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長谷川穂積「ああいう戦いをする必要があった」。『渾身』を尽くしたブルゴス戦の真相

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
長谷川穂積はブルゴスを破り、2階級制覇(写真:中井幹雄/アフロ)

 どんなに偉大なボクサーでも、多くは時間を見誤ってしまう。あのとき、もっとできたんじゃないか。だったら、今ならきっとできるはず。あのモハメド・アリも、マイク・タイソンもそうやって、よけいな何戦かを戦ってしまった。

 キャリアの最後の最後に3階級制覇を成し遂げた長谷川穂積は、幸せなエンディングを持つボクサーだった。これは稀なる例である。ただ、ハッピーエンドへの道行きは、汚泥の轍をたどるかのように、挫折と失意が折り重なった。

 すべては、2010年4月30日。フェルナンド・モンティエル(メキシコ)の思いがけない一撃に、実質上の王座統一はもとより、10度も守ったWBC(世界ボクシング評議会)のタイトルを失った瞬間から始まる。

モンティエルは再び長谷川と戦おうとはしなかった

 モンティエル戦で右下顎骨折を負った長谷川は、手術、入院を経て、試合から3週間後にカムバックを表明する。当初のターゲットはモンティエルとの再戦だった。長谷川本人ならずとも負けるはずのない試合だったと信じていたし、事実、左フックを痛恨のエラーをおかすまで、すべてが長谷川の思惑どおり、周囲が期待したとおりに、ことは進んだ戦いだ。再び戦おうと思うのも、当たり前のようにうなずける。

 モンティエルはこの話に乗ってこなかった。世界2団体のチャンピオンになったなら、もっと大きなチャンスを探したい。わざわざ極東の敵地に出向いて、2度まで危険を冒す必要はなかった。モンティエルが“フィリピーノ・フラッシュ”ことノニト・ドネア(フィリピン)とラスベガスで対したのは翌年の2月のことだ。このとき、モンティエルの野心は実らず、ショッキングなほどに痛烈なノックダウンを食って敗北する。

 話は戻る。相手側にその気がないのなら、体重管理が極限にまで達していたバンタム級にとどまることはできない。長谷川はスーパーバンタム級を飛び越え、一気にフェザー級にまで体重を上げる決意をする。フェザー級とバンタム級。その差およそ3.6キロ。軽量級のボクシングの常識では途方もない数字になるが、長谷川のスピード、反応の速さ、パンチの回転力があって、コンディションがきちんと整えられるなら、決定的なハンディにならないに違いない。

 チャンスはすぐにやってくる。粟生隆寛(帝拳)を破ってWBC世界フェザー級チャンピオンになっていたエリオ・ロハス(ドミニカ共和国)が肩を負傷し、長期ブランクを作ることになる。WBCではロハスを休養チャンピオンに棚上げし、WBC世界フェザー級王座決定戦を行うよう指令を出した。

 王座を争う選手として指名されたのは、挑戦者決定戦から勝ち上がってきたファン・カルロス・ブルゴス(メキシコ)、そして長谷川だった。

 ブルゴスの戦績は25戦全勝18KO。177センチの長身から振りかざす強打が自慢の22歳だが、ボクシングの造りは粗い。長谷川が存分に能力を発揮すれば、恐れずに足らずと思えた。

 ひとつだけ、不安があるとすれば、フェザー級ウェイトで戦いのテストなしで臨むこと。しかも、いきなり世界の頂点をかけてだ。長谷川がそこまでの戦歴で最も重いウェイトで戦ったのは55.2キロ。これはスーパーバンタム級リミットで、それも8年前の話になる。だとしても、所詮、格は違う。

 2010年11月26日、名古屋市の日本ガイシホール(名古屋市総合体育館)。WBC世界フェザー級王座決定戦。誰もが長谷川の『飛び級での2階級制覇』達成に、少なくとも私は確信をもっていた。

