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来日したイラン人はどこへ消えた?

南龍太記者
(写真:ロイター/アフロ)

 かつて大挙して来日し、その後一斉に姿を消したイラン人に関する過去の調査をまとめている。

 1990年ごろ日本に急増したが、その15年後の2005年ごろまでにはめっきり見掛けることが少なくなった彼らは、本国への退去を余儀なくされた者もいれば、日本にとどまり家庭を持った者もいる。

 調査時点からさらに15年後の今、外国人が増える日本社会を考える上で、古くて新しい問題のヒントを提供できればと願う。

(以下、筆者「エスニック・ビジネスを通して見る在日イラン人ネットワーク」より抜粋、一部加筆。(※)は文末に注記。文中の制度や固有名詞は2006年当時のもの)

* * * * *

前回記事の続き)

第3章 イラン人はどこへ

 本章では、1992年の来日ピーク以降、現在に至るまでにイラン人たちがどのような経緯をたどったかを検証する。特に92年の査証免除協定の停止措置と相次ぐ退去強制が、在日イラン人のあいだにどのような変化をもたらしたかを中心に据えて見ていく。

第1節. 査証免除協定停止と退去強制の余波

 1992年4月15日、およそ20年間続いてきた日本イラン間の査証免除協定を一時停止するという措置が講じられた。この措置は、急増する非正規滞在者に対応するため、海外労働者、すなわち短期滞在の資格で来日し非正規に就労する者たちの来日を阻止することを意図したものである[アジア人労働者問題懇談会1992:32]。短期滞在の期限もそれまでの「3ヶ月」から「2週間」へと短縮された。免除協定が存続すれば、短期滞在の在留資格で入国を果たそうとするイラン人が爾後も増えることを見越しての措置だという。しかし、一時的とはいうものの期限は明確にされず、今もなお、停止措置は解除されないままである。

 しかし、これだけでは、既存の非正規滞在者の直接的な減少にはつながらない。そこで、同時に、在留する非正規滞在のイラン人たちの大量検挙が始まったのである。

 イラン人の姿がよく確認された上野、渋谷、原宿、新宿、池袋や千葉県の松戸、埼玉県の大宮などの諸都市で、「イラン人狩り」と揶揄されるような大規模な捕り物劇が展開された。検挙されたイラン人のうち、滞在資格を持たない者の多くは、収容所に送致のうえ、本国へと強制送還されていった。また、数次にわたる入管法や入管基本計画の改定で、非正規滞在者の罰金増額などによる自発的な出頭を促すといった、燻り出しも行った。

 これらの措置導入前に比べ、イラン人の非正規滞在者数、新規入国者数はともに減少した。それに伴い、イラン人に関するニュースも、次第に聞かれなくなっていった。しかし、漸減傾向は続いているものの、非正規滞在のイラン人はいまだ1000人以上いるとされる。

 こうした一連の動きの中で、イラン人は自主的に、あるいは半ば強制的に選択に迫られることとなった。選択とはつまり、イランへ帰還するか、日本に留まるかである。そして、それら選択を行った結果、弱い立場にある外国人の人権や特別措置の是非などの、新たな問題も生じ始めた。

 度重なる変化の波の中で、イラン人の持つネットワークも次第に変容を遂げていった。

第2節. イラン人の選択

1. 本国帰還者

 最も多くなされた選択は、本国への帰還であり、自主的帰還者と非自主的帰還者がいる。

 自主的帰還者には最初から海外就労目的の者が多く、満足のいく賃金を得たために帰還する者や、更なる罰金の支払いを厭って帰還する者などが含まれる。

 一方の非自主的帰還者とは、理由はどうあれ、滞在資格を外れ非正規に滞日していたり、罪を犯したりして、退去を余儀なくされる者を指す。中には、配偶者や子どもがおり、日本での生活を願いながらも、不本意ながら帰国させられる者もいた。

 こうした帰還のピークは、総数が4万人を超えた直後の1993年であったが、移入の激増に比べると、帰還者は激増したわけではなかった。非正規滞在ながら、日本に留まるすべを見つけた、あるいは現在も見つけようとしているイラン人が、次の日本居住者である。

2.日本居住者

 多くが、帰国を選択する中で、あえて日本に在留を続ける者たちがいる。ここでは、「定住者」(1章1節の1参照)に見られるような正規滞在者に加え、滞在期間が相当年以上の非正規滞在者を日本居住者とする。

