚本からの変更はあります。

 ただ、クスリの売人がそもそも登場していないのに、登場させた。そのようなことは一切していない。ちゃんと売人が出てくることは脚本に書いてあったし、主旨としてすべて西成で、ドキュメンタリータッチで撮るということは示してありました」

作品は無事完成。でも、大阪市からストップがかかる

 脚本ではゴーサインが出た。だが、実際の作品が完成したとき、ストップがかかったということになる。

「CO2の方も現場に何回も見学に来てくれていたんです。そこでなにか言われることもありませんでした。CO2としてはきちんと行政サイドに脚本は送って、とくに問題はない了承を得たと。ただ、行政サイドは、きちんと把握していなかったと」

 当時、大阪市は釜ヶ崎(あいりん地区)の再開発を中心とした西成特区構想が進行中。映画の描写がこの町のイメージに「相応しくない」との判断だったという。

「CO2が間に入ってくれて、いろいろとやってはくれたものの、もう埒が明かない。それで最終的には、僕が直接、大阪市の方と会うことになりました。そこで話し合ったんですけど、話し合いは平行線をたどるばかり。先方は削除しないと上映はできない。こちらは修正に応じられない。それで、もう、僕のほうからCO2の企画を辞退しますと切り出しました

 結果、大阪アジアン映画祭での上映は中止。最終的に太田監督は助成金を返還し、完全に監督の自主制作映画となった。

「大阪市とやり取りが始まって、もう3月には決着が付いてましたね。上映は中止で助成金は返金する。でも、完成した作品の権利はこちらが持つということで話は決着しました。

 正直、残念でしたよ。でも、カットは考えられなかった。西成はこの作品の根幹となる場所だったし、また、その西成を描く上で売人や性的な描写は避けて通れない。現実としてあることをないものにしてしまう。それはできないし、したくもない。西成という町に対して不誠実だと思います。

 ただ、ドラッグのやりとりなどはドキュメンタリーとして描く危険と困難はある。だから、ドラッグシーンに関しては、元売人の方に指導をお願いして、リアリティに徹底的にこだわりながらも、フィクションの枠内で描写していこうという配慮はしている。僕なりに一応、行政のプロジェクトという枠組みで作る上での最低限のリテラシーは示していたつもりなんですけどね。話はまとまりませんでした」

映画『解放区』より
映画『解放区』より

西成は社会からこぼれおちてしまった人間を優しく受けとめてくれる場所

 大阪市からいわば町の「イメージダウン」につながるとみなされた作品だが、太田監督はまったく別のイメージを西成区の釜ヶ崎には抱いていたという。

「初めて訪れたとき、こう感じたんですよ。『人の弱さを受け止めてくれる場所だな』って。この町に流れてくる人っていうのは、ちょっとわけありというか。誤って犯罪に手を染めてしまった人もいれば、仕事を失って日雇い労働を求めてくる人もいる。クスリに手をだしてしまった人もいれば、お酒にはまってしまった人もいる。何かしら人生での挫折や失敗を味わって心に傷を抱えている人たちが最後にたどりつく場所というか。そうしたいわば社会からこぼれおちてしまった人間を優しく受けとめてくれる場所だと思いました。

 行けばとりあえず、炊き出しがあるので、三食食べることができる。お金がなくても泊まれるシェルターがあったり、前の日のコンビニ弁当が10分の1ぐらいの値段で売られていたり、町の営みのひとつひとつが僕にとっては衝撃で。お金がなくてもなんとか暮らせる町なんて、いまの日本においてここのほかにあるのかなと。

 西成に行く前は、ちょっと調べて、やはりなんとなく怖いイメージを勝手に持っていたんですよ。ただ、実際行ってみると、むしろ普通の町よりもよっぽど人情味があって温かい。面倒見がよくて、懐が広い。もちろん、それゆえに、いい意味でも悪い意味でも抜け出せなくなる場所でもあるんですけどね。

