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同性婚と憲法24条

南野森九州大学法学部教授

画期的な宇都宮地裁真岡支部判決

 2019年9月18日、宇都宮地裁真岡支部が、同性カップルの法的保護のあり方に関して画期的な判決を下した(中畑洋輔裁判官)。

 事案は、同性カップルの一方による「不貞行為」を理由とする関係破局について、他方から損害賠償が請求されたというものであり、これが男女のカップルであれば、内縁関係も婚姻関係に準じて扱うべしという1958年の最高裁判決に従って処理される、「普通の」民事事件であったはずのものである(ただしこの事案のカップルが米国で同性婚をしていた点については注意が必要かもしれない)。今回の宇都宮地裁真岡支部判決は、「同性のカップルであっても男女の内縁関係と変わりないと認められる場合は、異性のカップルと同じように法律上保護されるべきという判断を示し」たもので、原告の代理人弁護士などによると、「同性婚が認められていない日本でこうした判断が示されるのは初めて」(NHK 首都圏 News Web)であり、そのような意味で、民法(家族法)分野においても画期的な判決であった、ということになる(もちろん、まだ地裁判決であるし、この後、当事者が控訴するなどしてこの考え方が上級審で否定される可能性もあるし、この考え方が我が国の「判例」となるかどうかは現時点ではわからない)。

 

憲法は同性婚を「想定していない」

 報道によると、同判決は、憲法分野においても画期的なことを述べている。

 そもそもの前提知識をここで再確認しておくと、日本国憲法が婚姻について語るのは24条のみであり、そこには、「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立」する(同条1項)とあるし、婚姻や家族に関する事項に関しては、法律は「両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」(同条2項)とある。「両性」(英語では both sexes)とは、常識的には「男女」を意味するだろうし、70年以上も前の日本国憲法制定時に当時の制憲者たちが同性婚を念頭に置いていたとは考えられず、実際、制憲議会(第90回帝国議会)においても同性婚については議論されていない。24条の原案を作ったベアテ・シロタ・ゴードン氏も、生前のインタビューのなかで、同性愛者の存在など当時は知らなかったという趣旨のことを語っている。少なくとも、日本国憲法24条が同性婚を「想定していない」ということは、憲法学説も含めほとんどの人が一致して認めるところであろうと思われる。

 問題は、憲法24条が同性婚を「想定していない」として、そのことから、したがって同性婚を認めることは憲法上できない(同性婚禁止説=同性婚を認めるためには憲法改正が必要である)と考えるのか、あるいは、したがって同性婚を認めることは立法政策の問題である(同性婚許容説=同性婚を認めるためには憲法改正は必要ではなく、民法や戸籍法の改正や特別法の制定など、法律の整備が必要であるにとどまる)と考えるのか、である。もちろん、同性婚を認めないことが憲法違反になる、という可能性も当然あり、実際に、法の下の平等(憲法14条)や幸福追求権・個人としての尊重(憲法13条)を根拠として、そのように主張する学説(同性婚要請説)も近年では有力である(が、同性婚を認めないことが憲法24条に違反するとする有力学説は管見の限り存在しないので、ここではこれ以上立ち入らない)。

 今回の宇都宮地裁真岡支部判決は、報道をみる限り、憲法24条について、少なくとも上記の同性婚禁止説を否定したとは言えるだろう。「制定当時は同性婚を想定していなかったにすぎず、否定する趣旨とは言えない」と述べた(朝日新聞2019年9月19日)とか、「憲法制定当時は同性婚が想定されていなかったからにすぎず、同性婚を否定する趣旨とまでは解されない」と述べた(日本経済新聞2019年9月18日)と報道されている。そのうえで、本判決は、本件の同性カップルに異性カップルと同様の法律上の保護を与えることを認めた点から、おそらく許容説(に少なくとも親和的な立場)を採った、と言えるのではないかと思われる。これが、本判決の、憲法分野における画期的な点である(それが我が国の判例となるかどうかは、民法分野(家族法分野)に関して上に述べたことが同様にあてはまる)。なお、本判決の厳密な法的分析は、本判決の原文を入手してから改めて行いたいと思う。

 

