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村田諒太の「冒険マッチ」は無謀な挑戦ではない。ゴロフキン戦までの道のり

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
いよいよ念願の一戦。GGGとの戦いを待つ村田(写真:ロイター/アフロ)

 刻一刻、ビッグマッチは迫っている。4月9日、さいたまスーパーアリーナ開催の世界ミドル級王座統一戦、WBAスーパーチャンピオンの村田諒太(帝拳ジム)対IBFチャンピオン、ゲンナジー・ゴロフキン(カザフスタン)。ミドル級という超人気クラスの超一流ファイターがやってきて、日本のスターと対戦する。奇跡のイベントである。

GGGに挑むのは必ずしも冒険とは言えず

 予想の不利は仕方ない。ある海外のスポーツブック(スポーツの勝敗への合法的な賭け)のオッズ(掛け率)を見ても、ゴロフキンの『マイナス610』に対して、村田は『プラス450』と出している(3月15日現在)。つまり、ゴロフキンに賭けて100ドルの儲けを手にするためには610ドルのリスクが必要で、村田に100ドルをベットすれば、450ドルの返金が見込める。日本のファンも、村田の勇敢な戦いにシンパシーを感じたとしても、多くの人は勝利は難しいと考えているのかもしれない。

 異を唱えるつもりはない。順当に予想を見立てるなら、ゴロフキン有利とするのが真っ当なのだろう。村田が2012年ロンドン五輪金メダリストに対し、ゴロフキンも2004年アテネ五輪銀メダリストの対戦であっても、プロになってからの実績は大きな差がある。欧米のリングでトップクラスのファイターを次々にねじ伏せてきたゴロフキンの名前は、世界タイトル連続KO防衛の史上タイ記録『17』という数字を引き合いに出すまでもなく、すでに伝説となりつつある。傑出したハードパンチはむろん、安定感のある攻防技術もあわせ持つ。試合時には40歳(誕生日は4月8日)になっていても、カミル・シェルメタを棄権TKOに下した2020年12月の戦いを見ても、まだまだ底力を感じる。

 だとしても、村田の今回の戦いは、日本ボクシング史に残る偉大なマッチメイクであると断言できる。勝負に関しては無謀な挑戦と決めつける向きには、抵抗を感じてしまう。しっかりと勝機も感じてもいる。

五輪優勝から半年以上が経過してプロ入りを表明した
五輪優勝から半年以上が経過してプロ入りを表明した写真:アフロ

 村田がプロになって何をしてきたか。アマチュアからプロへと大幅な仕様の変換。その間、プロとして成功を得るために、どれだけのことを考えてきたことか。戦法、技術に加え、ときどきの気持ちの行方にも心を砕いてきた。そして、不運な敗戦からさらなる試練を経て、大胆とも思える変身から村田諒太スタイルの完成形へと大きく近づいていった。

 でなければ、世界でも最も厳しい階級と呼ばれるミドル級で真の世界一を目指せるはずはない。過去、このクラスの世界チャンピオンになった日本選手は竹原慎二(沖ジム=当時)ただひとり。1995年に“機関車”と異名をとったWBAチャンピオンのホルヘ・カストロ(アルゼンチン)を劇的に攻略した(判定勝ち)。ただ、どこまでも強気に真正面から強打でやり合う戦法が仇になったか、目を痛めてしまい、半年後の初防衛戦ではTKOに散った。竹原の世界チャンピオンシップ獲得の以前も以降も、ミドル級にはたまに話題になる選手が出てきても国内、東洋レベルまでの活躍がやっと。現在も東洋太平洋、WBOアジアパシフィックの地域チャンピオンはそれぞれいるのだが、3月2日発表の日本ランキングはチャンピオンが空位の上、ランキング表には3人しか名を連ねていない。

 つまり、村田の世界ミドル級の旅はどこまでも孤独だった。そして、ここまでの最後の戦いになった2年前、35歳の誕生日を3週間後に控えた村田のボクシングは、ひとつの答えを確かに手にしたように見えていた。もし、その後の空白の間にさらに上積みがあったとしたら、世紀のハードヒッター、ゴロフキンが挑む標的といえども、冒険マッチとは決して言えないと思っている。

栄光から2度もの挫折を経て

 五輪を経て、三迫ジム入りした村田は、世界の最大手のボクシングプロモーションに数えられる米国のトップランクと帝拳プロモーションが共同プロモートするという、最上級の待遇でプロでのスタートを切る(2014年夏、正式に帝拳ジムに移籍)。

