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最強王者井上尚弥。12月に4団体統一間違いなしでも掲げる課題とは

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
「最高のモチベーションを持って戦えます」と井上(写真/PXBパートナーズ)

 井上尚弥(大橋)は充実しきっている。圧倒的な戦力が、絶頂の今このときを快活に物語る。プロキャリア10年、いやボクシングを始めてから20年余の“学び”と修練が貪欲な野心をより輝かせる。日本人ボクサーとして初めて同一階級の主要4団体すべての世界王座をまとめ上げる戦いも、次なる挑戦に向けたステップに過ぎないという。WBA・WBC・IBF世界バンタム級王座を保持する井上は12月13日、東京・有明アリーナでWBOチャンピオンのポール・バトラー(イギリス)と対戦する。井上の絶対有利の予想に見落としはないか。試合まで2ヵ月。展望するには早すぎるが、世界のプロボクシングでも一、二を争う魅惑のファイターだからこそ、誰もがせっかちになる。

さらに完璧に、とモンスターは考える

 このボクサーをここまで強くさせた理由はさまざまにあるのだろう。そのうちのひとつが、自らにプレッシャーを与えることを忘れなかったことにある。どの試合でも『アンチテーゼ』を頭の隅に置いてきた。勝つために、自分をどこまでもアピールするために、ありとあらゆる準備を進めながら、「うまくいかない展開になったとしたら、何をすべきなのか」とまた別の角度から考えるのを忘れない。そんな思考の循環こそが一切スキのないボクシングを実現させている。

「自分のボクシングをやって、少しずつ相手の力を削っていって、最後は圧倒的な戦力の差を見せつけて勝ちます」

「バンタム級の最終章、スーパーバンタム級のスタートにしたい。ここはキャリアの中継点に過ぎません」

 10月13日に横浜市内で行われた発表会見の席で、井上はこんなひと言を自信あふれるコメントの中に織り交ぜた。

「(バトラーが)倒されないためのボクシングを徹底してきたら、どうするかですね」

 2021年12月のアラン・ディパエン(タイ)との防衛戦の記憶があったからこそ漏れた言葉かもしれない。格下とみられたこの挑戦者をワンサイドに押しまくりながら、なかなか倒しきれなかった。距離をとったり、相手に対する角度、攻撃のタイミングを変えた。さまざまなパンチで組み立てるあらゆる種類のコンビネーション・パンチを、それこそ“これでもか”というくらいに繰り出した。だが、タフなタイ人はなかなか倒れてくれなかった(8回TKO勝ち)。試合後には「バンタム級(約53.5キロ・リミット)への減量に無理があったんじゃないか」、「どこかに故障があった?」と憶測も飛び交ったものだ。

 6月に宿敵のノニト・ドネア(フィリピン)を痛快にTKOで破ってから3週間目にインタビューしたとき、井上はディパエン戦をこう振り返っていた。

「対戦相手が勇敢で、倒されないために懸命に戦っていたら、簡単には倒せないものです」

 不調でも、前段階の不備でもない。印象の乏しい戦いになった理由はそれだけだ、と。では今回、バトラーが守備的に戦ってきたらどうなるのか。パワーという点で大きく見劣りする33歳(試合時34歳)のイギリス人だが、カウンターに持ち味がある。一発逆転の機会をうかがいながらディフェンス主導のスタイルを持ち出す可能性は十分にある。もし、そう出てきたとしても、着実に切り崩し、痛快な決着を実現すれば、それが井上自身、あるいは見る側もこの世紀の大ボクサーのさらなる成長の証と納得できるはずだ。

バトラーは世界王座奪還まで7年かかった

 井上とは比べものにならないが、バトラーにも立派なキャリアがある。ウェールズと川ひとつ挟んで境を接するイングランドのチェスターで1988年11月11日に生まれた。10歳のときに地元のクラブでボクシングを始める。アマチュアで実績を積み、21歳で全英選手権を制すと、大手のプロモーションと契約してプロに転向する。技術的にまとまりがよく、パンチ力もあって期待の存在だった。ここまで36戦34勝(2敗)の戦歴の中でKO勝ちは15にすぎないが、倒してきたのは左フック、それもボディブローによるものが大半だ。“ベビーフェイス・アサシン(童顔の暗殺者)”というニックネームをつけて売り出しに拍車がかかった。

