「戦争を知らない世代」が語る戦争体験 渡邊五郎さんが伝える「想像力」とは

手作りの陸軍・姫路39連隊の記録パネル(渡邊五郎さん作成)

戦争体験を語る人がいなくなる

太平洋戦争が終結して75年。戦争体験を語る人がいなくなってしまう日が近づいています。一方で、戦争を体験していない世代の中から、戦争体験を未来へ伝えていこうという営みが始まっています。その主体は、平和資料館やNPO、学校など組織的なものもあれば、個人での取り組みもあります。

今年の1月、兵庫県加古川市のコミュニティスペースで開かれた展示会の様子です。

地域の戦場での体験を伝える手作りのパネルが展示されていました。

兵庫県加古川市で開催された渡邊さんが製作したパネル展(渡邊さん提供)
兵庫県加古川市で開催された渡邊さんが製作したパネル展(渡邊さん提供)

地元の郷土部隊の戦闘履歴や兵士達が戦場でどのような体験をしたのかを体験者の言葉の書き起こしや図などでわかりやすく表現されていました。

これらのパネルを製作したのは、加古川市の渡邊五郎さんです。地元の戦争体験の資料を集めて、読み解き、遺族の方に話を聞くなどして一人でこのパネルを作りました。

この展示で中心となったのが、地元の郷土部隊「陸軍歩兵第39連隊」のことです。姫路39連隊とも呼ばれていました。

日露戦争、日中戦争、ルソンの戦い~兵士たちは何をみたのか

当時の日本陸軍は、一定の地域で兵を集めて部隊を編成していました。連隊とは、軍隊の編成単位の一つで、戦時と平時では異なりますが、千人から3千人規模の将兵(士官、下士官、兵士)で組織されていました。郷土連隊と呼ばれたように、連隊本部のある都市周辺から男性が徴兵されて、その部隊は、ほとんどある特定の戦地に行ったのです。

姫路の39連隊の場合はその歴史は長く、日露戦争、日中戦争、そして太平洋戦争では最後に破滅的な敗退を喫したルソン島で戦いました。過酷な激戦の地ばかりでしたので数多くの戦病死者を出したのです。

生き残って復員した人々の体験をその地域で収集するとその当時のある特定の戦場や戦闘(39連隊の場合、日中戦争では、国民党軍の頑強な抵抗で撤収を余儀なくされた「徐州会戦」、太平洋戦争では「ルソン島の戦い」など)の姿が見えてくるのです。

渡邊五郎さん、加古川市のご自宅にて(筆者撮影)
渡邊五郎さん、加古川市のご自宅にて(筆者撮影)

決して戦争体験を語らなかった父

渡邊さんは72歳の戦後世代。戦争体験について元々関心はありませんでした。

ただ、父親の佐太治さんが地元の姫路39連隊の一員として、日中戦争に参加していたのでした。しかし、佐太治さんは、息子には決してその時の体験は語らなかったそうです。

母親から聞いた話では、「病気になって大陸から帰ってきた、そして、終戦の間際になって空襲が激しくなってきた時、父親は、頑として逃げなかったし、灯火管制にもかかわらず、灯りをつけたまま部屋の真ん中にあぐらを組んでじっと座っていた」んだそうです。

渡邊さんは、佐太治さんは一緒に戦場に赴いた戦友の多くが戦死したのに自分は生きて帰った、いわゆる「サバイバーズギルト」を抱えていたからではないかと言います。

「やはり自分だけが生き残って帰ってきた。自分だけじゃないんですけれどもね。だけど本人にしたら、そう思うわけですよ。自分だけが生き残っておめおめと生き恥をさらして帰ってきたと。近所で行った人はみんな死んでいるのに、自分だけ帰ってきて、やっぱり白い目で見られる。家族までも白い目で見られるというね。責める人はいないんだけれども、その当時は人間として自然の感情ではなかったのかなというような思いはいたしますね。」

渡邊さんは最近になって、そうした佐太治さんの思いに気がついたことで、これは伝えていかないと、こうした記憶や思いが雲散霧消してしまうと危機感を持ったのです。

話を聞こうにも、佐太治さんは1976年に亡くなっていたので、39連隊の資料や復員した方々の手記などを徹底的に集めて読み解いていくことにしたのです。すると、佐太治さんと同じ思いを抱いている人が少なくないことに気づきました。

「ある方の手記の中に、小さい村から6人出て行って、5人は39連隊で、あと1人は別の部隊。その方は確か後方部隊か何かで、生きて帰られたんですね。ところが、あとの5人は帰ってきていない、終戦後ね。それが帰った場合に分かって、それでずっと自責の念に駆られていたというのを書いていますね、つらつらと。」

そこで、渡邊さんは自分の父親のことだけでなく広く39連隊の戦歴や生存者の思いを伝えようと思ったのです。

渡邊さんが、収集した資料をもとに作成した39連隊の歴史
渡邊さんが、収集した資料をもとに作成した39連隊の歴史

口をつぐんでいた兵士たち

戦後、復員してきた元将兵の人々は、陸軍の場合、その郷土連隊単位で「戦友会」を結成して親睦を続けていました(海軍の場合は、艦船ごとに親睦会などを結成している)。しかし、日本陸軍の場合、悲惨な戦場での敗退の連続でその中には現地住民の虐殺や虐待、負傷した味方兵士の殺害などもあり、戦友会の中ではそうした”ネガティブ”なことに口をつぐむようにという圧力がかかったケースが少なくありません。

