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たった一発で世界は変わる──長谷川穂積vs.モンティエル「衝撃の終幕」から10年

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
モンティエル(左)の猛攻に、長谷川は逆転TKO負け(写真:アフロスポーツ)

■アゴを骨折──。だれも感じとれなかった絶好の立ち上がり

 1万1000人の歓声でぎゅうぎゅう詰めになった日本武道館に、試合開始ゴングを告げるゴングが鳴り響く。

 最初の3分間はあくまでも手さぐりだった。ハイレベルの領域で拮抗している者同士の戦いだ。対戦者の戦力に敬意を払っていればいるほど、そういうスタートになる。現実のリングで自らの安全圏を確認しながら、相手の反応を見たい。サウスポーの長谷川が右、オーソドックス(右構え)の左のジャブでけん制し合う。

 モンティエルは、長谷川のフェイントに反応して、両腕の間を狭めてブロッキングする場面もあるが、多くの時間は足を使いながらのオープンガードのまま、WBCチャンピオンの攻めを誘う。ときに手首のひねりこみがよく効いた左フック、それから、やがり左の豪快なアッパーカットを見せる。いずれも、ダッキングからの左カウンター、右フックを多用する長谷川対策なのだろう。長谷川はそれも想定済みで、慌てる気配はない。

 長谷川の動きがとてもいい。しなやかな獣のように柔らかに動き、獲物を囲い込んでいく。打ち終わりにサッと打ち込む左ストレートは効果的に見えた。右フックもタイムリーにヒットする。ラウンド終盤には速いワンツーから、さらに追いかけてもう一度ワンツー。その足色は鋭く、ロープを背にしたモンティエルはスウェーバックでかわすまでがやっとだ。偵察戦でも、主導権はもう長谷川の掌中にあった。

 試合後、長谷川は右アゴが骨折していたことが明らかになる。セコンドについた山下会長は、初回に浴びたパンチで「奥歯がぐらぐら」の状態になったと証言したが、モンティエルのパンチは左フックをたたいたのが2発ほど。いずれも強いパンチではない。ただのはずみで、骨折の大事が起こるものなのかは確認できない。実際、その後の長谷川に、そんな大きな負傷を感じさせるものはなかった。

 2ラウンド、メキシカンはやや攻撃の頻度を高める。クリーンヒットはない。ただ、長谷川は左ストレートを打つときに何度か前にのめるような形になったり、攻め終わりに止まってしまうシーンもあった。もし、アゴの故障が影響を及ぼしているとしたら、そのあたりから察するしかないが、それも微々たる変異に過ぎなかった。

■はっきりとペースをに握りながら、思いもよらぬ結末が

 長谷川の攻めは3ラウンドに入って、より加速し、多様性も加わってくる。ダックしながらの右フックがジャストミートする。さらにステップを使って回り込むモンティエルを追っての左もヒットした。3階級制覇の猛者に、戸惑いの表情が浮かんだ。

 モンティエルはこのあたりで、作戦に変更を加えようと考えたかもしれない。とにかく速い、そして思いがけないタイミングで打ってくる。そんな相手に、イーブンペースで戦いを支配し続けるのは難しい。展開にイントネーションをもっとつけ、意外性のある一打を狙う。そこで、どこまでまとめられるかが勝負、と。衝撃の終幕が、そうやって序曲を奏でられていたとしたら、これもまた、観る者誰もが知らないままにだった。

 主導権は長谷川の手もとにあった。4ラウンドに入っても、左ストレートのボディショット、左フックの好打があった。そんな流れを取り崩そうと、モンティエルは攻めにはやるが、長谷川のボディワークに難なくかわされていく。

 長谷川陣営は「5ラウンド以降、もっと攻めに重点を置いた戦いに転じる」という作戦があったという。後に聞いたところによると、本人には大胆に戦い方を変えるつもりはなかったというが、頭の片隅にその後の展開を考えるゆとりはできていたのかもしれない。モンティエルのやり口はおおよそ確認できた。そのすべてに対応できているのだ。

 だから、だ。ラウンド終了まで残り10秒を告げる拍子木が鳴った直後、コンマ秒の空白ができたのか。しかし、それにも長谷川は答えをくれない。「拍子木の音は覚えています。そのあとに何をどう考えたかは覚えていませんね」。

 実際はこうだ。モンティエルの左アッパー2発をかわした長谷川が追う。そこで木と木ががぶつかる甲高い音。それから1秒あったかどうか。WBO王者が仕掛けた攻めに、長谷川は安易にカウンターを取りにいった。そこにモンティエルの左フック。長谷川のアゴを直撃した。

 その中心から芯を引っこ抜かれたように、長谷川の体が大きくたなびく。よたよたと後退したのを、手練れのモンティエルが見逃すはずはない。一気に10発以上の連打をたたみかけた。左手をロープ2段目にかけたまま、長谷川は無反応にパンチを打ち込まれる。テキサスからやってきたローレンス・コール主審がストップをかけたのは2分59秒。ラウンドが終わるまで残り1秒。長谷川はレフェリーに「なぜ?」というように一言二言、抗議したが、ディフェンスレスの状態が10秒近く続いたのだから、この判断は仕方ない。

 長谷川の技にどよめいていた日本武道館が悲鳴で満たされ、そして静寂へと変わった。たった一発で世界は変わる。ボクシングはときに、たとえようがないほどに残酷だ。

 試合後の控室。長谷川は「楽しめました。(モンティエルとの)駆け引きは、楽しかった」とまで言うまでがやっとだった。あとは男泣きに泣いた。もう、誰も声をかける者はいない。

 長谷川はその後も戦い続ける。一度、失った勢いを取り戻すことは難しい。もっと大きな栄光にたどり着くまでの道のり。それはボクサーの時間としては果てしなく長く、厳しいものだった。

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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