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空襲をめぐるプロパガンダ〜戦争とメディア表現〜 #戦争の記憶

宮本聖二立教大学 特任教授 / 日本ファクトチェックセンター副編集長
日本本土空襲に向かう米軍ドゥーリトル隊のB25爆撃機 1942年4月 米軍撮影

1945年8月15日の終戦の当日まで、連合軍による長期にわたる苛烈な空襲が日本に対して行われました。

日本は、終戦前年の1944年夏に委任統治領のサイパン、テニアンを奪われ、秋にはレイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅状態になりました。実際の終戦の1年近く前に、まもなく継戦能力が尽きることは明白になっていたのです。

それでも日本の指導部は終戦に向けて動くことはなく、空襲は激化し大都市はいずれも焼け野原になり、沖縄戦、原爆投下、ソ連参戦と破滅に向けて突き進みます。

しかし、日本がドイツとは異なり、連合軍との本土での地上戦の前に降伏を受け入れたのは、空襲によって叩きのめされたことが大きな要因でした。

中国大陸とインドシナ半島からマレー半島、インドネシアに大軍を擁していただけに敗戦を受け入れたくないと本土決戦に固執する陸軍の幕僚や将校は大勢いました。

しかし、国民の多くは、空襲で家を焼かれ、家族と職場を失い、食べる物も乏しく、もはや戦う意思を失っていたと考えられます。

焼け野原になった東京 米軍撮影
焼け野原になった東京 米軍撮影

鈴木貫太郎首相をはじめ一部の政府関係者と天皇を中心とする宮中勢力は、ソ連参戦と原爆投下に至って、さらなる荒廃と破滅を避けるには陸軍を抑えて終結をはかるしかないとようやく行動を起こしたのでした。

しかし、それは、沖縄、広島、長崎、中国東北部、樺太などに取り残された人々、そして、空襲で焼かれた人々には遅すぎるものでした。

日本本土への初空襲 ドゥーリトル空襲

そもそも、日本は空襲を恐れていました。

密集した木造家屋の多い日本の都市部は、空襲に対して脆弱であることを政府も軍もよく知っていました。

日中戦争の頃から、全国の市町村で空襲を想定した防火訓練を行っていました。

それは、日本が国民党の臨時首都だった重慶を無差別爆撃していたこととも関わります。

日本は、新聞やニュース映画で繰り返し、これらの空襲を報じています。

メディアは、迎撃によって自軍の爆撃機が撃墜されることがあっても一切伝えずに、空襲は全て成功しているとのみ報じ続けました。

重慶では、陸海軍の爆撃機によって1万2000人とも言われる犠牲者が出ています。

日本ニュースが伝える重慶空襲の際の消火の様子 鹵獲したフィルムを使ったと見られる
日本ニュースが伝える重慶空襲の際の消火の様子 鹵獲したフィルムを使ったと見られる

日本への空襲は、太平洋戦争の開戦からわずか4ヶ月後に行われます。

指揮官の名前からつけられたドゥーリトル空襲(Doolittle Raid)です。

1942年4月18日のこと。

開戦から4ヶ月間で、アメリカ軍は真珠湾で壊滅的な被害を受けた後、グアム、香港、ウェーク島などの拠点を日本に次々に奪われ、フィリピンも陥落寸前でした。

こうした敗北続きで、アメリカのルーズベルト大統領は、国民の戦意高揚を図る必要がある、まずは真珠湾の報復攻撃をできる限り早く行いたいと考えました。

そこで、計画されたのがこのドゥーリトル空襲でした。

この時点での日本本土への攻撃は、アメリカは、海軍の全体も、空母の数も日本に劣り、さらに陸の拠点の多くを失い、当分は無理だろうと思われていました。

そこで編み出したのが、長距離を飛べる陸軍の双発爆撃機を空母に積んで、できる限り日本本土に近づいてから発進させて日本の大都市を爆撃して、そのまま中国の日本軍勢力範囲外に到達させようという奇想天外な作戦でした。

