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真剣勝負の対局で足はしびれなくても、法事やお茶の席ではすぐしびれる? 将棋の棋士と正座の話

松本博文将棋ライター
(将棋タイトル戦の対局場 記事中の写真撮影:筆者)

 いまから20年前の2004年4月。千葉県成田市・成田山新勝寺において、第62期名人戦七番勝負第1局、羽生善治名人(33歳)-森内俊之挑戦者(33歳)戦がおこなわれました。(年齢、肩書は当時、以下同様)

 対局前日、お寺では護摩祈祷がおこなわれました。その際、両対局者をはじめ、関係者はずっと正座をしていました。

(2004年4月、名人戦第1局前日)
(2004年4月、名人戦第1局前日)

 インターネット中継のスタッフだった筆者はカメラを持って撮影を担当し、立ち歩いていました。正直なところ、筆者は正座が苦手で、すぐに足がしびれます。一緒に座っていたら、その間はずいぶん長く感じられたことでしょう。

 やがて祈祷が終わり、羽生名人、森内挑戦者が立ち上がるとき。両者は足がしびれていたそうで、少しふらっとした感じで苦笑していました。

 これはちょっと意外でした。というのも両者をはじめ、多くの将棋の棋士は対局中、涼しい顔をして長時間正座をしているからです。

 このあと、筆者は何度か雑談の席で「成田の名人戦でこんなことがあったんですよ」という話をしました。すると何人もの棋士から「私も法事で正座すると、すぐに足がしびれます」というような答えが返ってきました。

 真剣勝負ではない場では、わりとすぐに足がしびれる。それは「棋士あるある」のようです。

 将棋の棋士は修行時代から、正座に慣れています。将棋会館の和室において、奨励会例会で対局するときや、公式戦の記録係を務める際などは、畳の上での正座が基本です。

 修行の成果によって、多くの棋士は対局に限らず、いつでもどこでも正座は平気なのではないか。筆者はそれまでそう思っていました。しかし話を聞いてみると、そうとも言い切れないようです。

 2007年、缶コーヒーのCMの撮影に臨んだ羽生現九段は、こんな言葉を残しています。

「不思議なのは、対局のときは正座をしても決して足はしびれないのですが、そうでないときはしびれます。(CM撮影では)対局のシーンとはいえ、正座して足がしびれました」
出典:「羽生王将、新CM 伊東美咲と共演」『スポーツニッポン』2007年4月11日

 文献をたどってみると、同様の発言はいくつも見つけることができます。

対局の時は集中力を保つ棋士たちも、将棋を離れるとそれがとたんに弱まります。私自身、数年間お茶を習っていた経験があるのですが、おけいこのたびに、いつも足がしびれて参りました。対局の時に数時間座っていてもしびれないのに、お茶では長く正座がもたないのです。たぶん、対局では盤上に集中して神経が足のことを忘れているのでしょう。棋士が最初にしびれるなんて、と優しい先生や女の子たちにいつも笑われていたものです。
年に1度、5月にある棋士総会でも、和室で100人を超える人数で行っていた時は、ふだん正座で通す棋士も早々に足を崩していました。どうやら対局では大丈夫でも、会議での集中力を保つのは至難の業なのですね。
出典:島朗『北海道新聞』2001年5月18日夕刊

二十代、あるいはタイトルを戦った三十代のころは、朝9時から深夜0時まで、食事あるいはトイレに立つ以外はずっと正座で通すことができました。そして、「対局姿が美しい」などといわれて悦に入っていたものです。しかし実は、その当時から、法事で正座をするのは大の苦手でした。対局のときには数時間もぶっとおしで正座ができるのにもかかわらず、法事でお経などを上げられてしまうと、15分も経たないうちにしびれが切れてしまうのです。ただ周囲の人はそんな事情は知りません。そして「米長先生は、お坊さんより正座に慣れていらっしゃるんでしょうね」などといわれるから、うっかりあぐらをかくこともできず、脂汗を流すといったこともありました。
出典:米長邦雄『われ敗れたり』81p、2012年刊

 いまから30年前の1994年。第52期名人戦七番勝負は、米長邦雄名人(50歳)に羽生善治挑戦者(23歳)がいどむシリーズでした。この頃の名人戦は、NHKの衛星放送で映像が中継されていました。米長名人は全対局をほぼ正座で通し、ファンから「素晴らしい」という声があがったそうです。

 近年の将棋界では、公式戦でも椅子対局が少しずつ増えています。正座がきつい人のためにも、今後は椅子対局に移行していくべきではないかという声も多く聞かれます。筆者もどちらかといえば、そうした意見に賛同する側です。

 しかし名人戦などにおいて、和服を着た対局者が畳の上で正座をし、背筋を伸ばして対局する姿の美しさもまた、将棋という日本の伝統文化を象徴するものなのでしょう。

(2005年4月、名人戦第2局)
(2005年4月、名人戦第2局)

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

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