「こんな経験をしている人は少ないでしょう。3回も。

よくぞ、ここまで生きてこられたと思いますよね。」

こう話すのは、熊本市に住む92歳の赤木満智子さん、今も油絵の大作に取り組む画家です。

油絵に取り組む赤木真智子さん(筆者撮影)
油絵に取り組む赤木真智子さん(筆者撮影)

3回というのは、終戦の年に赤木さんがいずれも命を奪われかけた激しい空襲のこと。

熊本市は、1945年の7月1日と8月10日に激しい空襲に襲われましたが、赤木さんはその両方で命からがら生き延びていました。

そして、3回というのは、その前にも命の危険にあっていたのです。しかも、それは東京での大空襲です。

赤木さんは、昭和2年に熊本市内に生まれて、小学校卒業後、女学校へ進まずに高等科に進学。

お父さんを早くに亡くしていて、お姉さんは当時の熊本一高女に進学していたのですが、赤木さんの学費の工面まではお母さんの収入だけでは難しかったのでした。

そこで、赤木さんは、1942年に国民学校高等科を卒業後、県庁に入り、郵便物を各課に配布したり、お茶を入れたりする「給仕」という仕事をしました。

県庁時代の赤木さん(右)
県庁時代の赤木さん(右)

その後、隣家の方に声をかけられて帝国生命保険株式会社(現朝日生命保険相互会社)の熊本支店に入社。

経理などをして母や姉と共に家計を支えました。

当時の赤木さんの家は、祖母が家事を切り盛りする、女性が中心の家庭でした。というのも、赤木さんの家は、女性以外は、半身が不自由な祖父、体の弱い叔父しかいなかったのです。

1945年5月、東京・丸の内の帝国生命の本社に出張の話が持ち上がりました。すでに、国内各地の空襲の話は聞いていましたが、県外に行ったことがない赤木さんは喜んで出張することにしました。

出張先で攻撃された、5月25日 東京山の手空襲

「姉は女学校に行っているときに東京まで旅行しているんです。その自慢話を聞いていたから、私も行ってみたいっていう好奇心はいっぱいあったんですよね。だから、たまたま東京に行く有志はいないかって言われたときには、喜んで行くって希望して、行ったんですよね。

したら、大変な目に遭いましたけど。」

出張の仕事は、本社にある契約関連書類を地方で引き受ける、いわば疎開のための運搬だったのです。

女性社員3人、男性社員2人の5人で東京に向かいました。

途中で空襲などもあり、3日かけて東京に到着。

会社は、東京駅の目の前、丸の内にありました。東京の下町はすでに空襲で壊滅状態、4月には、現在の豊島区、北区、板橋区といった城北地区も空襲に遭い焼け野原になっていました。

初めての東京でしたが、せいぜい会社に近い日比谷公園と皇居を通りすがりに見物するだけ。

ゲートルを巻いた男の人、モンペの女の人が黙々と歩いていて、ビルが高くて谷底にいるように感じました。大都会の華やかさは全くなかったと言います。

皇居・二重橋前での記念写真 左下が赤木さん
皇居・二重橋前での記念写真 左下が赤木さん

そして、5月25日の夜。宿泊も兼ねていた本社ビルにいると警戒警報が鳴り響き、それがすぐに空襲警報に変わりました。

飛行機の爆音が聞こえると同時に外がパッと明るくなました。

窓から外を見てみると郵便局(東京中央郵便局)のビルが燃えている、それで空襲だと気付いたのです。

「爆音は聞きましたけどね。実際に(焼夷弾が)落ちているのは見ていなかったのです。ビルの窓から外を見たら、たまたま郵便局が燃えているのは見ているんですよね。郵便局はそれでやられて。」

「郵便局が燃え始めたから、これは空襲だっていうことがわかったんです。」

「それくらいのことで、それまで(空襲を)全然経験していないから、その時はそんなに怖いっても思っていないですよね。不思議に。今ならもういっぱい情報があるから、怖いと思いますけど。」

