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村田諒太が「プロ向きじゃない」と語ってから10年。ゴロフキン戦までの道のり

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
プロ初戦。東洋太平洋王者との対戦にTKO勝ちした(写真:アフロスポーツ)

■ついに実現した村田諒太、最大の挑戦

 日本ボクシング史上最大とも呼ばれる対決がついに実現する。正式に発表されたのはすでに旧聞に属するが、まずはその概要から記すのが親切なのだろう。

 WBA(世界ボクシング協会)、IBF(国際ボクシング連盟)それぞれが世界ミドル級チャンピオンとして公認する村田諒太(帝拳ジム=正式にはスーパーチャンピオン)とゲンナジー・ゴロフキン(カザフスタン)の王座統一戦が、4月9日、さいたまスーパーアリーナで行われる。

 2012年ロンドン五輪、ボクシング競技で日本に48年ぶりの金メダルをもたらし、2度にわたってプロの世界王者にもなった村田は、ボクシング界が生んだナショナル・スポーツヒーローである。一方、ゴロフキンは10年近く、『世界の顔』としてボクシング界に君臨してきた。この試合は約2万人収容のアリーナで入場規制なしで行われるほか、アマゾン・プライム・ビデオで生配信される。ボクシング中継としても、画期的なイベントになる。

 延期になっていたスケジュールは3月3日、都内のホテルで発表された。昨年11月12日に続き2度目の発表会に臨んだ村田の表情が4ヵ月前とは、いささか違って見えたのは気のせいか。ビッグマッチを前にした高揚感はさほどは見えない。いくらかの安堵も浮かんでいた。待ち焦がれていたボクサーとしての集大成の試合。ようやく、鍵を手渡されながら、またしても待ち時間を強いられていたのだから、当然なのかもしれない。

 12月29日にセットされた最初のスケジュールは、関係省庁から国内への伝播が予測されるオミクロン株の水際対策の要請を受け、実現まで1ヵ月を切った時点で延期となった。あくまでも延期とされたが、あらためて実現できるのかどうか。100%とは言い切れなかった。すべてはパンデミックの動向、行政の判断に委ねられていた。

 メキシコから呼んだ2人のスパーリングパートナーをそのまま日本に残し、質の高い練習環境は維持された。新たな日程を決めるために関係者が飛び回る姿を、目の端に捉えていたことだろう。それでも抑えきれぬ、焦燥が村田にあったのは想像に難くない。2年以上、実戦のリングに立っていないのだ。その間に36歳になった。どんなにトレーニングを積み重ね、節制してきても、常識的にはボクサーとして晩年と言われる年齢である。

 さらにゴロフキンにも、これ以上は待てない事情もあった。サウル・アルバレス(メキシ=現スーパーミドル級統一チャンピン)との対戦計画が9月にもと海外では半ば公然と語られ始めていた。全階級を通じても2010年代最強のパンチャーと言われるゴロフキン、そして現在までに全階級最強の評価を確立したアルバレスは2017年と2018年に対決し、ゴロフキンの1敗1引き分け。いずれもきわどい判定で、明確な形で決着がついたわけではない。4月8日に40歳になるゴロフキンは、アルバレスとの対戦がキャリアの最終地点と考えているはず。となれば、村田対ゴロフキンを実現するタイムリミットには、春、遅くとも初夏の入りまで。きわどい設定だった。

 あらゆる困難に立ち向かい、ゴロフキン戦の4月開催を勝ち取った周囲の努力を思えば、軽々には口にできないことなのだが、と前置きして村田は言った。

「この4ヵ月の間に、より準備が整えられたと思います。気づいたことも少なくありません。そのすべてをリングでお見せします」

 揺れ動く心理の浮き沈みを、メンタルトレーナーに相談しながらコントロールしてきた。そのなかでスパーリングで実戦感覚を取り戻し、なおかつ新しいアイデアも獲得してきたという。かつての無敵、今でも最高レベルに危険なゴロフキンとの対戦に、その勇気をたたえる声、高まるファンの期待感は聞こえているはずだ。村田はあえてそれらを遮ってその日を待つという。

「ぼくができることはリングで最上のパフォーマンスを見せることしかありません」

 その言葉には決意しかなかった。

■「ぼくはプロ向きじゃありません」

 取材者として村田に初めて会ったのは2012年の秋だったと思う。金メダル獲得で国民的ヒーローになり、嬉しい『騒動』もひと段落したころだった。もともとボクシングマニアを自任する村田と、ボクシングそのものに限定してさまざまな話を聞いた。アマチュアのトップであることの誇りが多くを占める中、プロへの興味をさらりと尋ねてみた。

「リスクが大きいぼくのスタイルはプロ向きじゃないと思いますよ」

 逡巡なく村田は答えた。「リスクが大きい」という言葉に、そのときはやや戸惑ったのだが、なんとなく理解もできた。確かに当時の村田の戦法は、強さを引き出す半面、危険もはらんでいた。

 村田自身の証言によれは、ロンドン五輪時は「一言でまとめればオーバーワーク」の状態で、その前年、日本人ボクサーとして初めて銀メダルに輝いた世界選手権のときこそが、ベストに近かったと言った。

 アゼルバイジャンで開催されたその大会、映像で再確認してみれば、確かに出色の出来だった。1回戦で2大会連続の世界選手権チャンピオンをレフェリーストップに追いやった。準決勝では翌年の五輪決勝でも顔を合わせるエスキバ・ファルカン(ブラジル)から2度のスタンディングカウント(ダウン)を奪い、さらにスリップと判定された、限りなくダウンに等しいものが2度。圧勝だった。敗れた決勝戦も2ラウンドに不用意にパンチを浴び、スタンディングカウントを奪われるマイナスがなければ、互角以上の内容だったかもしれない。

 フィジカルの強さを前面に打ち出して戦った。当時のアマチュア試合では着用が義務づけられたヘッドギアの両側を両腕のブロックでがっちりと固め、183センチの長身を折り曲げながらプレスをかけまくる。強引にも見える右で対戦者の警戒心を募らせ、インサイドに入り込むとショートパンチで押し込んでいく。中間距離になると、長いワンツー。ことさらにボディブローの強さが際立った。

 技の鮮やかさ、手際の良さでなく、『肉体派』そのまま。ガードの上から打たれることも前提にしており、小さく、薄いグローブでやり合うプロでは、よりダメージをためてしまうかもしれない。村田の懸念も、ありえることではある。

 少しばかり残念な思いをしながら過ごしていたころ、村田のプロ入りが報告される。アマチュア界が抱えていた問題点と直面する形で引退勧告がなされ、プロ入りを巡っても所属ジムの話はもつれた。誰もが欲しがるスターだったからこその騒動だった。

 それからのプロ生活。ゴロフキンとの対戦を目指すこの日まで、村田の道のりは決して順風満帆ではない。2017年5月、あまりに不運な判定による世界初挑戦の失敗。2018年10月、世界への本格進出をかけたラスベガスでの戦いでの思いがけない王座陥落。

 これからは私見になる。村田自身が、試練を越えて思い出した自分本来の姿。それはここまでに語った2011年世界選手権のスタイルにあったのかもしれない。これを徹底してシェイプアップして、真実の強さへの道を走り出し、少なくとも2年前には戦力的なピークに大きく近づいていた。

 日本の誇るミドル級ボクサーとして歴史的にも稀有な名王者ゴロフキンと対する注目の戦いを前に、もっと詳細に、さらに丁寧にたどるべき事項は、まだまだ、ある。この戦いには、村田諒太史の全編を語るほど、価値あるものである──。

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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