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長谷川穂積を襲った残酷すぎる運命 最後の戦いの前にいったいなにが起きたのか?

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
痛みに耐え、苦しみを隠し、長谷川は準備を続けた(写真:日刊スポーツ/アフロ)

その現役時代、後ろ向きの発言は聞いたことがない。言い訳めいた言葉も一度だってなかった。少なくとも私には、30代になってからの長谷川穂積は、ぬめる暗渠(あんきょ)を這いずり回っているように見えていた。それでもこの大ボクサーは戦いをやめなかった。今になって思えば、彼自身の目には「もっと強くなる自分」が映っていたからだろうか。

「心と体が一致すれば、だれにも負けない」

 長谷川は信じ続けてきた。でなければ、世界タイトル防衛10度、2階級制覇の偉大なチャンプが、こんな苦難とともに戦い続けられるはずはないのだ。

「これまで、無駄な戦いはひとつもやっていない」

 いかななる苦しい戦いも大事な経験とし、新しい戦力を養ってきたという。ただし、その真価が、実際の試合に映えることはなかった。

 そんな長谷川の念願がようやくかなう日がやってくる。2016年7月6日、3階級制覇をかける試合が発表された。9月16日、大阪・なんばのエディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館)で、WBC(世界ボクシング評議会)世界スーパーバンタム級チャンピオン、ウーゴ・ルイス(メキシコ)に挑戦するという。

 30歳のルイスはそれまで36勝32KO(2敗)。175センチとリミット55.3キロのスーパーバンタム級では際立つ長身から打ち下ろすパンチは左右ともに強力だった。半年前に30勝27KO(1敗)の同じメキシカン、フリオ・セハをわずか51秒でTKOに下し、世界タイトルを手にした勢いもある。

 長谷川は35歳。抜群のスピードに乗せて、鋭敏なタイムリーショットを目まぐるしく交錯させた全盛期のボクシングを見失ってから5年。これがラスト・チャレンジであるのは明らかだった。しかも、絶対的な不利の予想のもとに戦うことになるのも仕方なかった。

 周囲の評判など、長谷川はどうでもいいことだった。自分の力の真相を、世界チャンピオンになることで証明したかった。

 決意に燃える熱血はたぎる。一方でクールに分析を重ねて準備をし、72日後に、ついに戦いの日はやってくる。そして最高のボクシングで打ち勝ち、勝者の英姿を披露する。長谷川は確信していた。いや、己の心の底まで信じなければ、必勝の境地にたどり着けないと知っていた、と言い直したほうが正しいのかもしれない。

 だが、ほんとうの試練がこの後に訪れるのを、長谷川自身はもちろん、だれも知らなかった。

実戦練習開始直後に襲ってきた絶体絶命のアクシデント

 7月の末だったか、あるいは8月の頭だったかもしれない。当時は神戸・新開地にあった真正ジムで、長谷川と会った。

「いいボクサーだと思いますよ。体も恵まれているし、パンチもある。きれいな戦い方もできます」

 対戦者ルイスの印象を聞いたら、まるで他人事のように淡々と評した。やはり、長谷川が見ているのは、自分自身だけだった。勝てば、世界タイトルの3階級制覇になる。これまで、日本人ボクサーでは亀田興毅、井岡一翔、八重樫東の3人しか達成していない大記録となるが、それも長谷川の眼中にはなかった。自分のボクシングの原点を確かめることだけだと言った。

「打たれないで打つ」そして「安全にカウンターを打つ」。元プロボクサーの父・大二郎氏から授かった極意を体現する。ここ数年、長谷川はずっと言い続けてきた。証明できるのは、結果を出す以外にはない。

「誤解されたら困るけど、おもしろい試合をしようなんてまったく考えていません。勝つためだけの戦いをします。応援してくれる人が、僕が勝って喜んでくれれば、それでいいんです」

 勝つための戦いを完遂することが、おもしろい試合になる。そんなことは長谷川自身が一番にわかっている。

 短い会話を終えると、長谷川は練習に入った。ルイス戦に向けて、この日。初めてのスパーリングを行うという。「ごく軽めに」と断って始まった実戦練習。たった3分後のことだ。異変が起こる。ラウンドを終えた長谷川が、グローブを装着した左手を右手で押さえながら訴えた。

「痛い。ものすごく痛い」

 その声は叫びに近かった。

 グローブを外してと言ってから、「いや。もうちょっとやってみる」とワンツーをから打ちする。2度、3度。「だめや。やっぱり痛い」。だれの目からも、ただならぬ事態だと理解できた。

 この後の長谷川とのやり取りはうろ覚えながら、私はたまらず声をかけている。「病院に行ったほうがいい。今すぐに」。長谷川は答えた。「だって取材があるんでしょ。写真を撮らな、あかんのでしょ」。長谷川はいつも取材者に対して誠実だった。だが、そんな状況にはない。「どうにでもする。すべて見なかったことにする」と答えると、やっと、長谷川は病院に行く準備を始めた。

 長谷川がエレベーターで階下に降りた後、私は暗然とした思いを抱えてジムを出た。

 夜遅く、携帯が鳴った。長谷川からだった。

「(骨は)折れていませんでした。ただの脱臼です」

 スマホを耳に曖昧な相槌を打ちながら、手の親指の形状を考える。手首から突き出た台座のような部分に、根っこの関節部分が支えられる。どう考えても、ただの脱臼であるはずはなかった。つとめて明るく話す長谷川が、不憫でならなかった。

 それ以前の数戦、私は『ボクシング・マガジン』に、引退の決意を促す戦評を書いてきた。めったに出会えない大チャンピオンだ。あらゆる意味で、きれいなままでやめてほしいと思ったからだ。それでも、本人が願った戦いが実現したのなら、思う存分に戦ってほしいとも思ってきた。それも、かなわないというのか。仮に試合をキャンセルしたらどうなる? 年齢を考えるなら、その次はないと考えたほうが賢明だ。ならば、ハンディを承知で戦うしかない。それは、あまりに残酷過ぎる運命だと思った。

 それから45日、私は長谷川に連絡をしなかった。何を言っても気休めになる。どんな言葉をかけようと、心の負担を強いるだけ。まして、第三者がコンディションの根幹にかかわる事実を知っていることは、ディープ・スロート(情報提供者)になりうるということだ。

 見知った事実を書くのが、取材者の使命である。だが、私にそれができるはずはない。書くどころか、どこかに漏らすこともできない。だったら、ときどきの状況を聞かないほうがいい。頻繁に問いかけることが、疑心をあおり、彼が信じた戦いの形を乱すことにもつながりかねない。

 戦いの日まで、長谷川と私は負傷の事実を共有する同士であって、取材対象者と、あるいは情報拡散の可能性を持つ取材者という絶壁の信頼に成り立つ関係であり、真実は戦う者と、心配で仕方がない一ファンでしかなかった。

 長谷川はジムから急行した病院で即座に手術を受けていた。その翌日から痛み止めの座薬を入れて、右のパンチだけでの練習を再開した。手術跡から出血して、何度も縫合し直した。それらの苦難の道のりを、試合が終わるまで私は一切知らなかった ── 。

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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