この夏は戦後75年という節目であり、メディア各社は様々に戦争の特集を番組や記事で展開しています。一方で、戦争体験者は少なくなっています。

今の若者の祖父母の世代は、戦争を知らないどころか戦後生まれになりつつあり、身近なところに戦争体験者を見出すことは難しくなりました。

それでも今の私たちの社会には、あの戦争(日中戦争〜太平洋戦争)で何が起きて、何を経験したのかを知ることは大切な営みであると私は思うのです。

戦争体験者の言葉は、あの戦争とその背後にあったことのディテールを知るのに欠かせないからです。

ここでは、戦争を選択することを積極的に受け入れたあの時の社会と、なぜおびただしい犠牲者を出してしまったのかを、戦争体験者の言葉で見つめてみたいと思います。

そのために、N H Kが戦場体験を収集してネット上に構築した「戦争証言アーカイブス」、Yahoo!ニュースの「未来に残す戦争の記憶」といったデジタルアーカイブを参照しながら読み解いてみたいと思います。

なぜ日本人は戦争を受け入れたのか

そもそも、なぜ戦争体験を継承する必要があるのでしょうか。

日中戦争から太平洋戦争は、日本人310万人、アジア太平洋地域では1000万人から2000万人もの人命を奪った、もう決して起こしてはならない破滅的な出来事だからです。

あの時、戦争を引き起こした日本では、曖昧な態度を取り続けた国家指導者の元で、明治以来積み上げてきた八紘一宇などの独りよがりな思想で他国、他地域への覇権を肯定する教育と思想を行き渡らせて、国民が戦争を熱狂的に受け入れていました。当時のメディアもその時代の空気をあおる伴走者となっていました。

戦争による理不尽な命のやり取りにとどまらず、そうした状況を生み出したこと、その仕組みを二度と招来してはならないと強く思うのです。一人一人が自ら獲得した思考をもとに判断することが尊重され、他者を認めて、分断ではなく共有と包摂の社会を実現する、戦時とは真逆の社会であることが必要ではないでしょうか。

そのためにあの時代の、個人の自由な思考を否定して、同調を強制して、命を投げ出すことを求める社会や国家とはどんなものだったのか、なぜそうなったのかをその時代に生きた人々の言葉を受け継いで考え続けなければならないと考えます。

自ら考えて判断できない社会とはどのようなものだったのでしょうか。

終戦の年、東京・山の手空襲と熊本空襲で3度も命を失いかけた熊本市の赤木満智子さんは、それだけの経験をしても日本が戦争に負けると思わなかったと話します。

17歳の時に出張先の東京で山の手空襲、帰郷して2度の熊本空襲を体験した赤木満智子さん(著者撮影)
17歳の時に出張先の東京で山の手空襲、帰郷して2度の熊本空襲を体験した赤木満智子さん(著者撮影)

「そんなのは全然思わないのよね。おかしかですね。よっぽど、本当に素直だったんでしょうね。情報がそんなにね。

やたらにすると、警察に引っ張られるときでしたよ。だから、あんまり情報は流していないですよね。

一般の庶民は何も知らない人が多いと思います。

やっぱり勝つって言われれば、そう信じているだけのことでしょうね。

疑問はあんまり持っていない。今思うと、おかしいって思いますよ、本当に。

疑問も思わないなんて何でって思いますよね。でも、そんなでしたよ」

戦争の時代を冷静に見つめる時

いま戦争を知らない世代の中に、あの時代をノスタルジックに語る人が出てきています。

国民が国体の名のもとに統合されていて自己犠牲が尊いとされたあの時の日本を美しいとまで表現する人もいます。

特攻を語るときに、死んだ若者たちを神聖化して「彼らの想いは尊い」とするところで思考停止をしてはいないでしょうか。

特攻を考えるとき、戦争の帰趨が決していたレイテ沖海戦以降、安全なところにいた戦争指導者が、純粋さを利用した上に若者の命をすりつぶしていく無意味な攻撃手法をとったこと、こうしたことこそが糾弾されなければならないはずです。

戦争については感傷で留めてはいけないと思うのです。その背景や構造が見えなくなってしまうから。 

無謀な作戦で2万人の将兵が戦病死したガダルカナルの戦い(米軍撮影)
無謀な作戦で2万人の将兵が戦病死したガダルカナルの戦い(米軍撮影)

なぜあの時“命”は軽く扱われたのか

あの戦争では、人命を軽視したことによる事象は枚挙にいとまがありません。

ここでは、「捕虜」をキーワードにして考えてみましょう。戦争体験者に話を聞いた時、特に戦場の体験者は「捕虜」について言及することが少なくありません。

そして、「捕虜」と「人命の軽視」は裏腹の関係でした。

当時の日本では捕虜になることを徹底的にタブー視しました。

開戦の年、1941年1月に東条陸相によって示達された「戦陣訓」という兵士への教えがあります。

この一節に「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず 生きて罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」と書かれていました。