数少ない空母を失うわけにはいかず、爆撃機を飛ばしたあと、機動部隊はすぐさまハワイにきびすを返したのです。

ドゥーリトル中佐に率いられた16機のB25爆撃機は、機動部隊が日本側の哨戒船に発見されたことから予定よりも早く荒天の中を発進しました。

空母ホーネットから発進するドゥーリトル隊のB25爆撃機 1942年4月18日 ホーネットはこの半年後、南太平洋海戦で日本軍によって撃沈される 米軍撮影
空母ホーネットから発進するドゥーリトル隊のB25爆撃機 1942年4月18日 ホーネットはこの半年後、南太平洋海戦で日本軍によって撃沈される 米軍撮影

ドゥーリトル隊は東京、川崎、名古屋、神戸などで軍事施設や工場を中心に爆撃したり機銃掃射を加えたりしましたが、学校などの施設にも攻撃を加えて市民にも犠牲者が出て、死傷者は500人以上に上りました。

東京では、児童(葛飾区の水元国民学校)生徒(早稲田中学校)に犠牲が出ています。

対空砲火や迎撃はごく僅かで、空襲を終えた16機はほぼ無傷で中国大陸に向かいました。

日本側は、空母に搭載される単発機ではなく、双発の陸軍の爆撃機が襲いかかったことに驚きました。一体、どこから現れたのか。

ドゥーリトル隊のうち、1機(ソ連領内に)を除いて15機が中国に達して、多くがパラシュートで脱出、一部の機が不時着しました。

しかし、そのうち8人が日本軍の捕虜となりました。日本側は、その搭乗員からこの思いもよらない作戦の詳細を知ったのです。

16機全てを取り逃したにもかかわらず、東日本の防空を管轄する東部軍は、「9機撃墜」と発表しました。検閲でがんじがらめになっていた新聞は空襲被害の実態を正しく伝えることはありませんでした。

こうした「大本営発表」と戦後に揶揄されることになる過大な戦果と被害軽微という報道は、終戦まで続くことになります。

裁かれた搭乗員〜”見せしめ”裁判〜

日本は、捕らえた搭乗員の軍事裁判を上海で行い、8人全員に戦時国際法違反(市民を殺傷したという、人道に反する行為)で、死刑を言い渡します。

ただ、のちに5人を減刑して、3人を10月15日に処刑しました。

ドゥーリトル隊の搭乗員捕虜のうち減刑された5人 日本ニュース125号より
ドゥーリトル隊の搭乗員捕虜のうち減刑された5人 日本ニュース125号より

当時のニュース映画「日本ニュース」では空襲から半年後にこれらの事実を伝えています。刑の執行から4日後のことです。映像には、減刑された5人の搭乗員が写っており、恐怖の表情を浮かべているように見えます。

この映像とともに、ニュース映画の中で陸軍の報道担当将校がこう話します。

「布告

 大日本帝国領土を空襲し我が権内に入れる敵航空機搭乗員にして暴虐非道の行  

 為ありたる者は軍律会議に付し死又は重罰に処す 満州国又は我が作戦地域を

 空襲し我が権内に入りたる者また同じ

                 昭和17年10月19日  防衛総司令官」

日本ニュース「125号」(1942年10月28日公開)より
日本ニュース「125号」(1942年10月28日公開)より

これは、連合軍への警告でもありました。

日本を爆撃して、市民に犠牲が出れば容赦せず、撃墜した搭乗員は処刑するとの宣言です。

処刑された搭乗員の遺体は、国際赤十字を通して米側に渡され、判決事由についても伝えられ、このニュースはいわば国内外に向けたプロパガンダとなりました。

アメリカでも、この裁判は”Show Trial”(見せしめ裁判)と捉えており、アメリカへの警告、脅しであると理解していました。

ハリウッドが描いたドゥーリトル隊搭乗員

一方、この空襲から2年後、1944年3月8日、アメリカは1本の劇映画を公開します。

このドゥーリトル隊の搭乗員の軍事裁判を描いた「パープルハート(The Purple Heart)」。

プロデューサーとして3度のアカデミー作品賞を受賞、のちに「史上最大の作戦」(ノルマンディー上陸作戦が主題)、「トラ・トラ・トラ」(真珠湾攻撃を描いた)などの大型戦争映画を作ったダリル・F・ザナックが20世紀フォックスで制作にあたりました。

映画は、搭乗員8人を被告とする軍事法廷で展開します。

判決を受け、機長だったアメリカ軍将校のスピーチで締め括られます。

You can kill us ― all of us, or part of us.

