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井上尚弥はなぜラスベガスに招かれたのか──ボクシングの聖地で「主役」で戦う意味とは

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
アメリカのファンも待望してきた井上尚弥の本場初登場(写真:ロイター/アフロ)

 井上尚弥(大橋)とジェイソン・マロニー(オーストラリア)の対決が目前に迫っている。現地時間10月31日(日本時間11月1日)、アメリカ・ネバダ州ラスベガスのMGMグランド内カンファレンスセンターに特設されるザ・バブルで行われる試合には、井上の持つWBA(世界ボクシング協会)スーパーとIBF(国際ボクシング連盟)、それにリング誌の世界バンタム級タイトルがかけられるが、そんなものはお飾りに過ぎない。興味はこの一点。日本発のスーパーボクサーが、世界のトップスターに向けて、扉を大きく開く。その瞬間を見届けることだけだ。

圧勝予想でも、決して見逃せない戦い

 世界の視線は井上に集まっている。オリエントからやってくるモンスターは、初めてのラスベガスで、どんなパフォーマンスを見せてくれるのか。焦点はそれだけだ。

 海外のスポーツブック(スポーツ専門のギャンブルの胴元。「ブックメイカー」とも)は、井上の圧倒的優位と見立てている。井上にベットした場合、1.07〜1.08倍、マロニーなら7〜8倍。つまり、井上に1万円を投資し、勝ったとしても数百円プラスの払い戻しにしかならないのだ。

 マロニーも好選手には違いない。タフでしぶとく、守りも手堅い。相手のスキをついて好打を重ねる抜け目のなさもある。だが、井上とはスペックが違いすぎる。井上はボクサーとして必要な要素すべてが最高品位であり、さらに驚異のアドリブ力、その場その場で最善の戦術を選び出す抜群の戦闘感覚など、格別のプラスアルファもある。

 よほどのアクシデントがない限り、戦いはそう長くは続くまい。海外のブックメイカーと同じく、私の見方も井上の圧倒的な勝利である。

 それだけの実力差が、あらかじめ予想されたとしても、この一戦はどうしても見ておかないといけない。日本に本格的なボクシングジムができておよそ100年。その歴史をたどっても、井上尚弥は最高傑作だ。まだ実地でその戦いを見ていないうちから、全階級を通しての最強を占うパウンドフォーパウンドのランキングで、海外の専門家の多くが上位にこの井上をランクする。YouTubeでしか知らなかった、そんなボクサーがいよいよ本格的に世界の主役へと名乗りを上げるのだ。

 ボクシング・プロモートのトップブランド、トップランクが、無観客、つまり入場料収入のない、しかもバンタム級という軽量級にもかかわらず、100万ドル(約1億円)と、契約初戦にしては破格の報酬を保証した。この好条件にこそ、アメリカでの期待感の大きさを表している。

 しかも、場所はラスベガス。ここ40年以上、ボクシングの聖地と呼ばれ続けてきた。その歴史、町の概観ともに、ボクシングというシリアスなエンターテインメントにうってつけなのかもしれない。そのラスベガスで、主役となって戦うことは、そのままリングスターへの道を約束されたようなものでもある。

次々に巨大建造物が誕生するラスベガス

 『魔都』それとも『マジックシティ』。メインストリートのストリップと呼ばれる大通り沿いに巨大なカジノホテルが立ち並ぶ。ピラミッドあり、おとぎの国のお城あり、エッフェル塔もある。トレジャーアイランドの海賊ショーはなくなったが、ミラージュの前では火山が火を噴くし、ベラージオでは最大50メートルも舞い上がる噴水のショーもある。ひとたび建物に入っても、ベネチアの小舟に乗っての遊覧があって、ホワイトタイガーが寝そべっていたりする。夜ともなれば、この一帯は電飾の運河にもなる。何もかもが浮世離れしている。ある意味、奇跡の都市かもしれない。すべては賭博が合法の上、州税に所得税のないネバダ州だからこそ成立している。

 ラスベガス興隆の始まりは、1947年のフラミンゴ・ホテルのオープンにある。ギャンブルシティの薄暗さをはっきりと残すダウンタウンから、ずっと南に下った郊外に、マフィアである通称“バグジー”が贅を尽くして高級リゾートを建設した。結局、“バグジー”はあまりの浪費に怒った組織によって粛清された。あるいは歴史の汚点とも言える事件なのだが、何もなかった土地に理想を追い求めたということで、人々はこの“バグジー”を忘れない。フラミンゴ・ホテルの名前は今も残る。ちなみに、行政の努力もあって、ギャングの実際の影響力は70年から80年代にかけて、完全に消え失せているともいう。

