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映画を愛する者たちに贈る玉手箱!100年を超える歴史を生き抜いてきた福島の”奇跡の映画館”

壬生智裕映画ライター
本宮映画劇場外観(写真:著者提供)

■本宮映画劇場、それはまさに奇跡の映画館

 福島県本宮市の小さな町に、築100年を超える映画館「本宮(もとみや)映画劇場」が建っている。1914年に建てられたこの映画館は、戦後の映画黄金時代に多くの観客を集めたが、その後、映画産業の斜陽化に伴い、客足が激減。1963年に休館を余儀なくされてしまう。だが2代目館主の田村修司さんは、いつの日か映画館を再開させようと夢見て、50年以上にわたってコツコツとメンテナンスを続け、映画館を守り続けた――。

 2011年には東日本大震災に、2019年には台風19号の水害被害に遭うなど、数々の困難が降りかかったが、その都度困難に立ち向かい、現在もなお変わらぬ姿を見せている。まるでタイムスリップしたかのように変わらずに目の前に建つ姿は“奇跡の映画館”と呼ぶにふさわしく、そして往年の息吹を感じさせるたたずまいはまさに“シネマパラダイス”と言いたくなるような趣がある。

館主の田村修司さん(写真:著者提供)
館主の田村修司さん(写真:著者提供)

 そのあたりについては、拙稿で恐縮だが、田村館主がゲストで来場したカナザワ映画祭を取材した記事があるので、御参考までに。

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 この記事にも登場する“娘さん”こそ、このたび書籍「場末のシネマパラダイス」(筑摩書房)を上梓した三代目の田村優子さんだ。書籍には、父から聞いた映画館の歴史や、劇場に残る秘蔵のフィルムやポスターなどを紹介。映画黄金期の文化と歴史、そして当時の空気感を余すことなく収めている。また文中に登場する館主の方言も実に味わい深く、それがゆえに、父娘の会話も実に生き生きと活写されている。映画ファンにも、映画館好きにも見逃せない一冊となっている。

 そこで今回は本作の著書である田村優子さんに、本書執筆の裏側、そして本宮映画劇場への思いについて聞いた。

本宮映画劇場の客席、スクリーン(写真:著者提供)
本宮映画劇場の客席、スクリーン(写真:著者提供)

■喜んだのはクリスチーナ・リンドバーグさんとの写真

――書籍の刊行、おめでとうございます。館主はこの本についてどのように言っていますか?

田村:父に話を聞く前に「本になるかもしれないよ」と伝えたのですが、「ほんとかい?」といった感じでずっと半信半疑で。だんだんと形になってきてからようやく「あら、ほんとだわ」となりました。原稿を送った後になって急にいろいろ話してくれたりして。「いまさら言われても遅いんだけどな」みたいなことは多々ありました。こうして本になったのに父はたぶんあまり読んでくれてなくて。でも一番喜んでいたのが、(スウェーデンの妖精と言われた女優)クリスチーナ・リンドバーグさんと一緒に撮った写真。これはほんとに良かったと言われました(笑)。あの時はカナザワ映画祭のゲストとして金沢に行った日にクリスチーナさんもいらしていて、その時の写真です。

――カナザワ映画祭にゲストでいらした時ですね。お父さまにお話を聞くときはどのようにして取材をしたんですか?

田村:やはり親子なので、改まって「取材」といった形は取れないんです。面倒くさいって言われちゃうから。なるべく実家に帰って。父は日帰り温泉が趣味なので、温泉に行く途中の車の中で聞くようにしていました。

――それは録音して?

田村:さりげなく録った時もありましたけど、だいたいは頭にインプットして。帰ってきたら一気にバーッと書く。あとは家でご飯を食べた後や一緒にお茶を飲みながら何気なくしゃべっている時に、突然いい話をしたらパッと書いてました。

――時代背景なども入念に調べられているなと思ったのですが。このあたりはどうやって調べたのでしょうか?

