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こんな時代だから思いを馳せたい「悲しみ」と「喪失」。映画『アマンダと僕』の監督&主演俳優が語る。

水上賢治映画ライター
ミカエル・アース監督(左)とヴァンサン・ラコスト(右) 筆者撮影

 何の前触れもなく母を失った少女と、彼女の叔父。二人がいかにその悲しみを乗り越えていくのか? 映画『アマンダと僕』のストーリーは、ほぼこれで事足りる。ただ、そのシンプルな語り口からは想像もつかないぐらい、作品のインパクトは大というか。強度がある。肉親の死や、愛する人の悲報を扱った映画は古今東西いろいろとある。でも、これほどまで、そのときに直面する哀しみや喪失を実感を伴ってこちらに伝わってくる映画は、そうあるものではない。

特別な人を突然奪われる悲しみと正面から向き合おうと思った(ミカエル)

 本作を手掛けたのはフランスの新鋭として世界から脚光を浴びるミカエル・アース監督。実は同監督は前作『サマーフィーリング』でも、愛する人を失った男女が新たな一歩を踏み出すまでを描いている。似たモチーフを続けて描いたことを監督はこう明かす。

「ご指摘のように、これまで私は同じようなテーマで作品を発表してきました。ただ、今回は、愛する人との突然の死であり、人間にふいに訪れる別れといったことに、もっと正面から取り組もうと思いました。これまではどこか絵画で言えば印象派といいますか。全体として伝わってくるような感じにとどまっていた気がします。でも、今回は、例えば主人公のアマンダが母の死を薄々感じる瞬間、そのアマンダに叔父のダヴィッドが母の死を伝える瞬間など、そのときの複雑な心境や湧きおこる哀しみといった感情のひとつひとつを明確に描こうと思ったのです。愛する肉親との死別に直面したときの内面の感情ひとつひとつをとことん掘り下げて描こうと。結果的に観客にとっては辛い体験になるかもしれない。でも、観客のみなさんがアマンダとダヴィッドの感情を理解して、分かち合うことができるような作品を目指したのです」

 それはSNSやネットの発達ですべてのことが情報化、データ化される時代。その上、「死」や「悲しみ」といったことがどこか忌み嫌われ、遠ざけられる現代だからこそ、「実感」にこだわったようにも映る。

「そこまで自分の考えが至っていたかはわかりません。ただ、なにか時代は寛容さを失いつつある。その中で心に大きな悲しみを抱えた人間の心の軌跡をきちんと精緻に描く。それが今の社会においてすごく大切ではないかと考えたことは確かです

(C)2018 NORD-OUEST FILMS ー ARTE FRANCE CINEMA
(C)2018 NORD-OUEST FILMS ー ARTE FRANCE CINEMA

ダヴィッドの味わう悲しみは他人事ではない(ヴァンサン)

 一方、ダヴィッド役を演じた主演のヴァンサン・ラコストは脚本からこんな印象を受けた。

「私が演じたダヴィッドは、テロで仲の良かった姉を失い、それでなくても失意のどん底にいるのに、姉の娘で姪っ子のアマンダにその死を告げなけばならない。また、立場上、父親の代わりも求められるようになる。確かに私は、このような大きな悲しみを経験をしたことはない。ただ、他人事じゃないというか。テロが世界中で起きている世の中で、いつ自分の身に起こってもおかしくない。そういう意味で現代的、今日的なテーマをもった作品だと思いました。決して絵空事ではない」

 演じる上ではこんなことを考えていたという。

「僕はこのような経験をしたことはないけれども、脚本をきちんと読めば、ダヴィッドの心模様は痛いほど伝わってくる。それをきちんと感じればいい。ミカエル監督の作品は以前から好きだった。監督の作品はいつも慎み深い。今回はこれまで以上に虚飾がない。だから、演技にオーバーアクションもいらなければ、へたな小細工も必要ない。ありのまま。そのシチュエーションを生きることだけに集中したよ

身辺で起こりうることとして、身近な物語にしたかった(ミカエル)

 そのヴァンサン演じるダヴィットと、子役のイゾール・ミュルトリエの自然なやりとりが、こちらに悲しみや喪失の「実感」をもたらしていることは間違いない。そして、ミカエル監督のもはや人間の魂のみを見つめたような徹底的に無駄がそぎ落とされた演出もまた、こちらに悲しみや喪失の「実感」をもたらす。

私が求めていたのは映画にありがちなドラマチックな演出やシーンではない。誰にでも当てはまる人生や日常のひとこまを再現するというかな。アマンダとダヴィッドにそっと寄り添うことで、彼らの日常を特別視しないでありふれた日常として表現したかったんだ。そこに奇をてらったような演出は必要ない。できるだけ自分の身の回りで起こっていること、近くに感じられるものにしたかったんだ。シンプルさを追求すると、どんどん浄化されてピュアになる。人間の心そのものが浮かび上がる。そういう映画を作っていきたいと僕は常に思っている」

 この監督の言葉から、無駄な虚飾をそぎ落とし、「悲しみ」と「喪失」、人間の「心の再生」の核心にまで迫ったように思える映画『アマンダと僕』。アマンダとダヴィッドのたどる心の軌跡を「体感」してほしい。

(C)2018 NORD-OUEST FILMS ー ARTE FRANCE CINEMA
(C)2018 NORD-OUEST FILMS ー ARTE FRANCE CINEMA

『アマンダと僕』

全国順次公開中

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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