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注目集める里見香奈女流五冠(30)棋王戦本戦では元A級・阿久津主税八段(40)に大熱戦の末敗れる

松本博文将棋ライター
(記事中の画像作成:筆者)

 8月15日。大阪・関西将棋会館において第48期棋王戦コナミグループ杯・挑戦者決定トーナメント2回戦▲里見香奈女流五冠(30歳)-△阿久津主税八段(40歳)戦がおこなわれました。

 10時に始まった対局は20時13分に終局。結果は142手で阿久津八段の勝ちとなりました。

 女性として初めて、一般公式戦で本戦に進んだ里見香奈女流五冠。残念ながらここで敗退となりました。

 女流棋戦、一般公式戦で対局が続き、ずっとハードスケジュールの里見女流五冠。そうした中で8月18日からはいよいよ、歴史的な棋士編入試験が始まります。

社会的な注目を集める里見女流五冠

 本局は7月29日におこなわれる予定でしたが、阿久津八段の新型コロナウイルス感染により延期されていました。

 駒箱に手をかける前、阿久津八段は頭を下げながら、里見女流五冠に話しかけます。言葉はよく聞き取れませんでしたが、おそらくは対局延期に関して、なにか述べたのでしょう。里見女流五冠も一礼を返して、両者は駒を並べ始めました。

 阿久津八段は朝日杯(2008年度)、銀河戦(2009年度)で優勝。順位戦でもA級2期在籍の実績があります。実力もあり、また人気も高い棋士の一人と言えるでしょう。しかし本局に限っていえば、里見女流五冠を応援する声が圧倒的だったのではないでしょうか。

記録係「阿久津先生の振り歩先です」「と金が3枚出ましたので、里見先生の先手番でお願いします」

 振り駒の結果、先手は里見女流五冠と決まりました。

 定刻10時。記録係が声をかけて両対局者は一礼。持ち時間4時間の対局が始まりました。

 里見女流五冠は初手、中央5筋の歩を突きます。そして颯爽と、中央に飛車を移動させました。戦型は小学生の頃からずっと指し続けてきた、得意の中飛車です。3日後に始まる棋士編入試験五番勝負でもおそらくどこかで、この戦法は出てくるでしょう。

 居飛車で迎え撃つ阿久津八段。玉を角のサイドに寄せたあと、そちら側の銀を四段目に繰り出して里見陣の駒組をけん制します。

 23手目。序盤で里見女流五冠の手が止まります。棋王戦本戦の持ち時間は各4時間。一般的な女流棋戦と比べると、長く考えることができます。消費時間は34分。里見女流五冠は美濃囲いの上部、3筋の歩を突きました。

里見女流五冠の趣向

佐藤慎一「ちょっとこれは予想できなかったですね」

 解説の佐藤慎一五段が驚きの声をあげます。玉の斜めのラインが開き、美濃囲いにスキが生じているようで、これまでの常識ではなかなか思い浮かばないような形です。この手が早くも波紋を呼びました。

里見「準備というか、昔ちょっと考えたことがあったんで。そうですね、やってみようかなと思ってました」

 男性棋士を相手にここまで勝ちまくってきた里見女流五冠。その要因の一つは、指したいように指しているからかもしれません。

阿久津「いや、なんか趣向を凝らされたなと」

 阿久津八段の手が止まったまま、時間が過ぎていきます。

佐藤慎一「阿久津さん見てください。めちゃくちゃ困ってるじゃないですか。

 中継の映像には、阿久津八段が上体を傾けて脇息にもたれかかっている様子が映されていました。

 阿久津八段が考え続け、12時、そのまま昼食休憩に。阿久津八段はハンバーグとエビフライのセットを食べながら、さらに考え続けていたのかもしれません。里見女流五冠も同じメニューで、ライスは少なめという注文だったそうです。

 12時40分、対局再開。

阿久津「こっちも手が広い。趣向に対して普通にやって、わるくなることもないかな、と思ったんですけど(笑)。まあちょっと気が変わったというか」

 阿久津八段は1時間5分の消費時間で6筋の歩を突きました。代わりに7筋の歩を突く構想もあったようです。

阿久津「△7四歩が自然だなと思ったんですけど。銀対抗(▲6六銀型)でくるのか▲5六銀型なのかもわかんなかったのと。ちょっとなんか力戦模様というか。▲3六歩を見てちょっと変わった形を選んでみたんですけど。まあちょっと難しかったですね」

両者我慢の中盤戦

 阿久津八段は攻撃陣側の桂を手早く中段に跳ねて動いていきます。コンピュータ将棋ソフトが示す評価値では、阿久津八段ややリードの時間が続きました。しかし里見女流五冠は馬(成角)を作って自陣に引き、うまくバランスを保ちます。

阿久津「いやなんか、よくわかんない将棋でしたね。なにやっていいか、よくわかんない」

 駒の取り合いのあと、54手目、阿久津八段は馬銀両取りに桂を打ちます。

阿久津「ちょっとわるいと思いました。本譜も難しいというか」

 里見女流五冠の側には、歩を取りながら馬を阿久津玉の上部に飛び出す勝負手がありました。香の串刺しで馬は取られてしまうのですが、その代償に得るものは意外に大きい。

阿久津「▲2四馬から勝負に来られてもわかんなかったっすね。香車・・・。角(馬)を取らせてから(盤上中央の)あの2枚の桂馬を取りに来るとか。いや、ちょっとなんか、自然にというか。ちょっと一瞬よくなったかと思ったんですけど、読んでみるとあまり自信なかったですね。自信ない時間が多かったと思います」