文字通り、捕虜になることを厳しく禁じたものです。

この捕虜になることは許されないということが、おびただしい死者を出すことにつながったのです。

戦闘の帰趨が決着しているにもかかわらず、投降することなく突撃して「玉砕」するという命を捨てるだけの攻撃が繰り返されました。

あるいは、投降する味方の兵士を殺す、処刑することも行われました。

以下は、ブーゲンビル島で起きた事件、宮崎・都城の23連隊の佐藤長昭さんの証言です。

「日本軍ちゅうのは、『生きて虜囚の辱めを受けることなかれ』だから、(投降は)絶対してはならんちゅうようなことです。

1個小隊ぐらいの人間が集団で、どっか海岸の所行って、わたしたちも、その逃亡者の捜索に行った。

見つかったです。見つかったから、あの海岸のほうに集団でおるから、あっちに行けっていうことで。結局、軍律から言えば死刑です。まあ、実際に、ほんと、もう生きちょらんから言うけど、全部銃殺したんです。まあ軍隊ちゅう所は、いわゆる命令は、『天皇陛下の命による』って命令が下るんですよ。そうすると、だれも反対できない」

ブーゲンビル島で日本軍を掃討する豪州軍(豪州軍撮影)
ブーゲンビル島で日本軍を掃討する豪州軍(豪州軍撮影)

重傷者を殺してしまうことも頻繁に起きていました。

捕虜になって軍機を暴露することを恐れたからです。沖縄戦では、陸軍病院に看護助手として動員された元高等女学校生が証言を残しています。

当時首里高女(瑞泉学徒隊)の生徒だった宮城巳知子さんは、自らが体験したことを語っています。首里からの司令部の撤退の頃の陸軍病院(識名分院)での出来事です。

「そこでね、注射もあった。日本はね、もうかなわんからね、これを注射。寝て打ってあの世逝き。中の薬は何か分からんが、この注射したらすぐ逝くわけよ。そして、うちなんかは、それ言いつけられたわけよ。『注射してきなさい』と」

市民に浸透していた戦陣訓と集団死

戦陣訓は市民にも浸透していました。子ども向けの絵本や解説本が何冊も出版されていたのです。

相次いで出版された戦陣訓の子ども向け解説本(国会図書館蔵)
相次いで出版された戦陣訓の子ども向け解説本(国会図書館蔵)

また、戦場になった地域に住んでいた市民は、守備軍などから米軍に捕まればなぶり殺しにされる、強姦されるなどと教えられて、特にマリアナ諸島のテニアンや沖縄で集団死の悲劇が起きました。

テニアンにいた当時18歳の二瓶寅吉さんは、家族に手をかけてしまったのでした。

「おふくろを座らせて、『おふくろ、ありがとうね。長い間ありがとうね』って手を合わせて、『じゃあ、いくよ』。

一発ね。僕もあのころ子どもだったな、心臓撃てば死ぬものと思ったの。心臓撃てばね。それで心臓狙ってバーンとやったんですよ。

そうしたら、おふくろ、こうしてじーっと血が出てくるんだもん。そうしたらおやじが、(額を叩いて)『ここだ、ここだ』って言う。

それで2発目ここ(額)撃ったら、もうガクンと。そうしたら、そばで見ている九つのキミエが、今度は私の番だというばかりに、おふくろが今死んだところに座って手を合わせてるの。

それで、おれが鉄砲構えたら、『あんちゃん、ちょっと待って』とこう言う。何だ、今さら。『水飲みたい』って言うんだよ。水筒のふた、2杯ぐらい取って持てきて、『ほら、飲みな』と飲ませて、ゴクンゴクンって飲んでな。『うまいよ、兄ちゃん』って。『うまいよ、兄ちゃん』って言っていたよ。『もういいわ、撃ってよ。おかあちゃんのところに行くから』って、また手を合わせまして」

二瓶さんは、この後死に切れずに米軍捕虜になりました。すると、全く話が違うことに驚きました。

米軍は、食事も、シャワーも、着るものも与えてくれたのです。そして、その収容所には米軍の残虐性を説いていた学校の教員もいたと言います。

「学校の先生たち。私らが信頼していた人たちがみんな助かっているんだよ。『何だよ』っていうようなかんじだったな、そのときは。

捕虜になること自体が一般人の最高の恥だと思っていたもの、みんなが。だから、もしその観念がなかったら、もっともっと助かっていたよ。死ぬ人が少なかったよ」

二瓶さんはこの話をした3ヶ月後に他界されました。

戦後、どんな思いを抱えて生きてこられたのかを思うとなんともやりきれない気持ちになります。

国策による南方開発のためマリアナ諸島に家族で移住し、戦場に巻き込まれ、デマを刷り込まれて家族を死なせてしまったのです。

竹永事件 驚きの集団投降事件

軍人が集団投降する例はほぼなかったと記しましたが、極めて例外的な出来事が1945年5月に東部ニューギニアで起きていました。

指揮官の名前から「竹永事件」と呼ばれています。

1945年5月といえば、三個師団からなる第十八軍が最後の決戦として連合軍に挑んだ「アイタペ作戦」が失敗に終わり、弱体化したまま、移動した米軍に替わった豪州軍と対峙していた頃です。