政府見解と宇都宮地裁真岡支部判決とは異なるのか

 ところで、本判決の憲法分野における画期的な点について、朝日新聞(同上、平賀拓史・北沢拓也両記者執筆)は、つぎのように述べた。

 判決は、婚姻が両性の合意のみに基づいて成立するとした憲法24条についても検討。「制定当時は同性婚を想定していなかったにすぎず、否定する趣旨とは言えない」と述べ、「24条は同性婚を想定していない」とする政府とは異なる解釈に踏み込んだ。

 「政府とは異なる解釈に踏み込んだ」という言い方はややミスリーディングであるかもしれない。憲法24条と同性婚の関係についての政府見解は、たとえば、2018年4月27日に逢坂誠二衆議院議員が提出した質問主意書に対する安倍内閣の答弁書(同年5月11日付け、内閣衆質196第257号)において、つぎのように示されている通りである。

 憲法第24条第1項は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」すると規定しており、当事者双方の性別が同一である婚姻(以下「同性婚」という。)の成立を認めることは想定されていない。

 いずれにしても、同性婚を認めるべきか否かは、我が国の家族の在り方の根幹に関わる問題であり、極めて慎重な検討を要するものと考えており、「同性婚に必要な法制度の整備を行わないことは不作為ではないか」との御指摘は当たらない。

 閣議決定を経た政府答弁であり、注意深く読む必要があるが、要するに、憲法24条が同性婚を想定していない、ということを述べるにとどまっているという点が重要である。同性婚に必要な法整備を行わないことが立法不作為にあたるとの指摘を否定しているので、政府が同性婚要請説(=憲法は同性婚を要請しており、したがって同性婚を認めていない現状は憲法違反であるとする立場)に立っていないことは示唆しているものの、それ以外に、同性婚禁止説に立つのか、それとも同性婚許容説に立つのかは、判然としない。

 この点について、首都大学東京の木村草太教授は、その2019年9月21日付けツイートで、この朝日新聞の記事を取り上げ、

 なお、記事は「政府とは異なる解釈」だとするが、政府も「憲法は同性婚を禁じている」と断言することを避けてきた。

 とコメントしておられる。筆者自身は同日のツイートで、

 踏み込んだのは間違いないが「政府とは異なる解釈」と言うのはミスリーディング。

 とやや踏み込んでみたが、趣旨は、以上に書いた通り、政府の見解は明確な禁止説とまでは断言できず、許容説の可能性も依然としてある、ということに鑑み、「政府とは異なる解釈」と言ってしまうと、もちろん宇都宮地裁真岡支部判決のように明確に禁止説を否定するところまで政府見解は踏み込んではいないので、したがって同判決と政府見解はその意味において同一ではないことから「異なる解釈」と言うことも間違いではないものの、読者に対しては、同判決は禁止説を否定したがそれは政府とは異なる解釈であった、つまり政府は禁止説である、という印象を与えるのではないだろうか、ということである。そのような意味で、筆者はこの記事の表現が「ミスリーディング」である、とした。

 憲法と同性婚の関係については、憲法学説の蓄積もまだまだ十分とは言えない状況にあり、今後も多様な裁判例や学説が展開される可能性がある。筆者自身の憲法解釈をここではあえて開陳しなかったが、その点も含めて、別な機会に物したいと思う。

【2019年9月22日追記】

 本稿公開後、原告代理人をつとめられた白木麗弥弁護士から、判決文のPDFをいただくことができた。本日、判決文を読んだうえで、補足的説明を行った論説(「同性婚と憲法24条(補遺)ーー宇都宮地裁真岡支部判決の憲法論」を公開したので、合わせてお読みいただけると幸いである。

九州大学法学部教授

京都市生まれ。洛星中・高等学校、東京大学法学部を卒業後、同大学大学院、パリ第十大学大学院で憲法学を専攻。2002年より九州大学法学部准教授、2014年より教授。主な著作に、『憲法学の現代的論点』(共著、有斐閣、初版2006年・第2版2009年)、『ブリッジブック法学入門』(編著、信山社、初版2009年・第3版2022年)、『法学の世界』(編著、日本評論社、初版2013年・新版2019年)、『憲法学の世界』(編著、日本評論社、2013年)、『リアリズムの法解釈理論――ミシェル・トロペール論文撰』(編訳、勁草書房、2013年)、『憲法主義』(共著、PHP研究所、初版2014年・文庫版2015年)。

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