(1)正規滞在者

 正規滞在者はすなわち、「定住者」である。その内実は、第1章で見たとおり、「日本人の配偶者等」が最も多い。その定住者の多くは最初、非正規滞在のイラン人であったが、来日中に日本人と婚姻関係を結び、在留資格を切り替えていった。

 また、近年の動きとして、滞在期間が長引くにつれて、在留特別許可が認められ、永住者としての資格を得るというパターンもある。これら定住者の中には、ビジネスに成功し、日本人を雇って経営を行っている者もいる。

 

(2)非正規滞在者

 これは一般に、在留期限を過ぎても滞在を続けるなどしている者たちである。検挙を免れ、地方に潜在しているパターンが多い。現在、統計上「若干名」とされているが、在留特別許可を求めて、退去強制令を不服とする訴訟を行っている者もいる。

 この非正規滞在者の扱いが、今の日本社会において、さまざまな点で議論を呼んでいる。先進諸国に比べ、日本の移民政策は保守的であるとか、アメリカやフランスが何度か行ったように非正規滞在者の一斉正規化(アムネスティ)に日本も踏み切るべきだといった声がある。また、景気拡大の動向を踏まえ、現在の日本には外国人労働力が必要だという声もあり、今後こうした非正規滞在者の扱いが、政治、経済、医療など、さまざまな分野で注目度を増すことになるだろう。

第3節. 静かに進む定住化

 こうした変化と選択の連続で、あれほど目立ったイラン人たちは、可視から不可視へとその存在を変えていった。一方で、イラン人の持つネットワークも豊富化していった。本節では、前節で述べた日本居住者の諸相とネットワークの関連を考えてみたい。

 1. 結婚・出産の増加

 非正規滞在のイラン人にとって、日本人との結婚が、日本で暮らし続ける上での決め手となる。1990年以前から微増が続いていたが、96年から01年までの「「日本人の配偶者等」の在留資格者」の増加が特に著しい。その背景には、1章で示したとおり、来日イラン人に占める若年層の男性の多さがある。彼らの多くは未婚で、日本人との結婚で永住権を手にしたいという思いもあったであろう。他方、03年で減少に転じているのは、離婚したカップルが少なからずいるということを表している(図8)。

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 また、永住者同士の婚姻も増えている。この直接的な背景には、1999年以降、在留特別許可が下りたケースが増えたことが挙げられる。ちなみに2005年度におけるイラン人の永住許可の人数は191人であり、永住者の配偶者は増加傾向にある(図9)。

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 なお、統計はないが、非正規滞在者同士で婚姻関係を結ぶケースもあるようである。この場合、事情はもっと複雑で、子どもは無国籍ながらも、日本の教育を受けることはできる。そして、ある程度まで成長した子どもが、「自分は日本に留まりたい」と思っても、退去強制を迫られるというケースがある。生まれてきた子どもにはなんら咎はないのだが、こうしたケースに対応しきれていないのが実情だ。

 イスラーム的戒律や男性優位といった風習が、日本人女性には理解できず、離婚に至るケースも多いようである。もちろん、価値観の違いなどといったことは、イラン人と日本人の夫婦に限ったことではないし、お互いがよく理解し合っているという夫婦や家族も見てきた。

 そうした中で、イラン人と結婚した日本人女性の間で、積極的なネットワーク形成が試みられている。特に、近年のインターネットの普及なども手伝って、同じ境遇の人を見つけやすい状態にある。会員制の『イラン人夫を持つ日本人』(埼玉)というものもあり、大使館でのパーティーなども催している。会員は130人と、如上の統計から考えても、結構な数の女性が参加していることになる。

 こうした会を通じて、ペルシャ語やイラン料理の教室や、日本での結婚手続きなど煩瑣ものを簡便に示したものなど、さまざまな啓発活動が行われている。さらには夫に対する疑問や不満などを共有する場にもなっている。

2. 多様化するネットワーク

 このように結婚というテーマ一つを考えてみても、インターネットがネットワーク形成にもたらした影響は大きい。近年、流行しているブログやSNSなどもうまく活用していることが分かる。あえて言うまでもないが、インターネットは世界とつながっている。日本国内のイラン関連のサイトの多さもさることながら、国外、特にアメリカやイギリスやカナダといった国々を拠点としたイラン人が運営するサイトの多さは目を引く。