制海制空権、補給もなく、現地で自活していた日本軍は9月には食料もつき、近く玉砕戦を戦わなければならなくなると考えていた時期でもありました。

命じられた守備位置から離脱した竹永正治中佐率いる歩兵239連隊第二大隊は豪州軍に投降しました。

記録ではその数42人となっています。

大隊とは言いながら、損耗して小隊規模もないほどでした。この投降は、大隊長である竹永中佐が主導したものでした。

竹永中佐の大隊が姿を消した後、豪州軍はさらに投降者を増やそうと竹永大隊が投降したことを記載したビラを大量に撒き、行方不明の竹永大隊が集団で投降したことを第十八軍の将兵は知りました。

投降した竹永大隊の将兵と豪州軍
投降した竹永大隊の将兵と豪州軍

竹永中佐は陸軍士官学校を出て任官して以来20年にもなる職業軍人であり、同じ士官学校出身の、連隊や師団、第十八軍の幹部は大騒ぎになりました。

玉砕することが当然だった時に、竹永中佐はなぜ投降を選んだのでしょうか。実はオーストラリアのアーカイブに竹永中佐のインタビュー記録が調書の形で残っていました。

Lt Col Takenaga gave the perfectly logical answer ( yet so strange to hear from a Japanese ) that they had no hope of winning, had no food, and that if they did not surrender they would soon be all dead.

(竹永中佐は(日本人からこう聞くのは奇妙なことなのだが)、勝利の望みはなく、食べる物もなく、もし降伏しなければ全員すぐにも死んでしまうと、理路整然と答えた。)

同時に、尋問の中で、竹永中佐は安達二十三第十八軍司令官がアイタペ作戦を強行したことを批判しています。

He was a strict disciplinarian, proud and stubborn, but with no idea of tactics. His doctrine was bull-headed attack at all costs. His subordinate commanders did not want to attack there but he forced them into it and caused the destruction of over 10,000 men, greater part of 18 Army.

(彼(安達二十三司令官)は非常に厳格で、誇り高く、頑固だ、とはいえ戦略は何もない。彼の作戦方針はすべてを犠牲にしてがむしゃらに突撃することだけだった。部下たちはみな攻撃(アイタペ作戦)を望んでいなかったが、突撃を強行させ、第十八軍の大半に当たる1万人もの犠牲を出すことになったのだ。)

無謀だと感じていた作戦が強行されたこと、さらにいずれ飢え死にもしくは玉砕するしかない、という時期が迫っていた、このことが竹永中佐にタブーを破らせたということがわかります。

