将棋界では弟子が師匠に勝つことを「恩返し」と言うけれど、もっといい恩返しの仕方はあるという話
将棋界では棋士を目指し、その養成機関である奨励会を受験する際には、師匠が必要となります。弟子が晴れて四段に昇段し、棋士となった場合には、師匠と対戦することもあります。
将棋界では、弟子が師匠に勝つことを一般的に「恩返し」と言ってきました。これは相撲界の例にならったようです。
相撲界では本場所で同門の力士が当たることは、特別な場合をのぞいてはありません。ましてや師匠は現役を引退している親方ですので、もちろん当たることはありません。
一方で、囲碁・将棋界では、師弟が負けずに勝ち進んだ場合には、どこかで当たることになります。
将棋界の規定では、師弟戦は次のように定められています。
以上、いくつかの細かい規約はありますが、将棋界ではたとえ師弟の関係であっても、真剣勝負がおこなわれます。これは将棋界のいいところです。
「師匠の立場として弟子の成長はもちろんうれしい。しかしたとえ弟子が相手であろうと、負ければ一人の棋士として悔しいし、現実に失うものはある。だからそういう意味での『恩返し』はうれしくない」
そんな趣旨の言葉を、筆者は何人かの棋士から聞いたことがあります。そうした点では、現在使われている意味での「恩返し」という言葉は、やや実態にそぐわないのではないか、という印象を受けます。
最近の師弟戦で有名になったのは、2018年3月8日におこなわれた王将戦一次予選、杉本昌隆七段(現八段)と藤井聡太六段(現七段)の一戦でしょう。
結果は千日手指し直しの末に、弟子の藤井六段が勝ちました。そしてニュース記事やテレビのワイドショーでは大きく「恩返し」として伝えられています。主催紙である「毎日新聞」では次のような記事が掲載されました。
同郷の愛知県出身である杉本八段と藤井七段の師弟関係は、特別に強いものであることはよく知られています。将棋を指すことはほとんどない、という師弟が多い中で、杉本八段は幼少時から藤井七段の指導をし、長じてからは多くの練習対局を重ねる間柄でもありました。
師弟戦以前、藤井七段がデビューして間もない頃に、筆者は杉本八段に「恩返し」についての本音を尋ねたことがあります。
「そういう恩返しはいらんです」
杉本八段はそう言って苦笑していました。改めて公式戦で対戦して確かめるまでもなく、杉本八段は藤井七段の強さを誰よりもよく知る人でした。杉本八段の本音は、羽生善治九段などの超一流棋士に勝ってくれることが、本当の恩返しということでした。
杉本八段は羽生九段との対戦成績は0勝6敗です。一方で弟子の藤井七段は、現在までのところ羽生九段に2勝0敗。杉本八段が望む形で、藤井七段は恩返しをしつつあるようです。
深浦康市九段も、弟子の佐々木大地五段には同様のことを思っているようです。
12歳で長崎から上京した深浦康市九段が、愛弟子・佐々木大地五段に何よりも望む「恩返し」(文春オンライン)
2011年。井上慶太九段は弟子の菅井竜也七段に公式戦2回目の対戦で敗れた後、こう言ったそうです。
菅井七段は2017年の王位戦七番勝負で羽生王位に挑戦。4勝1敗で羽生王位を降し、平成生まれとして初のタイトルホルダーとなっています。
青野照市九段は著書『「観る将」もわかる将棋用語ガイド』において、次のように述べています。
「師匠に勝つのでなく、師匠が勝てなかった相手に勝ったり、師匠が到達しなかった地位(タイトル等)に達したとき、『すべて師匠のおかげです』というのが、本当の恩返しであろう」
多くの師匠の実感は、こちらの側にあるのではないでしょうか。