 僕としては、いまの日本の社会から取り残されて行き場を失った人間の終着駅と始発駅があるような気がして。ここを描く必要性を実感したんです」

 西成に対する、世間のイメージと自分が行って感じたギャップ。ここから物語のイメージが膨らんでいった。

「はじめて西成を訪れたとき、同行した人から絶対にカメラは出さないでくれといわれたんですよ。この町の人たちは撮られることに対して敏感だと。

 さまざまな事情を抱えてここにきているわけですから、中には撮られたくない人もいるでしょう。にもかかわらず、なんか興味本位できて、パッと勝手に撮っていかれる。それが『これが西成の現在』の映像のようにして出回って、町とそこで暮らす人々のイメージが作り上げられている感じへの反発があるのではないかと思ったんですよね。

 撮る側と撮られる側の関係がイーブンじゃない。きちんとした意思疎通がなされていないのではないか。西成という町が一方的な視点で画一的に、しかもなにか貶められるように語られてはいまいかと思ったんです」

西成という町が一方的な視点で、なにか貶められるように語られていまいか

 そうした釜ヶ崎という町の根底にあるものを見据えて作り上げられた物語は、太田監督自身が演じるスヤマが主人公。彼の職業はメディア側に立つディレクターだ。まだ駆け出しの彼は東京の小さな映像制作会社で働きながら、いつかドキュメンタリー作家になることを夢見ている。

「撮る側と撮られる側の関係性の在り方を自分も改めて考えたいと思ったというか。バラエティ番組とか見ていても、一種の搾取を数字に転嫁しようとする行為が目につく。いま、メディア側に立つ者が映像で描くことの問題意識について問うものにしたいなと。

 前作『わたしたちに許された特別な時間の終わり』がまさに僕自身の取材姿勢、被写体と撮影者の関係について問われた経緯もあったので、今一度自分としても向き合わないといけないと思ってもいたので」

 スヤマの現状は理想とはほど遠い。現在撮影中のひきこもりの息子を抱える家族のドキュメンタリー番組では先輩ディレクターとぶつかってばかり。その先輩のスクープ的な映像を撮ろうと、母親や息子の気持ちに沿わないこともいとわない取材姿勢にどうしても同意できない。そのスヤマの立ち位置から、メディア、とりわけテレビのリテラシーに関する問題点が次々とあぶりだされる

「物語を作っていく上で、視聴率至上主義、自主規制、ネガティブな要素の排除、スポンサーへの配慮など、どこから起因しているのかということは考えました」

映画『解放区』より
映画『解放区』より

マスコミ叩きで終わっていいのか。もっと個人の問題として

 不満が募り、最後は爆発してトラブルを起こしたスヤマは、自分の企画で考えていた不良少年を探すため大阪西成区の釜ヶ崎へ。しかも取材していたひきこもりの青年を口説き落として、リサーチに付き合わせる。しかし、自らが招いた甘さから彼は足を踏み外し、自分が忌み嫌っていた先輩ディレクターとかわらない思い上がりといえる行動を繰り返し、常軌を逸していく。

マスコミをどうのこうのと叩いて、そこに問題を帰結させてしまう。果たして、それでいいのか?もっと個人の問題としてとらえるべきではないだろうか。

 こういう現状があったとしたら、あなたはどういうふうに向き合うのか?個人として向き合える内容になればなと。

 そもそもマスコミだって個人の集積。会社だって同じような個人の集合体で変わりはない。そこでは同じようなことが起きてはいまいか?

 社の方針なんでとか、事務所の意向なのでとか、そこで終わってしまって、一種あきらめてしまっていいのか。戦う方法はもっとあるのではないか。そういう問いを投げかけられればなと。

 今の社会は何か実態のないものにへんに支配されているようなところがあるような気がしてならない。

 これは今回の大阪市との話し合いでも、感じたこと。西成のイメージが悪くなるというので、じゃあ、誰が問題と思うのか尋ねると、明確な答えはない。組織全体でなんとなくそうおもって、個々の考えはみえてこないんです」

 個人として向き合う=他人事で済まさない。いわば当事者意識の欠如へのアンチテーゼが本作のキーワードかもしれない。それは太田監督の作品へのアプローチにも貫かれている。

「新しいメディアの在り方っていうことを考える時期にきていると思うんですよ。もう、誰でも映像が撮れる時代になって、観る側がもう作り手がどういう人なのかっていうとこまで見てるんじゃないかなと思うんです。ある種、作り手の人間性まで見透かされるところがあるんじゃないかなと。

