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長谷川穂積は厳しい敗北を重ねる。偉大な物語の終焉をだれもが覚悟した

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
マルチネスの強打を浴び、長谷川は苦闘のうちに敗北する(写真:山口裕朗/アフロ)

 長谷川穂積と話せば、だれでも気づく。やさしい男だ。まんべんなく気遣いもできる。シャイなところもあるが、気を許せる仲になると、彼が持つ美徳、正直や恩義などを隠すことなくさらさらと語りかけてくる。そんな長谷川だから、『亡き母に捧げる2階級制覇』と出来すぎた人情噺でも、素直に感動することもできた。

 2010年11月26日、長谷川は不敗のメキシカン、ファン・カルロス・ブルゴスを打ち破り、WBC世界フェザー級タイトルを獲得。バンタム級から飛び階級での2階級制覇を成し遂げた。ブルゴスの強打と真っ向からぶつかり合い、勝利をむしりとった戦いは、スピードとタイミングを縦横に駆使する長谷川本来のボクシングとは違う。

「あのときの僕には、そういう戦いが必要だったんです」

 長谷川はそう繰り返す。だが、この一戦から何かが違ってきた。長谷川穂積の精緻なボクシングに、はっきりと狂いが生じてくる。

東日本大震災で試合に集中しきれず

 2011年4月8日、東京・両国国技館で、初防衛戦が決まっていた。挑戦者はジョニー・ゴンサレス(メキシコ)。かつてのWBO(世界ボクシング機構)バンタム級世界チャンピオン。強敵である。古典的なメキシカン・テクニックの持ち主でありながら、ハードパンチャーでもある。さまざまな角度から打ち込むコンビネーションブローも装備している。50戦を超す長いキャリアにも注意が必要だし、この時点で7連続KOと好調でもあった。ただ、長谷川のスピードと、攻防ともどもの豊富なバリエーションがあれば、攻略が難しい相手とは思えなかった。

 だが、長谷川は微妙に揺れ動いていた。ブルゴスに勝ち、母への思いを遂げたことで、達成感、充足感があった。気持ちをなかなか切り替えることができなかった。

 そして世の中には大事件が起きていた。2011年3月11日の東日本大震災だった。試合に備えての調整がさらにギアアップされたころは、増え続ける死者行方不明者、被災者の数、核への不安が刻々と報道されている時期にあたる。

 長谷川は隣接した経験を持っていた。1995年の阪神・淡路大震災である。当時は中学生で、兵庫県でも中央部の西脇市の実家で暮らしていたから、被災したわけではないが、近隣の大都市、神戸の惨状は、テレビのニュースと身近な伝聞から脳裏に刻み込まれた。今度の東日本大震災でも、交友のある東北の人々が厳しい避難生活へと追い込まれた。平常心で見過ごすことはできなかった。

 この初防衛戦にも震災の影響が直に及んだ。厳しい被災状況もあったし、電力供給への不安もあって、プロモートサイドは東京開催を断念した。急きょ、試合場は長谷川の地元・神戸のワールド記念ホールに変更されたが、チケットを売る猶予はわずか1週間しかなかった。

「こんなときにボクシングをやって、ほんとうにいいのかな。僕らの力が激励になると言っても、避難している人はテレビを見れるんだろうか」

 長谷川は、戦いだけに集中できなかった。

一撃KO負け、無冠になった長谷川は語らなくなった

 ゴンサレスとの戦い。熱心な地元ファンの歓声の中でリングに立った長谷川だが、まるで精彩がなかった。足が動かない。スピードもない。パンチも切れない。ないない尽くしの上に、集中力も欠き、無駄なパンチの交換を正面からやり合ったりもした。さらに、どの戦いでも惜しみなく発散してきた野性味がない。大柄なゴンサレスに対し、雑なパンチでやり返すばかりで、大味な序盤戦は続く。

「どうして?」と見る側の不安がかき立てられた。「ラウンドを重ねれば、調子も上がるかもしれない」と希望のよりどころを探し始めたその矢先だ。第4ラウンド。メキシカンの右ストレートを浴びて、長谷川はもろくもキャンバスに落下する。たった一発だったが、ダメージは大きい。立ち上がったものの、腰のあたりがふらついている。カナダ人レフェリーのマイケル・グリフィンは、カウントを中止して、チャンピオンの体をだき抱える。

 あっけなくも長谷川は散った。

 その後、長谷川の『変化』はより明瞭になる。はっきりと無口になった。無冠となった現実が、長谷川の気持ちをシェルターに押し込んだのかもしれない。仕方ないことだが、敗北を契機に去っていく人もいたし、マスコミの取材数も減っていく。語りかける人が目減りしたから、その分、発言も届かなくなった。

 そして、ゴンサレス戦以降、長谷川の試合数も減っていく。カムバック戦は1年後のことだった。その相手ホセ・カルロス・フェリックス(メキシコ)は18戦全勝。さらに8ヵ月後のアルツロ・レイジェスは北京五輪メキシコ代表として2勝している技巧派だ。2013年8月に初回で豪快にフィニッシュしたヘナロ・カマルゴも伝統あるメキシコのナショナル・チャンピオンである。対戦相手の質の高さは維持されていたが、世界タイトルマッチのような注目度はむろんない。

