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MF松原有沙がノジマステラとなでしこジャパンに刻んだ足跡。闘病の先に見据える指導者のキャリア

松原渓スポーツジャーナリスト
松原有沙(写真:松尾/アフロスポーツ)

 168cmの長身と、日本人離れしたパワー。ハーフウェーラインから軽い一振りで強烈な弾道をゴールまで飛ばせるキックと展開力――。

 WEリーグ・ノジマステラ神奈川相模原のMF松原有沙が、6月10日のWEリーグ最終節を最後に、ユニフォームを脱いだ。

 攻守の大黒柱として5シーズン、N相模原を牽引してきたが、昨年12月以降はベンチ入りせず、スタンドからチームを見守る日々が続いていた。

 そして、今年3月に「多発性内分泌腫瘍症1型」と診断されたことを公表。復帰時期は未定となっていた。ジョギングをしたり、ボールを蹴ったりすることはできたが、リリースの2カ月後に引退を発表。決断は早かった。

「いつも励ましてくれる仲間がいて、『またプレーが見たい』と言ってくれる人がいて、みんなが頑張っている姿を見て、自分も頑張ろうと思うことができました。これからは選手としてではなく、指導者としてまたサッカーに関わりたいと思い、引退を決断しました。病気のリリースの後、たくさんの人からメッセージをもらっていた中で、こうなってしまい、申し訳ありません」

引退セレモニーで感謝を述べた
引退セレモニーで感謝を述べた

 最終節の広島戦(0-2で敗戦)では、試合後の引退セレモニーでサポーターの前に立ち、感謝の言葉を紡いだ。顔は笑っていたが、頬を伝う涙は止まらなかった。

「これからは病気を治すことから始まりますが、その後は指導者としてサッカーに関わり続けたいと思っています。また元気な姿で、皆さんに会えることを楽しみにしています」

 スタジアムの撤収が進み、静かになったスタジアムの隅で最後の取材をした。松原は穏やかな口調で、この3カ月間に起きたことをゆっくりと回想した。

「病気はどうにもできないし、自分では何も変えられないので、今後のことを考えるようになりました。もともと指導者に興味があったので、これが自分の運命だと思って前に進もうと考えてからは、スッキリしました。最後の2カ月間、チームにプレーで貢献できないので、オフザピッチで地域貢献や運営などに関わらせてもらい、『たくさんの方の支えがあるからいい環境でプレーできていたんだ』と身をもって感じました。心は難しい部分もありましたが、そういうことを選手の立場で経験させてもらったことはすごく良かったです」

 今年の5月に28歳になったばかり。指導者としてのキャリアへ、新たな一歩を踏み出した。

【激動の5シーズン】

 松原が選手として頭角を現したのは、大商学園高校時代だ。年代別代表にも選ばれていた。その動向を、N相模原の菅野将晃監督は高校時代から追い続けてきたという。

「高校生で、こんなキックできる選手がいるんだと驚きました。トップリーグでもこれだけのキックをできる選手はいなかったし、規格外の選手なのにボールタッチも柔らかくて。絶対に(ノジマ)ステラに欲しい選手だと思いました」

国内随一のキック力だった
国内随一のキック力だった写真:松尾/アフロスポーツ

 だが、松原自身は高卒でのなでしこリーグ入りを選択せず、早稲田大学へ進学。学業と両立させながら、2年次から全日本大学女子サッカー選手権大会で3連覇を果たし、同大学の黄金期を築いた。そして2018年、菅野監督の熱いアプローチが実ってN相模原に加入。そこからは「あっという間の5シーズンでした」と松原が振り返るように、まさに激動だった。

 加入当初、「スピード感が違って、ついていけるか不安です」と案じていたことは杞憂に終わる。1年目からボランチでほぼフル出場し、1部昇格2年目でリーグ3位に貢献したのだ。この年の快進撃が、クラブ創設以来の最高成績となっている。

 ゴールまで30m以上ある距離からロングシュートを放つ場面が、1試合に一度はあった。強烈な弾道や飛距離で会場を沸かせていたが、「あれぐらいがちょうどいい距離なんです」と、にこやかに話していた。おおらかで飾り気がなく、社交的なキャラクターも、チームに溶け込む上では大きかったはずだ。

 同年末には、なでしこ入りを目指す選手たちの「チャレンジ合宿」に呼ばれ、以降はコンスタントに代表入り。欧米の列強との対戦ではボランチに限らず、センターバックで起用されることも。海外勢に負けない空中戦の強さや展開力を示した一方、課題だったパス精度や判断スピードと向き合い続けた。

代表でコンスタントに候補入りした
代表でコンスタントに候補入りした

 2019年のフランスワールドカップは、メンバー入りまであと一歩というところで落選。だが、大会後も継続して招集され、同年12月の東アジアE−1選手権では代表初ゴールを挙げた。

「ワールドカップにいけなかったことは、今までのサッカー人生の中で一番悔しかったです。代表の試合を外から見て、あの場所に立ちたい、という思いはさらに強くなりました」(2019年12月、E-1選手権)

 飛躍のルーキーイヤーを経て、2年目は野田朱美監督、3年目から4年目にかけては北野誠監督の下でプレー。異なるサッカー哲学や戦術に触れ、代表が高倉麻子前監督体制から池田太監督体制に変わってからも、候補入りした。

 菅野監督が復帰し、キャプテンとして2年目となった今季は、ピッチ内外で大黒柱としての責任感も漂わせていた。病気が発覚したのは、そんな矢先のことだった。

昨季からキャプテンとしてチームを牽引してきた
昨季からキャプテンとしてチームを牽引してきた

「あんなスケールの大きなプレーをするのですが、本当に気の優しい選手で、優しすぎるぐらいでしたから。体調の問題もある中で、今季の苦しいチームをなんとか支えなければいけないという気苦労もあったと思います。その中で『クラブに貢献したい』ということで(運営など)様々なことをやってくれたのは、人間性としての松原の素晴らしさかなと思います」(菅野監督)

 チームは4月以降勝利から遠ざかり、苦しんだ。松原もまた、サッカーへの滾(たぎ)る思いやキャプテンとしての責任感と葛藤し、苦しみ抜いた。そして、ピッチで表現できない代わりに運営や社会貢献など、“サッカーだけではない”プロの姿勢を全力で示した。

【指導者としての未来】

 指導者としては、当面は育成に関わることを希望しているという。大学で教員免許を取り、積極的にスクールなどで教えていたこともあるというから、教えるのが「好き」なだけでなく、そのためのベースもある。

「自分がWEリーガーとしていろいろな経験をさせてもらったことを伝えたいですし、子供たちに純粋にサッカーを楽しんでほしいので。今の自分だったら、それが伝えられるんじゃないかなと思いました」

 プロとして、代表まで上り詰めた経験と技術を伝えられる選手は一握りだ。病気を克服して新たなキャリアを切り開くエネルギーを蓄え、再び元気な姿を見せてほしい。

 そしていつか、松原のようにプレーのスケールが大きく、懐の深い選手を育ててほしいと願っている。

*表記のない写真は筆者撮影

スポーツジャーナリスト

女子サッカーの最前線で取材し、国内のなでしこリーグはもちろん、なでしこジャパンが出場するワールドカップやオリンピック、海外遠征などにも精力的に足を運ぶ。自身も小学校からサッカー選手としてプレーした経験を活かして執筆活動を行い、様々な媒体に寄稿している。お仕事のご依頼やお問い合わせはkeichannnel0825@gmail.comまでお願いします。

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