 そうなったとき、僕は当事者として語りたいところがあります。それが例えフィクションであったとしても。

 興味本位ではない、当事者意識をもって、どれだけその物事に踏み込んでいくことができるか。そのことがこれからのメディアに大切ではないかと。

 たとえば今回の作品は、クランクインしてすぐ撮影するのではなくて、最初の数日間は西成をただみんなで歩いたんです。それで町の人に少し話をきいたりとか、そういう時間をあえてとったんです。

 町の空気を吸って、この町の本来の姿を体感してほしかった。それもこの町の当事者になってほしかったからです。

 ですから、その時間が取れない役者さんはお断りしました。あと、撮影中は町で暮らしてもらおうと思いました。それで抵抗を示す方もお断りしました。そんなことがあったので、役者が足りなくなって、最終的にスタッフが出演するはめになったりしたんですけど(笑)。

 でも、それぐらい当事者として立つことにこだわったんです」

前作からの反省。最後までことの成り行きを見届ける

 劇中に登場するひきこもり男性には、役としてはもちろん本人自身にも当事者としてかかわる心づもりで太田監督は挑んだと明かす。

「統合失調症という役柄の彼は、実際に心の病を抱えていました。この作品はロードムービーでもあるので、その中で、役だけではなくて彼自身の気持ちが少し変わっていく時間になればなと思っていたんです。

 実際、彼のお母さんにも出演していただいて、割と家にこもりがちな暮らしだったのを、大阪に引っ張り出していったっていうのは、映画の設定でもありますけど実際の話でもあって、ある意味、あの場面はドキュメンタリーってところもあるんです。

 最終的には、映画でいろんな人との出会いがあって、今、彼は社会に復帰している。そういうと、彼は『映画だけのおかげじゃない』というんですけど(苦笑)。でも、なにか変わるきっかけになったのは確か」

 とことん付き合うことをはじめから決めていたという。

「前作のときの反省と悔いがあります。映画の主人公は自ら途中で亡くなってしまうんですけど、僕自身がどこかから他人事になってしまったというか。どこかで諦めたところがあって、彼との関わりを切るというかな、面倒くさいなと思ってしまった。その罪悪感はいまも消えない。だから、今回はどんなことがあっても最後まで見届けるつもりでした」

 こうして完成した作品は5年を経て、ようやくいま公開を迎えた。ただ、<あいちトリエンナーレ2019>で起きた平和の少女像をめぐっての「表現の不自由展・その後」の中止問題、<KAWASAKIしんゆり映画祭>での映画『主戦場』の上映中止騒動が起きたいま、この作品が公開されるのはなにやら運命めいているとでもいおうか。ある意味、タイムリーであり、実はすでに5年前から今年の騒動の予兆があったことを本作は物語るといっていいかもしれない。

「こういってはおかしいですけど、この作品は5年寝かされる運命だったのかなと(苦笑)。結果的に、今年の公開になってよかった気がしています。なんで大阪市は西成を描くことをよしとしなかったのか。削除を求めてきたのか。考えてもらえたらと思います。

 大阪市の言い分をのみこむと、西成という町のいいところしか描いてはいけないことになってしまう。それって、事実と異なることですよね。いいところも悪いところもきちん明らかにしないと、事実は見えてこない。厳然としてあることが悪いことだと、ないものにしてしまうのはやはりおかしいと僕は思います

 この映画で起きたことは、<あいちトリエンナーレ2019>の件などに、まさにつながっている。もっといえば、ここ数年のキーワード「忖度」をめぐっておきた問題にもつながっていると思います。そういう意味で、いま公開されるというのは紆余曲折ではありましたけど、すごくいい機会がめぐってきたなと感じています」

 問題となった大阪での上映も決まった。

「大阪での上映は難しいのかなと思ったんですけど、どの劇場も当事者としての意識もあって、考える機会にしたいと。これもうれしいですね」

 行政の関与による表現の自由の萎縮、日本全体を覆う同調圧力の流れはすでに、2014年に発表された本作『解放区』から始まっていたのかもしれない。紆余曲折を経た本作の軌跡をあなたは、果たしてどう受け止めるだろう?

映画『解放区』より
映画『解放区』より

『解放区』

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写真はすべて(C)2019「解放区」上映委員会