とはいえ、竹永中佐の決断はきわめて例外的であり、特に職業軍人にとっては受け入れることのできない行動であったようです。

N H Kがドキュメンタリーを制作した際、竹永大隊の上級部隊である第十八軍の参謀少佐だった堀江正夫さんに事件について担当ディレクターが聞いています。

堀江さんも陸軍士官学校出身で、さらに陸軍大学校を卒業した、いわばエリート中のエリート。戦後は、陸上自衛隊の西部方面総監もつとめられた方です。

「Q:お尋ねしづらいのですが、41師団の戦後の記録にアイタペ作戦の後、山南邀(よう)撃作戦に移ってから、大隊長ごと戦場逃避事件というのが記載されているのですが。

僕はあまり聞いていないですけど。

Q:竹永中佐っていう人のことなんですが。

僕は聞いてませんそれは。もしそれが本当だと、僕の思いは違っとった、裏切られてる。 

僕の思いが裏切られている。ということになると思いますけれどね。

Q:戦史叢書の中にも、名前は伏せられているんですが記載があるのですが。

そうですか。じゃあそうかもしれません。そうならば。わたしは今までおらなかったと信じてましたからね。

やっぱり当時の軍人の気持ちから言ってですね、捕虜になることはもう絶対に恥ですから。

自ら捕虜になることは。

人事不省で(捕虜に)なる。これはやっぱり不幸。本人にとっては運命。不幸な運命を負わされた。というふうに思っていますから、わたしは。

今も当時のことを考えるとね、そういう進んでね、そのしかるべき指揮官が投降したということ、本当に残念ですね。わたしは残念です。

東部ニューギニアの13万人の亡くなった人たちの思いを考えると本当に残念です。

みんな生きたいですよ。苦しみから逃れたいですよ。

しかし軍人として、そういう環境に置かれて、そういう使命を帯びてやっとったならば、あるときは、心を鬼にして、やっぱり大義に生きなきゃいけないと僕は思いますね」

堀江さんとしては戦後60年以上たってもあってはならなかったこととしてこの事件を捉えていました。

そして、軍人は「大義に生きる」のがつとめであるという考え方を披瀝し、戦後64年が経ってもこの事件が起きたことに対して悔しさをにじませたのです。

この時点でのニューギニアの戦いは、すでに米軍がフィリピンに向けて移動している以上、全く意味もなく、将兵の間には餓死、病死が相次いでいました。それでも生きることを選択してはならないというのです。

そして、この日本軍が当たり前としていた価値観はこの時代の日本社会を貫いていた思考でもありました。

「国家総動員」から「一億総特攻」へ、もはや命を含めて全てを戦争に差し出すことが国民に求められたのでした。

この事件は、職業軍人でありながらも竹永中佐は、自ら身を置いている戦場の意味とその後の自らと部下の人生を比較考量することができたということではないでしょうか。

竹永中佐の尋問調書 国民は戦争終結を望んでいるが軍閥が権力を失うことを恐れて戦争を止めようとしないと竹永中佐は語った
竹永中佐の尋問調書 国民は戦争終結を望んでいるが軍閥が権力を失うことを恐れて戦争を止めようとしないと竹永中佐は語った

では、「大義」とは何でしょう。

その正体こそが、戦前の日本社会を覆っていた価値観ではなかったろうかと思うのです。

命は、自分のものでも家族のものでもなく、国家の胸三寸に委ねられて、爆弾とともに艦船に突入させられ、餓えと病の末にジャングルに朽ち果て、焼夷弾が落ちてくれば「逃げるな火を消せ」と迫られて炎に焼かれてしまいました。 

こうした戦争の時代を生きた人々の言葉から、あの戦争の時代に起きたことを知って噛みしめる、そしてその事実を未来に繋ぎ、二度とあのような社会とあるいは空気とも言うのかあの状況を招かないという決意を皆さんと共有し続けたいと思います。

広く知るべきでは〜アジア太平洋地域の戦争体験〜

戦争体験の継承においてもう一つ取り組む必要があるのは、アジア太平洋地域や日本が敵とした国々の戦争体験の学びではないでしょうか。

原爆投下の絶対悪を世界に訴える時、時に原爆投下が戦争を終わらせた、祖国を解放したと相対化して語られることがあります。

それはなぜなのでしょうか。

私は、日本人が他国での戦争体験を学ぶことを積極的に行っていないことが問われているのではないかと思っています。

空襲を語る時、日本の陸海軍が数百回に及ぶ空襲を中国・重慶やオーストラリア北部に行ったことを心に留めているでしょうか。

中国・重慶での空襲による火災
中国・重慶での空襲による火災

日本における捕虜がどれだけの高率の死者を出したのか(そのことで戦後数多くのB C級戦犯を出しました)。

中国大陸で、どれだけの人の平穏な日常の暮らしと人命が奪われたのか学ぼうとしているでしょうか。

若者と話すとき、オーストラリアと戦争をした事実すら知っている人の方が圧倒的に少ないのです。

中国での日中戦争の死者について語るとき、その犠牲者のあまりに膨大な数に言葉を失うものもいれば、否定するものもいます。

沖縄戦の特攻での日本人の若者について考えるとき、その戦死者数を大きく上回る5000人近い連合軍の20歳前後の若者が恐怖のうちに体を吹き飛ばされたことに想像を及ばせているでしょうか。

沖縄戦で日本軍の特攻を受けた英空母 フォーミダブル(英軍撮影)
沖縄戦で日本軍の特攻を受けた英空母 フォーミダブル(英軍撮影)

近隣の国々と戦争の歴史をめぐってギクシャクしている原因の一つは、日本人が彼らの地域で何が起きたのかを知ろうとしないように彼らには見えているのではないでしょうか。

日本への原爆投下や空襲の絶対悪について共有してもらおうと思うなら、私たちも学ぶことが必要だと思うのです。

戦後75年が経過してもアジアではまだ戦後が終わらないように見えます。

私たち以上に、戦争の、特に被害者としての記憶は孫子の世代に受け継がれているからではないでしょうか。

アジア太平洋地域で相互理解を進めていくにあたっては、戦争体験の学び合いがこれからも必要なのだと思うのです。

戦後75年が経過しても。

※ここで紹介した証言は「NHK戦争証言アーカイブス」、「Yahoo!ニュース 未来に伝える戦争の記憶」から引用しました。