 局後の検討が両者ともに顔に笑みを浮かべながらなごやかにおこなわれていました。要するに、両者ともに自信の持てない難しい中盤だったようです。

里見「これ(2四歩)取るか迷ったんですけど。でも香(を打たれて)あまり自信なかったんですよね」「(自陣が)薄くなるのでやりにくかったんですけど」「現実的にやっぱり馬を残した方がと思ってしまったんですけど」

 里見女流五冠は決戦ではなく、息の長い順を選びます。

 評価値上は阿久津八段がはっきりリードしていました。阿久津八段自身は容易ではないと見ていたようです。互いに辛抱しあって、じっと自陣の整備に手をかけます。

阿久津「お互いに苦しんでるかな、というか。うーん、チャンスはどっちもあったというか。落ち着いて少し指せそうな感じになったんですけど。なんか(中央に)玉移動したあたりとか、もう少しうまくまとめる手はあったかもしれないですけど。まあでも、向こうもけっこう手段が多かったんで。それはどちらにも言えるかなと思いました」

 将棋で重要なのは我慢することと、よく言われます。本局は達人同士による我慢比べが続きました。

イナズマ炸裂の可能性はあった

 終盤に入ると、阿久津八段が優位を築いたようにも見えました。しかし里見女流五冠も手段を尽くして追い込み、勝負形に持ち込みます。

阿久津「ちょっとなんか自信ない終盤戦かな、とは思ってたんですけど。ただけっこう、△2六歩、△2五歩が回ってごちゃごちゃしてきたんで。振り飛車も勝つ手順はけっこうまあ難解・・・。難解な終盤。ちょっと負けかもしれないですけど。かなり難しくはなったかなと思いました」

里見「よくなった局面もあったと思ったんですけど。そこでちょっと焦りすぎたというか。もう少しゆっくり指すつもりだったんですけど。ちょっと、そうですね。うーん・・・。まあでも、実力不足かなと思います」

 125手目。一手を争う終盤で、残り時間は里見2分、阿久津3分。阿久津八段は歩を打って攻め合うか。それともじっと銀で自陣のと金を取り払うか。

佐藤紳哉「AIは△6二銀と言ってますけれど、△6二銀は絶対に指せないです」「△2△2六歩負けだとキツいっすよ」

 解説の佐藤紳哉七段は、そう語っていました。コンピュータ将棋ソフトが示す最善手は受け。しかし人間の実戦心理として、短時間の中、そう指すのは難しそうです。

 阿久津八段は1分を使います。そしてと金を取りました。これはさすがという場面です。もし受けずに攻め合いに出れば、たちまち「出雲のイナズマ」が炸裂していたでしょう。阿久津玉には二十数手の長手数ながら詰みが生じていました。そう簡単ではない詰み筋を、里見女流五冠は感想戦でたちどころに指摘しています。

 両者秒読みの熱い最終盤。阿久津玉が広い方に逃げ越す形となりました。そこで寄せを継続する手段はあるか。

 131手目。里見女流五冠は馬取りに、タダのところに金を打ち捨てる勝負手を放ちました。驚きの一手。しかし実戦の勝負の上では、ここではっきりしたようです。同じタダの場所でも7筋ではなく、一路右の6筋に打てばどうだったか。

阿久津「見えてなかった」

 里見女流五冠はその筋が見えていたのに、指せなかった。そこはまさに指運(ゆびうん)の場面だったのでしょう。正確に指し続ければ阿久津八段が勝ちそうですが、まだアヤはあったかもしれません。

 阿久津八段は自玉が捕まらない形にしたあと、里見玉を即詰みに討ち取ります。

 

記録「50秒、1、2、3」

里見「負けました」

 里見女流五冠が右手を駒台に添えながら投了を告げ、阿久津八段も一礼。大熱戦に幕が下ろされました。

阿久津「里見さんもけっこう・・・私の気づかないというか、けっこううまい辛抱する手順をけっこう選ばれたりして。自信ない時間が多かったですね。お互いによく辛抱するような将棋になって。ちょっといろいろ、二転三転してそうな」「我慢するところはしっかり時間も使って我慢されてたんで。別になんかその、女性と指してるとか、そういう感じじゃなくて。普通になんかしっかり丁寧に指されてて。何度も負けたかな、と思う局面もあったんで。やる前はあれですけど、対局中は別に気にならなかったですね」「(3回戦は豊島将之九段)豊島さんもすごい活躍してて忙しい方なんですけど。最近はだいぶ負かされてるんで、一生懸命やれればと思います」

里見「自分の力を出し切れたんですけど、課題も見つかったので、そのあたり、修正できるようにがんばりたいと思います。(棋王戦は)持ち時間が長くて、けっこうまあ、貴重な経験というか。強い先生とたくさん指せたので、今後に活かせれたらなと思います」

 終局直後、両者はそう振り返りました。感想戦は約1時間。

阿久津「いや、ちょっと難しくてよくわからなかった」

 この日、何度も聞かれた言葉で、感想戦も締められました。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

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