 調査によると、イラン人のブログ利用者数の多さは世界屈指ということも実しやかに囁かれている。このことは、1990年前後のネットワークの薄弱さから考えれば、ネットワークの構築がいかに進んだかを物語っている。ただこうした爆発的なネットワークの広がりの裏には、厳しい国内での検閲がある。イランは、国境のない記者団からも、その制度を是正するよう勧告を受けている国の一つである。国外で生活を送るイラン人の中には、イランのそうした数多い制約を厭った者も少なくない。インターネットは、検閲という桎梏から逃れたイラン人の自由の象徴とも言えるだろう。

 日本における、イラン人が管理・運営するインターネットのサイトの特徴は、その多くが、日本人との協力の下で設立されたサイトであるということである。とりわけ、イラン人男性と日本人女性の夫婦により運営されているサイトが多い。そうしたサイトには、夫がイランとのコネクションを頼りに輸入を手がけ、女性が接客や応対を請け負うといったスタイルのものが多かった。また前述のとおり、日本人女性主体の、イラン人男性との結婚生活をつづったものやイラン料理について教えているものなどもある。SNSのコミュニティには、『イラン夫を持つ奥様方集まれ!』といったものもあった(※1)。

 そうしたネットワークの中には、90年代に次々と立ち上がった外国人支援団体や人権団体も多く見られた。団体ごとに会合を持ち、個人の悩みやエスニック全体としての問題点を話し合うなどしている。これらの団体の中には積極的に情報発信や募金・署名活動を行い、成果を挙げているものも多い(※2)。

 他方、自治体が主体となって多文化共生を掲げて、先進的な取り組みを行っていることにも注目したい。例えば、川崎市や新宿区といった外国人の多い都市では早くからそうした活動が見られた。それに続けと言わんばかりに、他の市区役所や町村役場でも、国際交流課といった部署が新設され始めている。

 同じ行政という立場ではあっても、国とは、一線を画した独自の方針を打ち出している。こうした自治体では、地域市民などの協力を得ながら、外国人との交流を推し進めている。大抵、こうした活動へ参加する者たちは日本人も外国人も互いに意欲的なため、双方にとって実りある会合となっている。こうした活動が全国的な広がりを見せていることは近年の国際化する社会を表している。このような場が、イラン人たちの新たな「集会」の場として確立されつつある。

 また、モスクの建設が90年代に進んだことも、ムスリムにとっては、大きな成果であり、誇りであった。しかしながら、各地に完成したモスクにイラン人の姿はあまり見られないという。このことは、建設の主体がパキスタン人やバングラデシュ人などのスンニ派で、シーア派のイラン人たちにとって特別な感情が働いていることによる[町村1999:184]。シーア派であるということに加え、イラン人は、元来、ペルシャ人としての自分たちの文化や民族の独自性を強調する。そのため、モスクの形ひとつにしてもこだわりが強い。

 そうした反発意識もあり、スンニ派主体のモスクには、出入りしないのが通例とされる。モスクを拠点としたネットワークの形成というイスラーム諸国の基本は、日本に在住するイラン人のあいだでは、今ひとつ進んでいないようである。

 そして、もちろん、エスニック・ビジネスもまた、ネットワークの形成に重要な役割を果たしていた。定住化の進行とともに、定住者がビジネスを興し、新たな場として胚胎している。エスニック・ビジネスについては、次章に譲る。

3. 在留特別許可をめぐって

 1999年9月、超過滞在が10年近くになるイラン人家族ら21人が、在留特別許可を求めて、東京入管に集団出頭した[駒井・渡戸2000]。許可が認められなければ本国への帰還が余儀なくされるが、認められれば日本人と親族関係にない新来外国人としては初のケースとなるということで、注目を集めた。結果、2002年の2月に、出頭した者の一部には在留特別許可を認めるという、関係者にとって悲喜交々の結果であった。どういった基準で一方の家族には許可が下り、もう一方には下りなかったのかは明確にされないままである。法務省側の説明は「法務大臣の一存なので、説明する必要がない」というものであった。

 ここから一家の法廷闘争は始まった。判断を不服とし、控訴した。一家の父であるアミネ・カリルさん(※3)は、入管の収容施設に送られることもあったが、支援団体の助けもあり、今なお闘っている。03年の高等裁判所の判決では、「退去強制によって家族が被る不利益は大きい」という趣旨の画期的な判断に一同雀躍した。しかし、二審で敗訴し、上告するも06年11月最高裁の判決は上告受理を認めず、家族そろっての日本在留の夢は風前の灯である。

