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長谷川穂積の4月。「デスマスク」ウィラポン撃破のよみがえる2005年4月の記憶

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
スピーディーな『無心のアタック』で世界王座を奪い取った長谷川(写真:ロイター/アフロ)

 長谷川穂積の4月。WBC世界バンタム級王座10度防衛、さらに3階級制覇。21世紀日本が生んだ大ボクサーにとって、行き過ぎる春爛漫の記憶は、天空に舞い上がる歓喜と、枯井戸の底を舐めるほどの悲痛とがともにある。今から15年前、初めて世界チャンピオンになった。そして、絶対の自信を持って臨んだ事実上の世界王座統一戦、一瞬の強打に夢が散ったのはちょうど10年前になる。同じ4月に喫したさらに2度のTKO負けの試練は過酷で厳しかったが、やがて3階級制覇の偉業への道しるべになる。

■「自分のボクシングじゃなかった」と勝者は言った'

 仮にこの戦いに勝っていなかったとしたら、その後の長谷川穂積が、これほどの存在になれなかったかもしれない。2005年4月16日、東京・日本武道館のWBC(世界ボクシング評議会)世界バンタム級タイトルマッチ、4位の長谷川が挑むのは、牙城はけた外れに高い牙城に見えた。チャンピオンは14度連続防衛を続けるウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)だ。10年近く、不敗を守ってきたアジアの奇跡である。

 長谷川は試合後に明かす。

「自分が勝てるとは想像できなかった。だから、自分の力のすべて出して、どうなるのかとだけ考えていました」

 もしかすると、先輩ボクサーに対しての配慮したコメントだったかもしれない。ウィラポンは1990年代の大ヒーロー、辰吉丈一郎(大阪帝拳)、そして圧倒的なハイセンスが輝き、『辰吉越え』の一番手と見られていた西岡利晃(帝拳)と計6度対戦し、いずれも跳ね返してきていた。

 さらに、長谷川はウィラポンとの戦いは、「自分のボクシングじゃなかった」とも告白している。結果論で語るなら、「自分のボクシングじゃなかった」ことこそが、巨星に流れ込むエネルギーをひとまず阻み、最後は突き放すことにつながっていく。

■ローカルホープから頭角を現す

'

 あのとき、WBC世界バンタム級4位にランクされるチャレンジャー、長谷川穂積(当時の所属は千里馬神戸)にどれだけの期待がかけられていたのだろうか。初めて世界に挑む長谷川の名前は、あくまでもごく一部の熱心なファン限定であり、実績、戦力評価ともウィラポン撃破への信頼を置くには、いささかながら頼りなく見えたものだ。

 長谷川はプロ入りして6年目になる。サラブレッドではない。アマチュア戦績は皆無。最初の5戦は3勝2敗。どこにでもいる並みの4回戦ボーイだった。6回戦、8回戦と戦うようになってから、将来性豊かなホープと期待されるようになっていくが、まだ関西のファン、関係者の間だけのものである。

 私が長谷川の試合を初めて生観戦したのはウィラポン戦に先立つ2年前、神戸市で行われた東洋太平洋バンタム級タイトルマッチだった。日本選手相手に10勝1敗と日本人キラーの名をほしいままにしていたチャンピオンに長谷川が挑んだ。関西の知人の勧めで、仕事抜き、ひとりの観客として見に行った。

 長谷川はダウンを奪って判定勝ち。初めてのチャンピオンベルトを手にする。ただ、ジェス・マーカの厳しいプレスをまともに受け止める局面もままあって、苦しい戦いでもあった。

 このときの戦績は14戦12勝2敗。12勝のうちKOはたった4つしかない。KO率がパンチの破壊力を表すすべてではないし、長谷川という新鋭ボクサーにはパワーをカバーする武器もある。スピードは特級。カウンターを取るタイミングも素晴らしい。伸びしろは十分すぎるくらいにある。

 ただし、テンポの速い、ハイレベルでタフな攻防に打ち勝っていくためには、当然ながら不足はいっぱい見えた。第一に、もっと経験が必要である。問題の核は、そういう環境を作れるか、だ。エリートへの特別待遇は別にして、地方を主戦場にする若手が安全に課題をクリアしながら、キャリアを積んでいくのは簡単なことではない。

 それから1年半経った2004年10月、長谷川は初めて東京のリングに立った。世界挑戦者決定戦と銘打たれた10回戦で、WBA5位の鳥海純(ワタナベ)と対戦した。アマチュア出身で技巧派パンチャーとして成熟した鳥海をスピードとバリエーション豊かなコンビネーションで圧倒して文句なしの判定勝ちを収める。しかし、戦法は常に前のめりだった。攻撃にはやるあまり、5回には強烈な左カウンターでアゴを貫かれ、大ピンチにも遭遇している。

 東洋太平洋タイトル獲得、挑戦者決定戦に勝って、いよいよ世界タイトルマッチに接近した。連勝は14にまで伸ばした。それでも、不安はぬぐえなかった。何よりも、頂はどこまでも高いのだ。

■ウィラポンはストイックに格闘技と向き合ってきた

 ウィラポンはバンタム級史上でも、トップクラスの名チャンピオンと評価されていた。タイの国技ムエタイで3階級制覇を果たし、次の目標を定めた国際式ボクシングでは、わずか4戦目でWBA(世界ボクシング協会)世界バンタム級王座を手に入れた。このベルトは初防衛戦で伏兵に奪われてしまうが、その後は42連勝。1998年に辰吉を痛烈なKOに破ってWBCのチャンピオンになり、辰吉との再戦、西岡との4度の戦いを乗り越えて、無敵のチャンピオンロードを歩み続けた。