 2013年8月25日、有明コロシアムでセットされたその初戦から、与えられたのは大仕事だった。いきなり現役の東洋太平洋チャンピオンの柴田明雄(ワタナベジム)との対戦が組まれた。村田はかつて自身を五輪の覇者へと導いた同じ手法、つまり徹底的にプレスをかけ、よどみなく重いパンチを打ち込み続ける戦いで、2回TKO勝ちで最初の試練を打ち破った。

現役の東洋太平洋王者相手に見事なTKO勝ちで初陣を飾る
現役の東洋太平洋王者相手に見事なTKO勝ちで初陣を飾る写真:アフロスポーツ

 この後で、村田のスタイルは明白にモデルチェンジしていく。目的はあくまでもプロの戦いへの順応だった。自ら「リスクが大きい」と評したアマチュア時代のとにかく攻め抜くスラッガー戦法から、対戦者から距離をとって戦うことが多くなる。また、最長12回を戦うために、スタミナ配分にも気をつけなければならなかった。相手のパンチが届くかどうかぎりぎりのライン、ミドルレンジに位置を取り、そこからストレート系のパンチを中心に追い立てていく。そのために左ジャブは鋭く、もともと強い右のパンチをさらに引き立たせる必要があった。

 同時にプロの実戦経験を積み上げるのも課題だった。国内はもとより、一時、トレーニングのベースにしたラスベガス(アメリカ・ネバダ州)、当時、中国進出に力を入れていたトップランクのタレントとしてマカオ、上海、香港のリングにも立った。対戦相手の多くは中堅クラスだったが、村田は世界王者育成プロジェクトの道筋を確かな足取りでたどっていく。

 ライバルを圧倒しつつ、右のパンチを中心に一撃強打で決着をつけるパンチャースタイルがすっかり板についたころ合いを見計らって、初めての世界タイトルマッチが組まれた。ここで最初の不運が襲う。2017年5月20日、12戦全勝9KOのレコードで初めて戦った世界タイトルマッチ、暫定チャンピオンのアッサン・エンダム(フランス)から、右ストレートで痛烈なダウンを奪いながら、1−2の判定負けを喫した。敗因として手数の少なさを挙げる向きもあったが、相手にダメージを与えうるクリーンショットでは、村田が大幅に上回っており、この判定は不可解きわまりなかった。

痛烈なダウンを奪いながら、村田の世界初挑戦は実らず
痛烈なダウンを奪いながら、村田の世界初挑戦は実らず写真:アフロスポーツ

「判定は第三者が下した結果」と冷静に受け止めていた村田が、WBAのとりなしで5ヵ月後に組まれたリターンマッチでは、闘志をむき出しにして戦った。カメルーン生まれのエンダムを追いまくる。右ストレートの強打を集めた4回以降は一方的な展開になる。そして7回終了後、エンダムが棄権を申し出て、村田は念願の世界チャンピオンになった。因縁のリマッチには世間の関心も引き寄せた。衆議院選挙当日にもかかわらず、放映したフジテレビの視聴率は平均で20%を超し、関西地区では瞬間最高で30%近くに跳ね上がった。

 世界のベルトを手にし、名実ともにナショナルスターであることを証明した村田は、期待の大きさ、バックヤードの巨大なサポートに対し、最低限の責任は果たした。その後のインタビューで「チャンピオンでいるのは居心地がいいものです」と話していたのも思い出す。

 安堵の日々は長くは続かなかった。初防衛に成功した後、2018年10月20日、ボクシングの聖地と呼ばれるラスベガスで2度目の防衛戦に臨んだ。これが3度目となるラスベガスでは「ここまで満足した試合ができていない」と村田は語っていたが、27歳の挑戦者ロブ・ブラント(アメリカ)は難敵ではないとみられていた。日本に進出してきたスポーツ専門のストリーミング・チャンネル『DAZN』が生中継するなど、大きな注目を集めて行われた一戦。しかし、村田は本領を発揮できない。海外リングに確かな足場を築きたい村田に力みがあったのか、攻撃が単調になるところをブラントがロングレンジから迎撃し、いいところなく敗退してしまう。

 すでに32歳の村田に対し、引退の声も出たが、1ヵ月半後、再起を発表する。そして、この地点から、この男の戦いはトップギアが入った。思いがけず地の底を見たかつてのエリートの決意は、たちまち新たな境地に到達する。

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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