燃える東京駅

郵便局の向こうの東京駅を見ると、その駅舎からも炎が立ち上っていました。

「窓から炎が見えて、東京駅が燃えてる、ああ、帰りはどうなるだろうかという心配ありましたよね。」

画面右がドーム型屋根が焼け落ちた東京駅の駅舎 右上が東京中央郵便局 (米軍撮影)
画面右がドーム型屋根が焼け落ちた東京駅の駅舎 右上が東京中央郵便局 (米軍撮影)

そのうち赤木さんのいる帝国生命本社ビルにも煙が入ってきました。

タオルを水に浸してそれを口に当て追われるようにみんなで8階建てのビルの屋上に向かいます。

「金網の入ったガラスが貼ってあって屋上に出られなかったの、で一緒に上がった男の人が持っていた鉄兜でカンカンカン叩いて破って、屋上になんとかでたの。でも出てみると火の粉の海だったのよ。火の粉の散る中這っていって、水を張った貯水池があって、水のそばならってそこにいたの」。

帝国生命本社ビル(当時麹町区丸の内)
帝国生命本社ビル(当時麹町区丸の内)

そこでしばらく身を伏せているうちに、空襲は治まってきました。

帝国生命のビルは、煙が入ってきただけで燃え上がることはなかったのでした。

のちに「山の手空襲」と名付けられたこの爆撃は、3月の東京大空襲よりも攻撃の規模は大きいものでした。およそ500機ものB29が東京駅から皇居、丸の内、赤坂、青山、中野などの広い範囲に大量の焼夷弾を投下。23日から連続した東京への空襲で、4000人以上が亡くなり、84万人が焼け出されたのでした。

赤木さんたちは、空襲の翌日の27日には東京からの鉄道の運行が再開したこともあって、やはり3日かけて熊本に戻ることができました。

そんな体験をしながらも、赤木さんは帰ってきた熊本で空襲に遭うという危機感は持っていなかったといいます。

熊本大空襲 7月1日深夜

しかし、7月1日の深夜。

日が変わる直前、154機ものB29爆撃機が熊本上空に姿を現し、大量の焼夷弾を落とし始めました。

赤木さんの家は、県庁に近い熊本の中心部だったので、まさに米軍の攻撃目標の真ん中。すぐに周囲に焼夷弾が降り注いできました。

「焼夷弾の何かザーッという音がするんですよね、落ちてくるときは。そして、たまたま家の軒先にも落ちたんですよ。だから、それは姉と二人で、少し燃え出しましたもんね。だから、姉と二人でホースで水かけて、消えたんです。」

すると、近所の自転車屋さんの屋根に焼夷弾が落ちて燃え始めた。

そこに、近所の人たちと行って水をかけて消火しようしたといいます。

当時は、防空法という法律で市民に空襲時の消火作業が義務付けられていたからです。

「隣保組の仲よしだからって、手伝いに行ったんです。水を消しに行くのに。

バケツ持って。そして、消しよったら、もう危ない状態になったんですよね。上空、飛行機が来てね。

だから、これ危ないから、もうみんな逃げようっていう、そこにおった人たちで話して。

だから、連なってみんな一緒に逃げ出したんです。だから、家のことも何も考えていないんですよね。」

この時、自宅に体の不自由な祖父と叔父を置いて女性だけで逃げていくしかありませんでした。

空から、焼夷弾の落ちるザーッという音が響き青白い光が尾をひく。そこかしこで赤い炎がパッと燃え上がる。その中を逃げまどう。そして、熊本の中心部を流れる白川を目指しました。水のあるところがいいだろうという判断でした。

しかし、川辺にたどり着いて立ちすくんでしまいました。白川そのものが炎の流れになっていたのです。

気を取り直して、街の外れの鎮守の森に逃げ込みました。

気がつくとザーッという音は止み、空が白み始めてきました。そして、家の様子を見に行くことにしました。

「我が家の近くになったら、もう何ともいえない、きな臭い、動物の焼けた。それはもう表現のしようがないですよね。においが漂っていましたよ。暑い最中でしょう、7月っていうとね。もう自分のところがどの辺かも検討がつかないですよね。