 確かに、日本で育ち、日本語しか話せない子どもたちが、イランという環境のまったく異なる国へと帰されることが、人権の侵害にあたるのではないかというアミネさん側の主張は、理解できる。しかし一方、非正規滞在という自覚がありながら、妻をイランから呼び寄せ、家庭を持つという行為などに対する謗りは免れない面もある。

 しかしながら、こうした決定までのプロセスが不透明で分かりにくいという制度上の問題に対し、入管側はきちんと対応していかねばならない。1999年に出頭したアミネさんと、許可が下りたもう一つイラン人家族とでは、滞在期間や事情が似ているという。そこを不服とし、それに対する明確な回答を出せないでいる入管側には、それを説明する責任がある。

 諸外国で、在留特別許可が認められた事例は多くある。中でも、こうした一部の単発的な案件への許可ではなく、政策上、大々的に行うものとして、数百人という非正規滞在の外国人を一斉に正規化することを「アムネスティ」という。こうした措置が、アメリカやフランスで取られてきたことを受け、日本での実施を求める声もある。しかし、これが行われたからといって日本が寛容であるかどうかといった議論は別の次元の問題であり、このアムネスティ措置はあくまで、国家の重要な局面で、政策上有効と判断されたときに限り、実施されてきた経緯がある。

 日本は現在、少子高齢化という人口減少局面に際し、「開国か鎖国か」といった難しい舵取りを迫られている。非正規滞在者に対するアムネスティという措置は、一考の余地はあるかもしれない。しかし、正規化要件の期限や資格を設定すると、それらを満たすべくさらに非正規滞在を続けよう、あるいは新規に来日し、そうした要件を満たそうと考える者たちが現れるとも限らない。こうした意識が働き、入管行政は行き詰まりを見せている。

 そうした中ではあるが、06年10月には『在留特別許可に係るガイドライン』として、「当該許可の拒否判断に当たり、考慮する事項」を明記するなど、入管側にも明らかな変化が表れ始めている。こうした変化は、まさに非正規滞在者の果断さとそれをサポートする支援団体の努力の賜物であったことに他ならない。

 ともあれ、こうした論議の端緒となったのが、イラン人を中心とする家族らの訴えから始まったことは改めて明記しておきたい。現在までに1万人を超す非正規滞在者が正規化されたと言われている。

 

第4節. 補遺

・把捉困難な実態

―統計上の不確実性―

ここまで、何度となく統計を用いて、来日イラン人の趨勢を検証してきたが、こうしたデータには多少の誤差が生じていることは、あらためて強調しておかねばならない。

(後略)

※注記:

1、世界では「IranSingles.com」という、イラン人同士の恋愛に関するサイトが人気を博しており、国内で自由な恋愛が制限されている不満の表れともとれる。

2、しかしながら、こうした団体の主張にはしばしば感情的なところが見受けられる。手放しで外国人支援を称賛し、非正規滞在者の増加に対し無批判な支援活動に関しては、冷静に考えねばならない。一部の支援団体に見られる、非正規滞在者全員に在留特別許可を認めるべきだとする主張に対しては、仮にそれを行った後にどのようなメリット、デメリットがあるのかといった具体論が見えてこない。入管の対応に痺れを切らす気持ちは理解できるが、とりあえずの場当たり的な態度では、問題の根本的な解決には結びつかず、むしろ新たな外国人非正規滞在者の増加を招きかねない。

3、すでに実名報道がなされているため、それに準ずる。

記者

執筆テーマはAI・ICT、5G-6G(7G & beyond)、移民・外国人、エネルギー。 未来を探究する学問"未来学"(Futures Studies)の国際NGO世界未来学連盟(WFSF)日本支部創設、現在電気通信大学大学院情報理工学研究科で2050年以降の世界について研究。東京外国語大学ペルシア語学科卒、元共同通信記者。 主著『生成AIの常識』(ソシム)、『エネルギー業界大研究』、『電子部品業界大研究』、『AI・5G・IC業界大研究』(産学社)、訳書『Futures Thinking Playbook』。新潟出身。ryuta373rm[at]yahoo.co.jp

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