Yahoo!ニュース

井上尚弥が辰吉丈一郎を超えるとき。ふたりの偉材の違い【WBSSバンタム級決勝戦】

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
古豪ナルバエスを痛快に倒し、井上はスターダムにのし上がった(アフロスポーツ)

 WBA(世界ボクシング協会)・IBF(国際ボクシング連盟)統一の世界バンタム級チャンピオン、井上尚弥(大橋ジム)のWBSS(ワールドボクシング・スーパーシリーズ)決勝が、間近に迫っている(11月7日・さいたまスーパーアリーナ)。2万ほどの客席はすでにソールドアウト。ひとつの確かな時代を作ったレジェンド、ノニト・ドネア(フィリピン)との対決だけに、ひときわ高い注目度は当然だろうし、この一戦でわれわれは井上の奇跡の強さを再び認識することになるはずだ。

 井上の強さを思うとき、私はどうしてもひとりの男と比較したくなる。辰吉丈一郎(大阪帝拳ジム)。1990年代に暫定王座を含めれば3度もWBC(世界ボクシング評議会)世界バンタム級チャンピオンになった辰吉はその才気をふんだんにリングにふりまき、大衆を魅了しきった日本ボクシング史上最大のカリスマだ。

 およそ20年の時を隔てて現れたふたりの偉材。辰吉と井上は何が同じで、どこが違うのか。

スター誕生は驚きとともにやってくる

 世界チャンピオンになったときが、キャリアの起点ではもちろんない。1991年9月19日、大阪・守口市民体育館でWBC世界バンタム級チャンピオン、グレグ・リチャードソン(アメリカ)に挑んだとき、辰吉丈一郎はまだ7戦のプロキャリアながらも、すでにボクシングファンから圧倒的な支持を集めていた。ただし、大衆にボクシングヒーローとして熱狂とともに迎え入れたのは、やはりこの一戦からだった。

 あのときの辰吉の戦いは、まさに驚異である。ボクシング記者として44年目を迎える今でもその思いは変わらない。私は幸運なことにアマチュア時代からこの天才ボクサーを認知しており、その実力をかたく信じる者のひとりだった。だが、プロ8戦のキャリアで、世界チャンピオンを相手に、まさかあそこまでのパフォーマンスができるとは想像できなかったのも確かだった。

 圧倒的な期待感がそう感じさせたか。熱気の中に揺らいで見えたリングでの戦いは、一方的な展開となる。そう、リーダーシップを握っていたのは、なぜか動きの止まった第7ラウンドの3分間を除くなら、常に辰吉だった。身長164センチにしてリーチ178センチという日本人離れした体躯を持つ21歳のチャレンジャーは、身長168センチのスリムなチャンピオンを思う存分に打ちのめしていく。ジャブで打ち勝ち、左フックをボディ、顔面と自在に決める。その左フックのボディから顔面へのダブル、トリプル、右のストレートからすかさず切り返す、同じ右のアッパーカット。どのコンビネーションもタイミングは抜群だった。

手練れの技巧を速攻で切り刻む

 リチャードソンは18歳でアメリカの2大アマチュアトーナメント、全米選手権、ナショナル・ゴールデングローブを制し、世界選手権にも出場している技巧派だった。辰吉は相手をハイテンポに、しかも強烈なレフトパンチを織り交ぜた分厚いコンビネーションで攻めたてる。あまりの速さ、攻めのバリエーションに、33歳のアフリカ系アメリカ人は、対処の手立ても準備できないままだった。辰吉のそんな序盤戦の戦いは、オーバーペースも疑われるものだったかもしれない。けれど、最初の5ラウンドまでに、リチャードソンを回復不能にまでに打ちのめしていた。

 ボディブローをしたたか食ったチャンピオンは9ラウンド以降、いよいよ苦境に立たされる。自慢のフットワークは完全に喪われ、辰吉の左が肝臓、右が脾臓のあたりに打ち込まれると、腹をかばうように体を前のめりに傾げた。さしもの辰吉も疲れたか、散発的な攻めになってはいたものの、ときおり見せる鋭角的なコンビネーションブローは健在だった。チャンピオンに反撃する余力はなかった。

 それでも倒れるのを拒み続けたリチャードソンだったが、10ラウンド終了寸前、辰吉の左フックで足もとをばたつかせてロープによろける。大歓声の中に規定の3分経過を告げるゴングの音は聞こえない。さらなる追撃を受けて、再び体を大きく泳がせる。

 11回開始ゴングが鳴った。リチャードソンのセコンドがリングの外に出ない。駆け寄ったレフェリーのトニー・ペレスに、首を振りながら言葉を投げる。棄権である。

 ただちに湧きあがった歓声は、これぞ万雷というほどだった。音で満杯になった狭い体育館は本当に揺れた。揺れたがオーバーな表現なら、空気が波動したのは間違いない。私の頬と耳たぶがプルプルと共振したのは決して気のせいではない。