 2014年にリチャード・ホール(イギリス)を判定で破り、16戦全勝のままIBF世界バンタム級タイトルを獲得。「ぼくはナチュラルなスーパーフライ級のボクサーだ」と1度も防衛戦を行うことなくタイトルを返上し、翌年3月には1階級下のIBFチャンピオン、ゾラニ・テテ(南アフリカ)に挑むも、左アッパーカットをまともにもらい、痛烈なTKO負け。再びの世界チャンピオンベルトを求める長い旅が始まった。

 バンタム級に定着したバトラーは2018年に当時のIBF王者エマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ)に挑む。その後、井上に惨敗を喫する以前は“年代最高のタレント”と評されたチャンピオンの前にいいところなく敗れる。

 くじけることのなかったバトラーは2021年12月、アラブ首長国連邦のドバイでWBO王座挑戦にこぎ着けるのだが、チャンピオンのジョン・リエル・カシメロ(フィリピン)は腹痛を理由に前日計量の会場に現れずに試合はキャンセル。このカードは今年4月、イギリスのリヴァプールでリセットされたものの、カシメロがイギリスでは禁止されている減量のためのサウナ使用の違反を犯し、コミッションは出場を許可しなかった。急きょ、前座に出場予定だったジョナス・スルタン(フィリピン)と暫定王座決定戦を行ったバトラーが無難に判定勝ちを収める。その2週間後、続けざまにタイトルマッチをキャンセルしたカシメロのベルトをWBOが剥奪し、バトラーはようやく正規のチャンピオンに昇格した。井上との一戦は、バトラーにとってはWBO王者としての初防衛戦になる。

新しい課題に取り組む。とことん貪欲だからこそ、井上は成長する(写真/PXBパートナーズ)
新しい課題に取り組む。とことん貪欲だからこそ、井上は成長する(写真/PXBパートナーズ)

進化する井上をずっと追いかけたい

 井上、バトラーともに対戦しているのはヨワン・ボワイエ(フランス)とエマヌエル・ロドリゲスのふたり。戦力比較のリトマス紙とするなら、ややレベルが落ちるボワイエよりロドリゲスの方が適しているのだろう。井上は難なく2ラウンドKOで快勝したのに対し、バトラーは完敗だった。バトラーは初回に2度のダウンを奪われ、流れを取り戻すために戦術的には限られる戦いになったとはいえ、プエルトリカンの鋭い左ジャブの前に何もできなかった。

 ボクサーの戦い方は選手によってさまざま。得手不得手もある。ひとつの対戦結果で能力全般を推し量るのは危険なのだろう。ただ、この両者、それぞれが有する戦力には大きな差が見える。バトラーはスピード豊かな技巧派と評価されるが、そのスピードにしろ、技術の精度、戦局運営のスイッチング速度と、どれも井上と比べれば段違いに劣っている。ふたりともステップワークは見事ながら、その点でも井上の鋭い足さばきの方が数段上だ。

「(バトラーは)技術的にハイレベルでまとまったボクサーだと思っています」(井上)

 もし、波乱を生み出すとすれば、どこにその要素があるのだろうか。バトラーはときおりサウスポーにチェンジするのは別にして、基本ラインをはみ出した戦い方は決してしない。すべてが教科書どおり。その上でまっすぐに打ち下ろす右パンチは重いし、その右よりも効果的に用いるのは左フック。対戦者が強引に距離をつめてきたり、打ち終わりに一瞬のまごつくところを見逃さず、鋭くこの左のパンチを振ってくる。それ以外には特筆すべき武器はないようにも見えるが、だからこそ、狙いにはまり込んだときが怖い。その左フックをタイムリーに当てることができたなら、2度とないチャンスと覚悟して、一気に勝負を決めようとしてくるはずだ。

「過去、最高のモチベーションを持って戦えます。そのなかで、どうしたらいいのか、いけないのかを考える(試合までの)2ヵ月が楽しみです」と井上は12月の試合に対する意気込みを語る。バトラーの出方もあらかた織り込み済みなのだろう。だとしたら、絶対的有利の予想をなおさら説得力をもって語れる。

 九分九厘、井上はバンタム級世界王座の完全統一を達成し、真実の世界最強を証明すると信じる。それでも、いつものとおり、井上の試合を見逃すことはできない。世界のボクシングの最高峰に立ち、あくまでも念のためながら、“守りに徹した相手を切り崩す”という新しい課題を携えて臨む。もっと高い場所に行くための新たな進化がどんな形をしているのかを確かめたい。

「ボクシングの歴史に挑戦し、そこに名前を刻みます」

 “史上最強”に力強く行進を続ける井上尚弥の姿をしっかりと目に焼きつけたい。

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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