予想外の打撃戦を望んだ長谷川

 思いがけない展開になる。長谷川が足を使わない。ブルゴスの真正面に立って、自ら打ち合いを挑んでいる。

 大きな弧を描く、メキシカンのパンチを上体の動きだけでやり過ごすと、すかさず左ストレート、右フックで攻め返す。いずれも、対戦者のパンチの打ち始めを見計らってのパンチだ、いわゆる『相打ち』のカウンター狙い。もちろん、当たれば効果も大きいが、よけそこねれば、大きなダメージを被ることになる。

 スピードも技術力も長谷川が大きく上回る。だとしても、きわどくも、危険過ぎる。集中力がわずかに途切れた7ラウンドには、ブルゴスのアッパーカットを浴びてよろける光景も見られた。だが、長谷川は最後まで打ち合った。

 判定は文句なしだった。軽量級で最も長い歴史を持つバンタム級のチャンピオンからフェザー級へと転身し、堂々と王座に復活した。偉業をたたえることに、一切の不服はない。だが、私には長谷川の戦い方がどうしても腑に落ちなかった。

 勝利の歓喜からそこそこの時間を経てから、長谷川に問うたことがある。それがボクサーとして、最善だったかどうかはわからないとしたうえで、長谷川は答えた。

「ブルゴスとの試合、僕はああいう戦いをする必要があったんです」

力の限りに戦い抜いてこそ、初めて価値ある勝利になる

 長谷川は試合のおよそ1ヵ月前、10月24日に母親の裕美子さんを喪っていた。まだ55歳。がんとの長い闘病の末の死去だった。先進医療を受けるために、長谷川が医療費を負担して、何度も入院させていた。それでも、命をつなげなかった。

 息子にとって、若い母親の死は簡単には受け入れがたい。すでに死病にあったという事実を把握し、「いつかは」と覚悟はあったとしても、いざ現実となると、やりきれない。

「そんなはずはないのに、自分が死なせたような気になってしまう。僕がしっかりとやらなかったから、死なせたんじゃないか、と」

 私自身の経験に照らし合わせてみても、長谷川の心の成り行きは、そのまま理解できる。

 25日、実家のある兵庫県西脇市で営まれた母・裕美子さんの通夜。遺影を抱えた長谷川の顔は失意で埋まっていた。とても、32日後に世界戦を戦うボクサーのそれとは思えなかった。

 すぐに神戸のジムに戻った。だが、世界戦のための準備が最終段階に入っても、少なくとも精神的な部分では、長谷川は立ち直れてはいなかった。そして、覚悟を決めた。

 逝ってしまった母に、懸命に立ち向かう姿を見せたい。きれいに、手際よく、戦うことはやめた。危険を顧みず、がつがつと打ち合い、それに打ち勝ってこそ母に捧げる、意味ある勝利になる、と。純情な長谷川らしい決断だった。

 ボクシングというスポーツは、合理の極致にある。やるべきこと。やってはならないこと。人類が殴り合いを競技にして7000年、ベーシックな処方の数は10や20じゃきかない。それら基本をまず自分自身の感覚の中に徹底して落とし込む。作戦などで微妙な変化を加えるのは、そのすべてが、鉄則で突き固められた要塞の内側になくてはならない。

 けた外れのスピードと回転力に、ナチュラルタイミングまで身につけたボクサーが、一度限りのつもりでも、それをはみ出して戦った。

「ブルゴスの戦いは、ある意味、自分の『生』をかけた戦いでした」

 結果として、文句なしの勝利だった。長谷川に一切の悔いはない。だが、ブルゴスとの戦いを経て、ころりとねじの一本が抜け落ちた。遺漏の地点を探し出すのもなまやさしいことではない。私にはそう思えた。

 いつか、長谷川にそう伝えたことがある。

「モンティエルに負けたからといって、自分のボクシングが変わったとは思いません。ただ、ブルゴス戦では、確かにファイターとして戦った。そうしてみると、そういう形で戦うことが楽になる。相手の出方、対処の方法。いちいち考えなくていい。とにかく前に出て戦ったほうが、ずっと簡単なんですね」

 これはきっかけに過ぎない。日本を襲った国難が、長谷川の戦いの大事な部分をむしばんでいくのだ──。

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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