Yahoo!ニュース

将棋界では弟子が師匠に勝つことを「恩返し」と言うけれど、もっといい恩返しの仕方はあるという話

松本博文将棋ライター
(画像撮影:筆者)

 将棋界では棋士を目指し、その養成機関である奨励会を受験する際には、師匠が必要となります。弟子が晴れて四段に昇段し、棋士となった場合には、師匠と対戦することもあります。

 将棋界では、弟子が師匠に勝つことを一般的に「恩返し」と言ってきました。これは相撲界の例にならったようです。

おんがえし【恩返し】

相撲界独特の表現で、稽古で胸を借りた先輩力士に本場所の土俵で勝つこと。そのように勝つことを「恩を返す」という。

出典:金指基『相撲大事典』第4版

 相撲界では本場所で同門の力士が当たることは、特別な場合をのぞいてはありません。ましてや師匠は現役を引退している親方ですので、もちろん当たることはありません。

 一方で、囲碁・将棋界では、師弟が負けずに勝ち進んだ場合には、どこかで当たることになります。

 将棋界の規定では、師弟戦は次のように定められています。

第2章 総則 第8条 公式棋戦規約

各公式棋戦の抽選・実施にあたっては、次のような規約が定められている。

A.師弟戦

1.トーナメント戦においては、一次予選の1回戦の師弟戦は行わない。

 ただし、二次予選や本戦の1回戦はこれには該当しない。

2.B級2組以下の順位戦においては師弟戦は行わない。

3.A級・B級1組の順位戦においては、師弟戦はリーグの中間で行う。

4.各順位戦の最終局には、兄弟弟子同士の対局は行わない。

5.その他のリーグ戦においても、最終局に師弟戦は行わない。

出典:日本将棋連盟 対局規定(抄録)

 以上、いくつかの細かい規約はありますが、将棋界ではたとえ師弟の関係であっても、真剣勝負がおこなわれます。これは将棋界のいいところです。

「師匠の立場として弟子の成長はもちろんうれしい。しかしたとえ弟子が相手であろうと、負ければ一人の棋士として悔しいし、現実に失うものはある。だからそういう意味での『恩返し』はうれしくない」

 そんな趣旨の言葉を、筆者は何人かの棋士から聞いたことがあります。そうした点では、現在使われている意味での「恩返し」という言葉は、やや実態にそぐわないのではないか、という印象を受けます。

 最近の師弟戦で有名になったのは、2018年3月8日におこなわれた王将戦一次予選、杉本昌隆七段(現八段)と藤井聡太六段(現七段)の一戦でしょう。

 結果は千日手指し直しの末に、弟子の藤井六段が勝ちました。そしてニュース記事やテレビのワイドショーでは大きく「恩返し」として伝えられています。主催紙である「毎日新聞」では次のような記事が掲載されました。

棋士の間では、師匠に弟子が勝つことを「恩返し」と言うことがある。終局後のインタビューで杉本七段は、自身の師匠である故板谷進九段のことを思い出しながら、「師匠は私がプロになる前の19歳のときに亡くなり、公式戦での対局はかなわなかった。形を変えて、師匠という立場だが藤井六段と対戦できたのはうれしかった」と、目を潤ませていた。

出典:「毎日新聞」2018年3月9日大阪朝刊

 同郷の愛知県出身である杉本八段と藤井七段の師弟関係は、特別に強いものであることはよく知られています。将棋を指すことはほとんどない、という師弟が多い中で、杉本八段は幼少時から藤井七段の指導をし、長じてからは多くの練習対局を重ねる間柄でもありました。

 師弟戦以前、藤井七段がデビューして間もない頃に、筆者は杉本八段に「恩返し」についての本音を尋ねたことがあります。

「そういう恩返しはいらんです」

 杉本八段はそう言って苦笑していました。改めて公式戦で対戦して確かめるまでもなく、杉本八段は藤井七段の強さを誰よりもよく知る人でした。杉本八段の本音は、羽生善治九段などの超一流棋士に勝ってくれることが、本当の恩返しということでした。

 杉本八段は羽生九段との対戦成績は0勝6敗です。一方で弟子の藤井七段は、現在までのところ羽生九段に2勝0敗。杉本八段が望む形で、藤井七段は恩返しをしつつあるようです。

 深浦康市九段も、弟子の佐々木大地五段には同様のことを思っているようです。

12歳で長崎から上京した深浦康市九段が、愛弟子・佐々木大地五段に何よりも望む「恩返し」(文春オンライン)

 2011年。井上慶太九段は弟子の菅井竜也七段に公式戦2回目の対戦で敗れた後、こう言ったそうです。

「師匠への恩返しはこんなんちゃうで。わしが勝てん相手に勝つのが恩返しやから」

出典:菅井竜也「NHK杯戦で感じた師・井上慶太九段の恩」

 菅井七段は2017年の王位戦七番勝負で羽生王位に挑戦。4勝1敗で羽生王位を降し、平成生まれとして初のタイトルホルダーとなっています。

 青野照市九段は著書『「観る将」もわかる将棋用語ガイド』において、次のように述べています。

「師匠に勝つのでなく、師匠が勝てなかった相手に勝ったり、師匠が到達しなかった地位(タイトル等)に達したとき、『すべて師匠のおかげです』というのが、本当の恩返しであろう」

 多くの師匠の実感は、こちらの側にあるのではないでしょうか。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

松本博文の最近の記事