But, if you think that’s going to put the fear of God into the United States

of America and stop them from sending other flyers to bomb you.

You’re wrong – dead wrong.

They'll come by nights and days.

Thousands of them will blacken your skies and burn your cities to the

ground and make you get down on your knees and beg for mercy.

This is your war ―you wanted it ― you asked it―you started it.

And now you are going to get it ―and it won’t be finished until your dirty

little empire is wiped off the face of the earth.

「お前らは、俺たち全員、あるいは何人かを殺すことができる。

 しかし、このことでアメリカがおそれをなしてお前らの元にさらに飛行機を送る 

 こと、爆撃することをやめるだろうと考えるなら、それは間違いだ。

 とんでもない間違いだ。」

「何千もの爆撃機が昼も夜もやってきて、お前らの空を真っ黒に覆うだろう。

 お前らの住む街をただの地べたにすべく焼き尽くしてしまうだろう、

 そして、お前らはひざまずいて俺たちの慈悲を乞うようになる。」

「これは、お前らの戦争なんだ、お前らが望んではじめた戦争なんだ。」

「それ(空襲)はすぐにも始まるだろう。お前らの薄汚いちっぽけな帝国とやらが

 この地球上からすっかり消え去るまで、終わることはないはずだ。」

 映画「パープルハート」1944年公開 右端が締め括りのスピーチをした機長役のダナ・アンドリュース
 映画「パープルハート」1944年公開 右端が締め括りのスピーチをした機長役のダナ・アンドリュース

弁士、漫談家として一世を風靡した徳川夢声は、真珠湾攻撃に喝采を送っていましたが、翌年慰問興行に赴いたシンガポールで「風と共に去りぬ」、ディズニーの「ファンタジア」を見て、「このような映画を作る国と戦争してもダメなのではないかと思った」と随筆に記しています。

戦後のいま観ると、この「パープルハート」は、夢声が感じたものと同じ感覚をより直截に抱かせます。

アメリカは、映画で宣言した通りのことを実に計画的に緻密に遂行したのですから。

映画の公開は1944年の3月で、撮影は43年秋からでした。この時期は、東部ニューギニアなど南西太平洋の島嶼戦で米豪軍との膠着が続き、アジア戦域では8万を超す日本陸軍第15軍がインドのインパール侵攻に向け険しい山に分け入ろうとしていました。

日本本土への空襲は始まっておらず(ドゥーリトル空襲を除いて)、アメリカはその計画を練っている段階でした。

日本への戦略爆撃を開始するのは、1944年6月の北九州を標的にしたもので、この時は中国・四川省からでした。四川からは遠距離で北部九州に達するのがやっとだったのです。

そして、7月にかけてサイパン、テニアンを攻略して出撃基地を建設し、ここを拠点にB29による日本本土全体への戦略爆撃を秋から本格化します。

1945年になると焼夷弾による無差別爆撃を行うようになり、まさに映画公開から1年後の3月10日には東京下町が壊滅、次々に大都市は焼け野原になり、8月にアメリカは広島、長崎に原爆を投下します。

米軍が巻いたビラには、焼夷弾を撒くB-29とともに空襲を予定した都市名が書いてある
米軍が巻いたビラには、焼夷弾を撒くB-29とともに空襲を予定した都市名が書いてある