田村:国立映画アーカイブの図書館や本宮の歴史資料館に行ったりとか。あとは編集の方から古本の資料を教えていただいたり、うちにある古い本を参考にしたりもしました。劇場の話って、本宮でも80歳以上の人じゃないと知らないんです。でも、近所の人は案外うちの劇場に来てなかったので、なかなか劇場を知る人に出会えなくて。本当はもっと出会いたかったんですけど。

だから少しずつでした。例えば父も知らなかったんですけど、裏のおばさんが、うちに北島三郎が来てたよと教えてくれたり。そういうのを少しずつ拾っていったりして。それと劇場の古い写真ですが、昔は劇場の景気が良かったのでカメラがあったわけです。まだ一般家庭にカメラを持つ人はかなり少なかったので、当時にしては写真が残っているのでした。

田村優子著「場末のシネマパラダイス」(税込み1980円/筑摩書房)(写真:著者提供) 
田村優子著「場末のシネマパラダイス」(税込み1980円/筑摩書房)(写真:著者提供) 

■劇場はお宝の山。だから写真もたくさん

――とにかく古い映画ポスターやチラシ、昔の写真などが多くて。非常に見応えがありました。

田村:わたしは文章だけの本よりは、写真がたくさんある本のほうが好きなので。目でも楽しんでもらいたいなと思っていました。それは父も考え方が一致していたと思います。もちろん本を作る予算に限りがあることは分かっていたのですが。でもやはり本宮にしかないようなポスター写真は入れたくて。分かりやすい昭和レトロではなくて、よく知らない映画会社の作品などを載せています。あとは地方版ポスターなど。マニアの人にはわりとバカにされがちなんですけど、わたしはゆるめの雰囲気が大好きなんです。

――今となっては貴重な資料だと思います。そして書籍のタイトル文字は、「ランボー」をはじめ、数々の映画ポスターを手がけてきた映画広告図案士の檜垣紀六さんが担当されています。

田村:もともとわたしがファンで。カナザワ映画祭で知り合ってから、お手紙を書いてました。そしたら檜垣先生から「お父さん元気ですか」とお返事をいただいて。文通をしていました。いつか、お仕事が一緒にできたらいいななんて。今回、駄目元でアタックしてみたのですが快く「いいよ」と言ってくれたので、とてもうれしかったです。この本宮映画劇場という文字も全部、1文字ずつ手書き。うちの建物の縦に書いてある文字を檜垣さんが「横に書いたらいいんじゃないか」と言って、ちゃんと書き起こしてくれて。形もシネスコの感じでアーチ状になっていて。映画のポスターって、そうやって作っていたんだなと勉強になりましたし、先生の考えを聞くことができたのはすごく貴重な経験でした。

檜垣紀六さんのタイトル文字は書籍内のカラーページにも掲載されている(写真:筆者撮影)
檜垣紀六さんのタイトル文字は書籍内のカラーページにも掲載されている(写真:筆者撮影)

■「ろくな映画をやらない」と言われても家族は応援

――それだけこだわりが詰まっている本だということで、本人的には満足なんじゃないですか。

田村:好きな人を巻き込んじゃって。幸せだなと思っています。

――上品な映画だけでなく、ピンク映画も上映するなど、清濁併せ呑む雑多さが本宮映画劇場の魅力だと思います。そういう意味で著書の中で印象的だったのが、近所の方から言われたという「田村はろくな映画をやらない」という言葉でした。

田村:近所のおじさんや、知らない人にも、小さい時からずっと言われていましたからね……。それはけっこう傷付くというか、何で突然そんなこと言われるんだろうみたいには思っていました。

――ご家族としては大変だったこともあったと思いますが。ご家族の反応はどうだったんですか?

田村:みんな応援していました。でも姉さんたちはピンク映画をやっているのはちょっと嫌がっていた時期もありました。そのポスターを町中に、割と派手に貼るんです。夏休みになると、家の前の電柱とか駅前とか何カ所かにポスターを貼って。あれ、結構目立つんですよね。突然現れますから。

――今となっては信じられない話ですが、昔はピンク映画のポスターなども平気で街中に貼ってありましたからね。それにしても町中の電柱に突如、映画告知のポスターが貼られたという話を聞くと、『ザザンボ』や『腹腹時計』などの渡辺文樹監督の宣伝手法を思い出してしまいます。

田村:本当にあんな感じ。突然電柱にグリグリッとやっちゃって。結構インパクトがあったと思うんですよね。わたしもあの看板を作るのを一緒に手伝ったりしていました。のりをつけたりとかして。おませさんだったから、ああいうポスターを貼るのは楽しかったです。

劇場の倉庫には秘蔵のポスターやフィルムがたくさん。まさにお宝の山だ(写真:著者提供)
劇場の倉庫には秘蔵のポスターやフィルムがたくさん。まさにお宝の山だ(写真:著者提供)

■映画館は子供の遊び場として最高

――そんな館主ですが、都築響一さんの書籍「独居老人スタイル」で紹介された辺りから周囲の風向きは変わってきたんじゃないですか?