 果てしなく辰吉コールがこだまするリングサイドを離れて、リチャードソンの控室に飛び込んだ。なんとしても、実際に戦った辰吉の印象を敗者からじかに聞きたかった。付き添うものもなく、帰ってきた前チャンピオンは、だが、長椅子に足を投げ出したまま一言も発しなかった。やがて帰ってきたトレーナーが、こちらに問いかけてきた。

「あれがプロ8戦目? うそだろう! じゃ、アマチュアを数百戦やってるんだろう? えっ、20戦そこそこ……。うそだ!! 信じられるか。ボクシングの常識には、そんなことはありえない」

 ものすごい剣幕で応答を打ち切ると、自分のボクサーの傍らに立ち尽くした。

 リングで見た真実の天才を、さらに言葉で確認した。

下落する世界王者の価値。勝ち続けなければ認知されない

 辰吉と井上尚弥との間には20年余の年齢差がある。辰吉がリングを去ってから、日本のプロボクシングを取り巻く状況は随分と変わった。世界タイトルの乱立は辰吉の時代も同じだったのだが、時間の経過とともに見る側の興味をそいでいった。ベルトの価値観は大きく下落していく。ただ、単に世界チャンピオンになっただけでは、関心を寄せるのは熱心なボクシングファンまでがやっと。同じバンタム級にも長谷川穂積(真正ジム)、山中慎介(帝拳ジム)ら時代を超越するスターチャンピオンが誕生したが、世間の大多数から認知されるまで、かなりの防衛回数を重ねる必要があった。井上もまた、事情に相違はなかったかもしれない。

 高校生にしてアマチュアタイトル7冠を達成し、鳴り物入りでプロにやってきた。4戦目で日本王座、5戦目で東洋太平洋王座を獲得、そして2014年4月6日、アドリアン・エルナンデス(メキシコ)をTKOで破り、日本最短記録(当時)となる6戦目でWBC世界ライトフライ級チャンピオンとなった。その強打、歯切れのいい攻防は誰の目から見ても魅力的だったはず。

 ただ、当時の評判は爆発的とまではいかなかった。仮にスポーツヒーロー度という数字的な評価があったとしたら、井上の存在感はメーターの半分過ぎくらいだったかもしれない。若い世代のテレビ離れは、テレビスポーツとして台頭してきたプロボクシングには痛かったし、さまざまなスポーツが台頭し、相対的な地盤沈下を加速させていた。井上はある意味、逆境のなかで勝ち続け、這い上がるしかなかった。

井上の存在感を世界に発信したナルバエス戦

 井上が海外にまで鳴り響く、奇跡のボクサーとして初めて認知されたのは、初の世界タイトル獲得から8ヵ月後、いきなり2階級上げてスーパーフライ級世界タイトルに挑んだ戦いからだったかもしれない。

 12月30日、東京体育館。対戦するのはWBO(世界ボクシング機構)チャンピオンのオマール・ナルバエス(アルゼンチン)だ。身長159センチと小柄で、年齢もすでに39歳でも、実力は折り紙つきだった。世界戦での戦績は29勝1敗。その唯一の敗戦もバンタム級に上げて、ノニト・ドネア(フィリピン)に喫したもの。大差判定を失いはしたが、一度もダウンしていない。手堅い守りと、堅調な波状攻撃を基調にした頭脳的なペースメイクが持ち味だった。さらに右構えでも左構えでも戦える強みもあった。

 しかし、井上はこのナルバエスをまったく問題にしなかった。オープニングベルから30秒もたたないうちに、右ストレートでダウンを奪う。しかもこのパンチ、本来は急所として教えられていないおでこをとらえたものだ。それでもナルバエスのダメージは甚大だった。同じラウンド、左フックでテンプルをかすめて、もう一度ダウンを奪う。さらに2ラウンド、ナルバエスの攻撃を誘い出しておいて、狙いすました左フックをカウンターで決めてまたしても倒す。フィニッシュはワンツーを顔面に飛ばしておいて、一転、肝臓を打ち抜いた左フック。この一撃は、南米の名チャンピオンの闘志を、まさしくえぐり取った。

 ナルバエス側は試合直後、リング上で井上のグローブとバンデージをチェックした。それほど信じられない井上のパンチの強さだったということだ。

 不倒のチャンプを21歳の新鋭がKO。センセーショナルなニュースとして、井上の勝利は世界中に一気に伝播した。辰吉の時代ともうひとつ違ったものが現代にはある。インターネットの普及によって、動画は国境を越えて世界へと広まるのだ。井上の従来の知名度、あるいはアメリカでは早朝の試合ということもあって、あくまでも限定的ではあったが、ファンや関係者の間に、井上の知名度はこの一戦で浸透したはずだ。

 もっとも、井上はこのナルバエス戦で右拳を痛め、1年のブランクを作る。さらに次の1年は、後遺症ともいえる拳の痛みの再発や腰痛でベストの戦いから遠ざかった。井上の存在感が世界的に再ブレイクするのは、昨年5月、初回TKOでバンタム級のWBA王座を制し、3階級制覇を成し遂げてからだった。

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

宮崎正博の最近の記事