 ボクシングがラスベガスに根付くまで意外と時間がかかった。1950年代にシルバースリッパーという中堅のホテルカジノでウィークリーファイトが始まるが、出場するのはほとんどがローカルボクサーばかり。たまに行われるビッグファイトも、ストリップ大通りからは少し距離がある収容人員6000人強のコンベンションセンターを借りて開催されていた。1970年代にホテルカジノの老舗のシーザースパレスが先陣を切ってトップボクサーを呼ぶようになる。やっとボクシングが、人を呼び寄せる重要なコンテンツと認識されるようになったのだ。

 最初は屋外の特設スタジアムでビッグマッチは開催されたが、やがて巨大な常設スタジアムが次々に誕生するようになった。ネバダ州立大学の施設であるトーマス・アンド・マック・センター、マンダレイベイ・イベンツセンター、T-モバイル・アリーナ、そしてMGMグランド・アリーナ。いずれも1万人以上、なかにはキャパシティが2万人に迫るところもある。さらにフットボール用の屋内スタジアム、アレジアント・スタジアムが完成している。カリフォルニア州オークランドからNFLのレイダースを呼び寄せ、ここを本拠地にさせた。ボクシングでも7万2000人が入るこの施設で、ビッグマッチを開催する動きもある。

うつつの夢心地と現実と

 何もかもが現実離れしている。ラスベガスの人口は周辺の市域を合わせても60万ほど。巨大建造物は地元住民ではなく、あくまでも来訪者をあてにしたもの。それだけの集客力がラスベガスにはあるということだ。

 NFLも来た。NHLの試合もある。もちろん、ラスベガスを本拠地とするUFCもある。ボクシングももちろんだ。今では多くのスター候補が、“聖地”でトレーニングをするようになっている。

 今回、井上が使用したトップランクジムは、トップランクの興行に出場する選手専用で、原則的には一般の練習生やボクサーは受け付けないが、ほかにもジムはいくらでもある。フロイド・メイウェザーもジムを開いているし、1997年に亡くなるまで46年間もファイターを見守ったジョニー・トコス・ジムもスタッフがその名称を受け継いで健在だ。

 1995年、私は2週間ほど、ラスベガスに滞在した。マイク・タイソンのカムバック戦、そして辰吉丈一郎の戦いを取材するためだった。その間にプロボクシングが開催されたホテル、さらに存在を確認できたボクシングジムすべてを回った。

 カジノ群がよく見えるバリーズ・ボクシングでは、吃音のトレーナーが懸命に子供たちに教えていた。オギー・サンチェスという若者だった。ナジーム・ハメドに失神KOを食らって世界チャンピオンにはなれなかったが、アマチュア時代には、メイウェザーを破って全米選手権で優勝している。子供たちはもちろん、ジムのだれもが親しみを込めて「チャンピオン」と呼びかけていたのを思い出す。

 フリーウェイをずっと北に走ったところにシュガー・レイ・レナード・ボクシングジムがあった。5階級制覇の名チャンピオンの名前を冠にしたジムのチーフは、リチャード・スティールだ。レフェリーとしてタイソンの試合はもちろん、日本でも数多くの世界戦をさばいた。職業訓練校の地階にあるそのジムでは、午後遅くにたくさんの子供たちがやってくる。道路ひとつ隔てれば、古びた家屋が沈黙のまま並んでいた。この地区はひどく治安が悪いらしい。ジムに子供を集めるのは暴力から守るためだった。だれもまともにボクシングをやっていなかったが、それはそれで役目を果たしていたのだ。

 その沈黙の住宅街で一家全員が惨殺される事件があったことを、その数日後の地元紙ラスベガス・レビュー・アンド・ジャーナルで知った。

 全人口の10%以上が貧困層にあるラスベガス。ボクシングでも格闘技でも、這い上がれる環境はある。至近距離で最上級の戦いも行われる。だが、この町出身のボクサーで、スーパースターとまで言い切れる存在はいまだ出現していない。

だからこそ、井上は野心に忠実にあってほしい

 夢うつつの非現実を演出しながら、傍らではしっかりとそろばんが弾かれる。タイソンが鮮やかなKO勝利を飾った夜、MGMグランドのカジノでは一晩中、黒人たちがカジノで騒いでいた。いつもは最低1ドルで遊べるブラックジャックのテーブルは、最低ベットが10倍に跳ね上がっていた。スロットマシーンも、ルーレットも、バカラもみんな高額に設定されていた。ホテル内にあるショッピングモールには高級レストラン、一流の宝飾店、ファッションハウスが立ち並ぶ。アトラクションで楽しんでもらった分、さらにお金を落としてもらいたい。ボクシングに限らず、あらゆるエンターテインメントはそういう人たちの心を揺さぶるために提供される。ラスベガスの商法は、つまるところそういうことだ。

 井上尚弥は、人集め、なおかつ熱気をあおる人材として招かれた。だからこそ、だ。自分の希望と野心を満たすために、思う存分に戦わなければならない。それこそが、自分自身ができることの使命でもある。

 おりしもハロウィン。リアルなカイブツが新天地で暴れ出す。うってつけの夜である。

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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