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トラス前首相を辞任に追い込んだ「トラスノミクス」の大誤算(下)

増谷栄一The US-Euro Economic File代表
新首相に就任したスナク元財務相(左)とハント財務相=英スカイニュースより

英保守党のマーガレット・サッチャー元首相(在任期間1979-1990年)の急進的な経済政策であるサッチャリズムはケインズ経済学とは一線を画し、民営化を推進するための規制緩和と所得税と法人税の大規模減税を柱とした新自由主義経済学に分類される。米国のノーベル賞経済学者でコラムニストとして著名なポール・クルーグマン氏(現在、ニューヨーク市立大学大学院教授)のようなケインズ派の経済学者から見れば、サッチャリズムを踏襲したトラスノミクス(トラス前首相の成長ダッシュ戦略)は、馬鹿げた政策だと言うことになる。

クルーグマン氏はトラスノミクスを痛烈批判したが、一方、ジョージ・メイソン大学のタイラー・コーウェン教授(経済学)は9月26日の米経済通信社ブルームバーグのコラムで、「トラスの成長ダッシュ計画が英国の経済成長率を大幅に押し上げるとは確信していないが、そのような厳しい評価に反対だ」とした上で、「市場が英国の債務返済能力を疑い始めているという証拠はない。英国政府はマイナス2%程度の実質金利(国債利回りとインフレ率の差)で借り入れを行っている。減税により、富裕層の投資家はより高い期待リターンを享受できるようになる。政治は別として、これは経済的災害を引き起こさない。デフォルトに向かっている国とは思えない。また、英国の政府債務の水準も特に高いわけではない」とトラスノミクスを擁護した。

経済専門のコラムニストのマシュー・リン氏も9月26日付の英紙デイリー・テレグラフで、「クルーグマン氏は『私はゾンビ経済学を受け入れていることを軽蔑するが、迫り来るポンド危機に関するすべての話に困惑している。私が知る限り、変動為替レートの国が通貨危機に陥る方法は2つあるが、英国はどちらにも当てはまらない』と言っている。クルーグマン氏が指摘するように、英国の負債はポンド建てなので、返済できるかについて疑問はなく、銀行が赤字を収益化している兆候もない」とトラスノミクスを擁護。その上で、「トラス氏を追い出すのは有権者であり、市場ではない」と市場の力に反旗を翻す。

また、リン氏はテレグラフ紙の10月14日付コラムで、「(スナク新首相の財政緊縮政策により)低税率でビジネスに寄り添うという英国の夢は今後10年間、実現されないだろう。英国経済は今、長期にわたる停滞と麻痺に直面している。市場は今のところそれ(財政緊縮)を好むかもしれないが、中期的にはそれは壊滅的な失敗になる」と言い切る。

他方、英国の外為・CFDトレーディング大手マーケッツ・ドット・コムのニール・ウィルソン氏は10月20日の英紙ガーディアンで、「スナク氏かハント氏が(首相に)就任すれば、財政抑制を意味する。市場は伝統的な一国保守主義を求めている」と主張。市場はトラス氏が追求した、サッチャリズムの新自由主義経済には否定的だという。一国保守主義の根本は社会保障と経済政策の両立。これは貧困層への経済支援の一方で、経済学に基づいた経済政策を進めることを意味し、貧困層に対しては減税よりも社会保障政策が有効で、富裕層への大規模減税は貧富格差を拡大するため、一国保守主義の伝統的な考え方に反する。

英国の金融市場は金融政策の間違いが市場の混乱に直結しやすい傾向がある。トラス氏の辞任に追いやった市場の力について、テレグラフ紙の経済コラムニストのアンブローズ・エヴァンス・プリチャード氏は9月27日付コラムで、「英国は日本ではない。政府の財政資金をカバーするための大きな国内貯蓄を持っていない。構造的な経常収支の赤字(GDPの4%)を抱えているため、為替レートを安定させるためには、アジアの政府系ファンドからの資本流入やイングランド銀行(英中央銀行、BOE)による資産買い入れ、世界の年金基金からの絶え間ない資本流入に依存している」と指摘する。

スナク新首相は11月17日に中期財政計画を盛り込んだ、秋の予算案を発表する予定だが、市場の混乱を避けるにはどこまで緊縮財政を貫けるかがカギとなっている。トラス前首相はクワーテン財務相の更迭後、ハント氏に救援を求め、「ミニバジェット」で示された大規模減税の大半を撤回、2027/2028年度で予想される720億ポンド(約12兆円)の財政赤字の一部を埋めたが、まだ350億-500億ポンド(約6-8兆円)の穴を埋めなければならない。

また、もう一つの問題は、国民年金のトリプルロック問題だ。トリプルロックは年金支給額を消費者物価指数と賃金の上昇率、2.5%の3つのいずれかのうち、最も高い上昇率に合わせて年金を引き上げることだが、9月のインフレ率が前年比10.1%上昇となったため、これで年金を引き上げた場合は、年間110億ポンド(約2兆円)の支出増となる。賃金の上昇率は5.5%なので56億ポンド(約9300億円)の節減が可能。この財源をどうするかについては説明できなければ、国債増発懸念で市場が再び暴落する可能性がある。

経済危機に苦しむ英国の経営者からは、トラスノミクスをめぐる首相辞任、労働党を中心とする野党連合が総選挙の実施を叫ぶたびに、「シルク・ド・ソレイユのような政治のサーカスショーはもうゴメンだ」と言う声が聞かれる。(了)

The US-Euro Economic File代表

英字紙ジャパン・タイムズや日経新聞、米経済通信社ブリッジニュース、米ダウ・ジョーンズ、AFX通信社、トムソン・ファイナンシャル(現在のトムソン・ロイター)など日米のメディアで経済報道に従事。NYやワシントン、ロンドンに駐在し、日米欧の経済ニュースをカバー。毎日新聞の週刊誌「エコノミスト」に23年3月まで15年間執筆、現在は金融情報サイト「ウエルスアドバイザー」(旧モーニングスター)で執筆中。著書は「昭和小史・北炭夕張炭鉱の悲劇」(彩流社)や「アメリカ社会を動かすマネー:9つの論考」(三和書籍)など。

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