この映画のセリフは、まさにそのまま事実となっていきます。

搭乗員を処刑しようが(実際に数多くの連合軍搭乗員が処刑された)容赦しない、降伏するまで爆撃し続けると、いわば最初の空襲をおこなった搭乗員が宣言したのです。

日本のプロパガンダは憎しみを買うことになり、アメリカのプロパガンダは功を奏しました。

ドゥーリトル隊の3人の処刑がアメリカに伝わったあとは、太平洋戦域に参戦している米兵の多くが、そして少なくない米国民が、日本人絶滅を支持したと伝わっています。

アメリカではこの映画の主人公に喝采を送った数多くの国民が戦時公債を購入、その資金などで膨大な数のB29を製造していきます。

市民を縛った防空法、「逃げずに火を消せ」

一方、日本は、容赦ない爆撃がやがてやってくるだろうと知り、防空対策を固めようとしますが、長引く戦争で疲弊して迎撃機の供給、パイロットの養成は追いつかず、その対策は不十分でした。

さらに、防空法によって市民に空襲時の消火を義務付け、避難できずに大勢が犠牲になります。

青森市では、空襲を恐れて一旦疎開した市民に、防火を担わせるため戻らないと配給を停止すると新聞を通して警告しました。

青森への空襲では、米軍が黄燐を含む最新の焼夷弾を大量に投下、到底人の手で消せるものではありませんでした。

空襲を恐れて退去した市民に、防火要員を確保するために7月28日までに戻らないと配給を停止すると告げる新聞(1945年7月・青森市) その28日に空襲があり、配給のために戻った人々の多くが犠牲になった
空襲を恐れて退去した市民に、防火要員を確保するために7月28日までに戻らないと配給を停止すると告げる新聞(1945年7月・青森市) その28日に空襲があり、配給のために戻った人々の多くが犠牲になった

わずか1時間で市街の9割が焼かれ、1000人を超す命が失われました。

この頃の新聞は、空襲の被害がいかにひどくても、市民が防火に努めたことをしきりに報じました。

検閲でがんじがらめになっていた上に、終戦末期には権力と軍部の伴走者になっていたのです。

1945年7月1日の熊本空襲では、中心部のほとんどが焼かれ400人の死者が出たが、新聞は「倉庫街の一部を焼失したが、重要建物の損傷を最小限に食い止めたことは(中略)完全な勝利である」としか伝えていない
1945年7月1日の熊本空襲では、中心部のほとんどが焼かれ400人の死者が出たが、新聞は「倉庫街の一部を焼失したが、重要建物の損傷を最小限に食い止めたことは(中略)完全な勝利である」としか伝えていない

戦争、そして映像とメディア

映像を使ったプロパガンダは、それを見た人々の意識に作用して、敵への憎しみをたぎらせ、戦争への高揚感を高めます。

そうしたメディアを使った意図された意識醸成は現代も続き、さらにデジタル空間の情報戦へと拡大しつつあります。

ロシアによるウクライナ侵攻でも、台湾をめぐる対立でも、メディア上で互いをなじる言説や怒りを吐き出す言葉が拡散して、それが憎悪を煽るような作用を起こしているように感じます。

さらに、背後に国家機関が関わっているのではないかと思われる誤情報 / 偽情報も拡散するようになり、混迷を深めています。

私たちは、憎しみ、絶望、死と破壊をもたらす戦争をいつ終息させることができるのでしょうか。

過去の映像や新聞によるプロパガンダが何をもたらしたのかを知り、分断や憎悪をエスカレートさせるメディア利用を抑えることからせめて始めたいと思うのです。

立教大学 特任教授 / 日本ファクトチェックセンター副編集長

早稲田大学法学部卒業後NHK入社 沖縄放送局で沖縄戦や基地問題のドキュメンタリーなどを制作。アジアセンター、報道局チーフプロデューサーをへて、「戦争証言プロジェクト」・「東日本大震災証言プロジェクト」編集責任者として番組とデジタルアーカイブを連携させる取り組みで、第37回、39回の放送文化基金賞受賞。その後、Yahoo!ニュースプロデューサーとして全国の戦争体験を収集する「未来に残す戦争の記憶」の制作にあたる。2023年から日本ファクトチェックセンター副編集長として、ファクトチェックとリテラシー教育に取り組む。立教大学大学院 特任教授 デジタルアーカイブ学会理事 及び 地域アーカイブ部会会長

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