うちはたまたま石の門があったんです。

だから、その石の門だけ残っていましたから、そこを目当てに行った。

そしたら、こんもりしている所があるから、そこは祖父が寝たままだったから、寝たままで燃えているとこだった。

だから、もう祖母が狂ったように泣いて。」

「おじも病弱で、一緒に逃げたりはできない人でしたから。姉が防空壕を見に行ったら、防空壕に飛び込んだままの姿勢で、脚を宙に投げ出して亡くなっていた。窒息死ですよね。」

焼け野原になった熊本市街(熊本日日新聞社提供)
焼け野原になった熊本市街(熊本日日新聞社提供)

火葬場は焼けてなくなっていたので、自宅の崩れ落ちた材木を集めてそこで二人を荼毘に付すしかありませんでした。

この空襲は、熊本の中心部を焼け野原にし、9000戸以上の住宅を破壊、500人から600人もの犠牲者を出したのです(正確な死者数はわからない)。

幾度もの爆撃を生き延びて〜熊本空襲〜(Yahoo!ニュース 未来に残す戦争の記憶)

1945年7月3日の熊本日日新聞
1945年7月3日の熊本日日新聞

空襲の翌日の熊本日日新聞の紙面を見てみると、空襲の被害、特に死傷者についてはほとんど触れられていません。その代わりにいかに市民が消火活動に邁進したかを強調していました。

見出しには、「肥後魂」、「防火敢闘」、「一歩も退かず」などの言葉が踊っています。当時の権力は検閲によって、被害を報道することは国民の士気を低下させるとして許さなかったのです。

襲いかかってきた機銃掃射

そして、その空襲からひと月あまりたった8月10日。なくなった祖父と叔父の戸籍を抹消するために本籍のある西里村役場(現在熊本市)に母と二人で向かいました。その途中のこと。

警戒警報に続いて空襲警報が鳴り響き、すぐに高射砲が空に向けて砲撃を始めました。

「大砲の音とか何とか、もうすごかったですよね。」

米軍機が低空で襲ってくる。防空壕を探して入るような余裕もなく、水の張った堀に飛び込み、しばらく泥の中に伏せていました。

「低空してくるときのあの飛行機の低空するときの音。それと、そのビュンビュンいう音は、もう忘れませんね。機銃掃射ですよね。だから、その飛行機に乗っている操縦士を見たという人もいらっしゃいますよ。戦争を語り継ぐ会なんかでいろいろ発表するでしょう。そのときに、顔を見たっていう人もいますね。」

この空襲は、沖縄からやってきた爆撃機と戦闘機によるものでした。米軍は沖縄を陥落させた後、その秋に予定していた九州上陸作戦を進めるための航空基地を沖縄本島中部の嘉手納と読谷に整備。そこで極東航空軍と名付けた部隊を編成して九州での日本の抵抗力を徹底的に削ごうとしたのです。

沖縄・読谷飛行場を飛び立ち九州に向かう米極東航空軍・B−24爆撃機
沖縄・読谷飛行場を飛び立ち九州に向かう米極東航空軍・B−24爆撃機

赤木さんは、こうして三度の空襲をなんとか生き延びることができました。

それでも日本が負けるとは思わなかった

この三度目の空襲を体験しても、日本が負けるとは思いもしなかった、必ず勝つと思っていたといいます。

「終戦のその日まで負けるとは思わなかった」と語る赤木満智子さん (筆者撮影)
「終戦のその日まで負けるとは思わなかった」と語る赤木満智子さん (筆者撮影)

「そんなのは全然思わないのよね。おかしかですね。よっぽど、本当に素直だったんでしょうね。情報がそんなにね。

やたらにすると、警察に引っ張られるときでしたよ。だから、あんまり情報は流していないですよね。

一般の庶民は何も知らない人が多いと思います。

やっぱり勝つって言われれば、そう信じているだけのことでしょうね。

疑問はあんまり持っていない。今思うと、おかしいって思いますよ、本当に。

疑問も思わないなんて何でって思いますよね。でも、そんなでしたよ。」

赤木さんは、今も頼まれるとどこへでも出かけて行って、こうした体験を語ります。

平和と命のかけがえのなさを多くの人に感じとって欲しいからです。

「もう今は、本当に命のありがたさ。それは思いますね。そして、本当に平和であってほしいと願いますね。」