 いずれの戦いも、長谷川穂積らしさはかすかに見えても、その本領とはほど遠い。理由はただひとつ。長谷川は世界タイトルしか、見ていなかった。ボクサーとしての自分の居場所は、世界の頂だけ。名ボクサーとして栄誉をほしいままにしたのだから、それも無理からぬことだ。

3年ぶりの世界戦で、新たな苦難が待ち受ける

 長谷川が待望し続けた世界タイトルマッチは2014年4月23日。無冠になってからもはや3年の歳月が流れていた。IBF(国際ボクシング連盟)世界スーパーバンタム級タイトルマッチ。3階級制覇をかけた戦い、チャンピオンはキコ・マルチネス(スペイン)だった。会場は大阪城ホールである。二つの世界戦によるダブルメインイベントの形だったが、長谷川の試合が先に行われる。つまりアンダーカードだった。長谷川に異存があるはずもない。元チャンピオンとは昔話の主人公に過ぎない。現役チャンピオンでしか、新しいストーリーを描けないのは承知していた。

 ただ、ここでも以前の長谷川ではなかった。世界戦に「勝ちたい」ではなく、世界戦を「戦いたい」までにとどまっていた。長谷川自身、自分の心持ちに後になって気づいたという。「勝ちたい」と「戦いたい」。近くにあるように見えて、実はどこまでも遠い。

「すぐに世界戦ができると思っていたのに、3年ですからね。結果論ですが、絶対に勝って帰るではなく、いつの間にか、リングに立つことだけが目標になっていました」

 はやる気持ちが何かをむしばんでいた。追い打ちをかけたのはIBFのルールである。試合前日のオフィシャル計量で合格しても、そのまま減量から完全には解放されない。当日の朝に10ポンド(約4.454キロ)以上のオーバーがあれば、タイトルマッチとして承認されないのだ。

 IBFの世界戦は初めてだが、長谷川はもちろんこのルールも承知していた。ゴンサレス戦以降、チャンスがあればフェザー級でもスーパーバンタム級どちらでも、あるいはどの団体でも行けるように準備をしてきた。前日計量でも、リミットの122ポンドぴったりで合格している。ただし、この後に誤算があった。

「計量後の昼食で、うどんを食べ、水分を摂っただけで5.5キロも増量してしまったんです。慌てました」

 計量後の増量制限のなかったこれまでとは違って、思う存分に食べられない。このとき初めて、激しいプレッシャーを感じる。「体重をリバウンドさせられるのも強さのうち」とかつて言い放っていた男の体が、食べることを拒んでいた。

 試合当日の朝、大阪・桜ノ宮駅近くの大阪帝国ホテルの計量場に現れた長谷川は、ひどく干からびて見えた。深いしわ、筋が浮き出た首筋は、33歳の年齢にはとても見えない。まるで疲れきった老人のようだ。正直、これで戦えるのか、と不安がよぎった。

打ちのめされた長谷川に未来は見えなかった

 戦いは過酷なものになる。

 チャンピオンのマルチネスは技術的には並みのボクサーに過ぎない。闘志があって、馬力もあり、パンチが少しばかり重い。前のめりに打ち合いを臨み、ごつごつと左右の拳を突き立てる。それだけのボクサーなのだ。以前の長谷川なら、難なく手なずけ、強烈なカウンターで打ち倒したに違いない。

 だが、長谷川は焦っていた。マルチネスの突進をやり過ごすことなく、正直に連打で切り返していく。パンチの回転力も、このボクサーの自慢のひとつ。だが、あまりに強引過ぎないか。マインド、ウェイト両面、コントロールの手違いが、戦いの呼吸を乱したのだろうか。

 2ラウンド。悪い予感は現実となる。マルチネスの右を顔面に直撃されて、長谷川はダウンしてしまう。ここは立ち直ったが、4ラウンドにはバッティングで左まぶたから激しく出血する。以降、長谷川は体力はもとより、気力さえも、その半分以上がえぐり取られてしまったように見えた。

 6ラウンド、左パンチを突いてマルチネスの攻めをストップしようとする長谷川だったが、対戦者はかまわず突進してくる。ラウンド終了間近、スペイン人の右を次々に強襲され、足がもつれた。

 残酷なエンドマークは、続く7ラウンドに刻印される。ショートブローでやり返すところに左フックをカウンターで決められて、長谷川がしゃがみ込む。うつろな目を自コーナーに向けて、レフェリーのカウントを聞く姿に限界を感じた。戦闘再開を促すコール、ラスベガスのベテランレフェリー、ロバート・バードの『BOX!』を、「もう、やめてくれ」と叫び出したい気分で聞いた。結末はすぐだ。左フック2発を投げ込まれ、またも前に崩れた長谷川にストップがかかり、セコンドも同時にタオルを投げ込んだ。

 退場する長谷川に対し、大阪城ホールの観客席から無言の拍手が湧きあがる。それは偉大なボクサーに対する『さようなら』のように聞こえた。私もまた、長谷川が病院に向かう車に乗り込むという大阪城ホール玄関口まで走った。それも、ボクサーとして会うのは、これが最後だと思ったからだ。

 だが、その後に長谷川が下した判断は違った。『最後の栄光』まで、実はこのときからカウントダウンは始まっていたのだ。

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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