でも、私も感じたことですが、ある時点からそうした出来事も含めて伝えなくてはいけないという意識が元兵士の方々の中に生まれてきたのです。

渡邊さんも、戦争体験を収集する中でそのことを感じたと言います。

「戦争が終わっても、こういうことは言うなと言われておったと、上司からね。だからそういうこともあり、やっぱり負けたということもあって、負い目もあって、そういうことが言えなかった。しかし、年がいって考えてみたら、われわれが口をつぐんでおったら、このことは永遠に葬られてしまうという思いに至ってきたと、そういう方が多かったらしいですよ。」

そこで、今改めて自分が伝えていかなくてはと立ち上がったのでした。

「手記のなかに、後世に長く伝えてほしいということを書いているわけです。だから、私はそれに着目しまして、これはやっぱり僕の世代もそれを受け継ぐ責任があるじゃないかなと思いますね。」

郷土の兵士の体験を伝えることは、戦争そのものの持つ理不尽さを伝えることになると言います。

「何でそういう若者同士が殺し合わなきゃいけないの。それを考えただけでも、こんな理不尽な話はないですよね。命令でそれを断れないから、相手の国だって、将兵だって一緒ですよ。ロシア兵だって中国兵だってね。だから同じ気持ちで戦う。だけど、やらなかったら自分がやられるから仕方なくやるということでしょう。それはもう狂気の沙汰で、気が変になった人はいっぱいおりますよ。」

渡邊さんが作成した39連隊の歴史、ここには元兵士の方々の手記が集められている
渡邊さんが作成した39連隊の歴史、ここには元兵士の方々の手記が集められている

定年後の自分にできることは“伝えること”

渡邊さんは、定年退職をしてから地域の歴史や戦争体験を伝える取り組みを始めました。この取り組みをするにあたって、自分の仕事人生が大きく関わっているとも言います。

渡邊さんは、地元の川崎重工に入社して懸命に働きました。その中で、様々な場面で自分が提案したことを、賛同してくれた上司、同僚、部下が支えてくれて実現にこぎつけた、とてもやりがいのある仕事人生を歩んできた、その延長で今の取り組みをしているというのです。

川崎重工で働いていた時の渡邊五郎さん
川崎重工で働いていた時の渡邊五郎さん

「そういうふうに自分自身がやっていきたいなと思ったとおりに私はできたなというのがうれしかった。自分がやったんじゃなしに、それをやっぱり周りの人が助けてくれたというのがすごくうれしかったですね。そこでいろんな人脈ができますよね。それがすごくよかったですね。で、やっぱり残せるものが残せたなというような、本流からそういう流れができとるんで、ずっとやってきた延長線上の話なんですね。」

戦争体験者の次の世代ではありますが、渡辺さんも72歳で、体調の優れないことがあると言います。こうして集めてまとめたものを今後どうつないでいくかが課題です。

今回の取材は、息子の大輔さんが同席してじっと父親の語りに耳を傾けていました。

「今日、自分の父親が取材を受けるのを、同席するということ自体も生まれて初めてで、この間、お父さんがやってきたことというのも、やっぱりすごいなというか、ここまで動かすような思いとは何だろうとか、感じました。

話の内容は、半分以上は、よく父が言っていたこと。ずっと昔から僕が聞いてきたような話なんですが。僕の知らないことはやっぱり聞いておきたいなというのはすごくありまして、おじいちゃんが戦争に行って帰ってきて、お父さんに何も言わなかったということなんですけれども。だからそこでどんなことがあったのかな。

何か父親が調べている中で周りから聞いたこととか何か、言えること、言えないことがいっぱいあると思うし、何か次の世代にも、こういう生き方、こういう時代だったんだよというのを伝えることになればなと思いますね」

渡邊さんは、最後に、教育の現場で戦争体験を学ぶことが大切なのではないかという問題提起をされました。

「われわれの世代も含めて、戦争についての教育がほとんどない、なかったということは、知らずにそのまま大きくなっていった。知らずに大きくなっていったということは無関心であって、無知であって、戦争に対する意識を持っている人たちがあまりにも少ない。それは何が原因やといったら、やっぱり私は教育だと思いますね。」

戦争体験を語り、つないでいくために

戦後、日本では戦争体験者の集合的記憶を共有することで多くの人は「非戦と平和」を絶対的な価値としてきたのだと思います。

しかし、戦後75年が経過して戦争体験者が少なくなるのと同時に、近隣諸国との分断を図るような憎しみの言葉や言説がメディアやSNSに溢れるようになりました。

昨年、ある若い国会議員が、北方領土を巡って「戦争で取り戻すしかないのでは」と人前で発言した出来事もありました。

破壊と殺戮をもたらす「戦争」への想像力が急速に失われていることに唖然としたものです。

だからこそ、あの戦争の時代に生きた人々が何をみたのか、何に苦しんだのかを私たちも未来の世代も心に留めておく必要があるのだと思います。

戦争世代がいなくなる今、次の世代の熱意あるつなぐための取り組みと、学びの場で体系的に戦争を知っていく仕組みを構築する必要があるでしょう。渡邊さんの話を伺ってあらためて感じたのでした。