田村:そうですね。それまでは福島のニューシネマパラダイスみたいな、時々上映会をやっている、地元のいいおじさんという形で捉えられていました。それはそれでうれしかったんですけど、ピンク映画をやっていたことなどは誰も触れていないし。何かもうちょっと違った形で知ってほしいみたいな気持ちがあったから、都築さんに書いてもらった時に、私の言いたかったことが全部詰まっているなと思って。あれで全国的にも知ってもらえたのは、大きかったです。

――あらためて、実家が映画館というのはどういう気分なんですか?

田村:「家」という感覚です。自宅からは50メートルぐらい離れているんですが、車は劇場に止めているし。たまに「あそこに住んでいるの?」と聞かれると、面倒くさいから「はい」とか答えたりしていましたけど。映画館は広いから、子どもの遊び場としては最高でした。でもトイレは怖いから高校生ぐらいまでは入ったことがなかったんです。

現在ではなかなかお目にかかれないカーボン式映写機が今でも現役で動いているのは貴重だ(写真:著者提供)
現在ではなかなかお目にかかれないカーボン式映写機が今でも現役で動いているのは貴重だ(写真:著者提供)

■「100万円くれたら教えてもいい」

――プロフィルには「現在、三代目修業中」とありますが、だいぶ修業も進んでいるのでは?

田村:どうなんでしょう。父から話をいっぱい聞いて、歴史は大体学んできたかなと。それと東京の映画館で働いているので、少しずつ何かは覚えているのかなとは思いますが…。

カーボン式映写機は自分では操作できないので、いつか映写できたらいいなとは思っています。父にも教えてとは言っているのですが、またいつもの調子で面倒くさがられちゃう。「100万円くれたら教えてもいい」とか言うんですよ(笑)

――昔は「ろくな映画をやらない」と言われてきた本宮映画劇場ですが、今は応援してくれる人も増えてきたんじゃないですか?

田村:本宮ではあんまり……(笑)。でも大きく変わったのは、市役所の方がすごく温かくなったということです。おじいちゃんたちの歩こう会のコースに入れていいですかとか、町の集まりで使いたいと言ってくれたり。今までずっとそういうのがなかったので、ようやく町に認められた気がして。それが一番ビックリしていることです。応援してくれる人は少しはいるけど、すごく増えたという感じはありません。

父もわたしも、自分たちがやりたいようにやれれば、それでいいかなと思っています。

漫画家・東陽片岡先生による著者近影(写真:著者提供)
漫画家・東陽片岡先生による著者近影(写真:著者提供)

田村優子(たむらゆうこ)

本宮映画劇場二代目館主・田村修司と妻・富久子のあいだに三人姉妹の三女として、福島県本宮町(現・本宮市)に生まれる。安積女子高校(現・安積黎明高校)卒業後、東京工芸大学で写真を学ぶ。卒業後はフリーのスタイリストとして広告、雑誌などの仕事を続ける。現在、東京都内の名画座でアルバイト勤務、本宮映画劇場三代目として修業中の身。

映画ライター

福岡県生まれ、東京育ちの映画ライター。映像制作会社で映画、Vシネマ、CMなどの撮影現場に従事したのち、フリーランスの映画ライターに転向。コロナ前は年間数百本以上のイベント、インタビュー取材などに駆け回る毎日で、特に国内映画祭、映画館などに力を入れていた。2018年には、プロデューサーとして参加したドキュメンタリー映画『琉球シネマパラダイス』(長谷川亮監督)が第71回カンヌ国際映画祭をはじめ、国内外の映画祭で上映された。近年の仕事として、「第44回ぴあフィルムフェスティバル2022カタログ」『君は放課後インソムニア』のパンフレットなど。

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