 見栄えのいいステップはなかったし、シャープなコンビネーションもない。そのウィラポンの何よりもの強さは、フィジカルの強さと鉄の意志にある。徹底的にプレスをかけ、対戦者の戦力をひんむくように剥いでいく。その間、ウィラポンには一切の表情はない。無表情のまま攻めを重ねて、チャンスには無慈悲な追撃打を連ねていく。いつしか、“デスマスク”(死に顔)というニックネームをつけられた。

 不気味なニックネームで呼ばれるようになったのはもうひとつの理由がある。日々、格闘技に向き合って20代、30代を生きてきた。栄光を手にしながらも、生活はストイックをきわめた。妻子とともに映画館の裏手にある一室で暮らし、収入の大半は貯蓄に回していた。今の自分に必要なのは、強くなるための時間と環境だけでいい。長谷川の挑戦を受けたとき、36歳。偉大なチャンピオンの冒険はまだ途上にある。少なくとも、ウィラポン自身はそう信じていた。

■序盤からのスパートで勝利への扉を開く'

 戦いの日はやってきた。そして、その後に長谷川が口にした一言、「自分のボクシングじゃなかった」は真実だったのだろう。堅実なステップで着実に距離を作り、左ストレートを軸にカウンターを狙い、返しの右フック、さらに左のダブル、左右のアッパーカットとコンビネーションを厚塗りする。これが本領でも、ときに生来の強気が前面に出て、距離を詰めての打ち合いに出てしまう。鳥海との戦いもそうだったし、ウィラポン戦も同じだった。ただ、大事な戦いにそれが奏功した。

 ウィラポンの数少ない弱点のひとつは、スロースターターであることだ。まして、前日計量では珍しくオーバーウェイトしている。余分な体重は300グラムで、「朝食でおかゆを食べてしまったから。何も問題ない」と言ったウィラポンは、30分ほどロープを飛んで、約53.5キロのバンタム級リミット内にウェイトを削り込んだが、その影響も少しはあったのかもしれない。

 長谷川の仕掛けの速さに戸惑っていたオープニングラウンドの半ば過ぎ、左ストレートを直撃されたウィラポンがたじろいだ。一歩二歩と後ずさりする。動じないそぶりは見せてもその後も動きは重い。挑戦者の手数に対応できなかった。3ラウンドまで、すべて長谷川がポイントを獲っていた。結果、この序盤の得点差が勝敗を大きく左右することになる。

“デスマスク”の本領が、明白な形になってくるのは4、5ラウンドからだった。得意の右ストレートを携えて、無言のパレードは始まった。この右、自分とは異なるサウスポー相手にはより効果的に機能する。フェイントをかけるなど特別な意図がない限り、ノーモーションのまま急所めがけてまっすぐに伸びる。あるいはジャブ的に刻みながら使って幻惑もする。

 長谷川に不用意な被弾が目立ってきた。「自分のボクシング」ができなかったつけであったのだろう。スタイルをなかなか修正できなかった。粘っこく、しつこいタイ人の攻めに中途半端につき合ってしまった。ただ、同時にメリットも得ていた。ポイントの劣勢と、挑戦者の予想外の戦力に直面して焦りがあったか、ウィラポンは大事なもうひとつの得意技を置き忘れていた。ボディブローである。重く、体の芯まで突き抜ける腹部へのパンチ、いつもはしつこいくらいに打ってくるのにこの日はほとんどなかった。どこまでも単調に、顔面へのパンチばかりに終始する。

 長谷川は確かに得点差でにじり寄られながらも、余裕を残したまま終盤戦を迎えた。

■一度はダウン寸前に追い込み、大差判定を勝ち取る

 9ラウンドだった。それまで、相手の単調な攻めにつきあっていた長谷川が動き出す。ステップを踏んでロングレンジを保ち、攻防の間合いを大きく開けた。するとどうだ。ウィラポンはついてこれない。猛追のために急激にギアをチェンジしたことが、スタミナと集中力を搾り取っていた。

 決定的なシーンは10ラウンドにやってくる。長谷川の左ストレートがカウンターとなって炸裂する。足もとがおぼつかなくなったウィラポンをロープ際へと追い込んだ、チャレンジャーの連打にダウン寸前の状態が続いた。続く11ラウンドも、ダメージを引きずるチャンピオンを一方的に打ちのめす。ラストラウンドこそ、ウィラポンの執念の追撃に追われたが、最後は反撃に転じ、そのまま試合終了ゴングを聞いた。

 ジャッジ3者による判定は115対113がふたり、116対112がひとりの3-0でいずれも長谷川を支持していた。僅少差ではあったが、勝者は間違いなく長谷川だった。

「勝てるとは思わなかった」という『無心』、「でも、勝ちたい」という『野心』。このふたつの心がきしみ合いながらも織り上げた序盤のリードから、古強者の本気に直面して生じた迷い。そのなかから自分流を思い出してタイトル奪取に突き進んだ。この戦いで体と脳の隅々から活性を集めたのだと思う。長谷川穂積のボクシングは、この勝利を境に、一段、いや二段も三段も、次元の高いものになっていく。

 2006年3月25日、2度目の防衛戦で長谷川はウィラポンと再戦する。場所は神戸ワールド記念ホール。世界チャンピオンになって、初めての地元への凱旋試合でもあった。もはや、力量の差は明白だった。長谷川は余裕をもってカウンターを狙い、アッパーカットで揺さぶった。今度は忘れずにボディブローを伴って追いすがってくるウィラポンを見透かすように打ち込んだ、狙いすました2パンチ・コンビネーション。左ストレートを見せての右フック。前のめりに崩れ落ちたウィラポンは、やっと上半身を起こしたものの、右足が硬直して立てない。レフェリーはカウントを中止して、TKO決着を宣言する。

 タイムは9ラウンド19秒。長谷川時代の晴れやかな開幕だった。

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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