開き矢倉VS金矢倉 棋聖戦二次予選▲高見泰地七段-△羽生善治九段戦始まる
12月22日10時。東京・将棋会館において第92期ヒューリック杯棋聖戦二次予選▲高見泰地七段(27歳)-△羽生善治九段(50歳)戦が始まりました。
対局がおこなわれるのは将棋会館5階の特別対局室。隣りには高橋道雄九段-富岡英作八段戦(王将戦一次予選、持ち時間各3時間)が配されています。
本局は窓側。羽生九段は上座に着き、ペットボトルから紙コップに温かいお茶を注いで、口にしました。
羽生九段の棋聖通算16期というのはすでにおそるべき成績です。もしここにあと1期加わると、大山康晴15世名人、中原誠16世名人を引き離して、歴代単独トップの記録となります。
9時55分頃、高見七段が姿を見せます。後ろ髪が少し跳ねているようにも見えました。
高見七段は前期初めて本戦(決勝トーナメント)に進出。2回戦で永瀬拓矢二冠(現王座)に敗れました。
高見七段は同世代の永瀬王座を苦手としています。タイトル経験のある実力者同士でも、不思議と星が片寄る例はあります。
羽生九段、高見七段ともに駒を並べ終わったあと、記録係が振り駒をします。「と」が3枚出て、高見七段先手と決まりました。
定刻10時。
記録係「それでは時間になりましたので、高見先生の先手番でお願いします」
両対局者は一礼して、対局が始まりました。
前回の両者の対戦では、後手番となった羽生九段は四間飛車に振りました。
本局、羽生九段は2手目に飛車先の歩を突き、居飛車で臨みます。戦型は相矢倉となりました。
22手目。羽生九段は三段目に右側の金を上げます。「金矢倉」と呼ばれるオーソドックスな形です。
27手目。高見七段は対照的に、左側の金を上がりました。
1940年の第2期名人戦七番勝負第3局(千日手再々指し直し局)。土居市太郎八段(後に名誉名人、1887-1973)は角換わりでこの形に組んで、熱戦の末に木村義雄名人に勝ちました。その際のインパクトが大きいためか、近年ではいつからか、この形は「土居矢倉」と呼ばれるようになっています。
真部一男九段(1952-2007)は「開(ひら)き矢倉」の名を提唱していました。
開き矢倉(土居矢倉)はその名の通り、金が横に開いてバランスを重視。近年はコンピュータ将棋ソフトの影響で、堅さではなくバランス回帰のトレンドが生じました。高見七段はこの形をいち早く採用し、流行のきっかけを作っています。
羽生九段が7筋から歩をつっかけたのに応じて、高見七段は自玉の上部から盛り上がっていきます。
42手目。羽生九段は金矢倉に玉を入城しました。羽生九段は堅さ、高見七段はバランスと玉頭の厚みが主張点なのでしょう。
高見七段はすぐに次の手を指さず、そのまま昼食休憩に入りました。
本局の持ち時間は各3時間(60秒未満切り捨てのストップウォッチ方式)。昼食休憩(12時0分-40分)をはさんで、通例では夕方頃に終局します。
高見七段は石田和雄九段門下。羽生九段は竜王戦1組1回戦で、同じ石田門下の若手俊英である佐々木勇気七段とも対戦します。