11年前の殺人 なぜ逆転無罪

(GYRO PHOTOGRAPHY/アフロ)

 4月24日、東京高裁は、2008年に東村山市のアパートで隣室の老婦人(当時73)を殺害して一審で有罪とされた女性被告人(61)に対し、無罪判決を言い渡した。これまでの経過や問題点、今後の見込みは――。

【第一発見者は10歳の孫娘】

 2008年10月、小学校から帰ってきた被害者の孫娘(当時10)は、被害者が台所で横向きに倒れ、首や胸などから血を流して死亡しているのを発見した。連絡を受けた友達の母親が現場に駆けつけて通報し、警察の捜査が始まった。

 このアパートには被害者の長男とその子である小5の女児、小1の男児が3人で生活しており、近くでひとり暮らしをしていた被害者が母親代わりとして二人の孫の世話などをしていた。この日も被害者は、息子が出勤したあと、アパートを訪れ、午前7時半ころには2人の孫を小学校に送り出していた。

【捜査は難航】

 司法解剖の結果、死因は失血死で、首や胸、腕など数カ所に刃物によるものとみられる切り傷や刺し傷があることが判明した。

 一方、被害者のそばにあったバッグには現金やカードが手付かずのまま残されており、室内も物色されたり争ったりした痕跡はなかった。凶器は発見されず、犯人のものと思われる指紋や足跡なども検出されなかった。

 そこで警察は、怨恨などに基づく顔見知りによる用意周到な計画的犯行と見て、交友関係を中心に洗い出しを続けた。

 隣人である被告人も警察から事情を聴かれたものの、「一日中家にいたが、物音などは聞こえなかった」と供述して関与を否認した。取材にやってきたマスコミにも、同様の説明をしていた。

 被害者は怨恨説など成り立ちにくいほどの好人物だったため、捜査は難航を極めた。被害者の薬指の爪の間から犯人のものとみられる微物が採取されていたものの、この当時の技術ではDNA型も特定できなかった。

 2009年には東村山駅前などで情報提供を求めるチラシを配布したが、有力な情報は得られず、迷宮入りの気配が濃厚となった。

【急展開】

 2016年からは、警視庁捜査一課で「コールドケース」、すなわち長期未解決事件に専従する特命捜査対策室が担当となった。

 ここで事件記録などの洗い直しが行われ、2016年6月、先ほどの微物を最新の技術で鑑定したところ、被告人のDNA型と一致することが判明し、事態は急展開を見せた。

 被告人に精神科への入院歴があったことから、警察は慎重に捜査を進めたうえで、2017年4月にその取調べに踏み切った。

 被告人は当初、「隣の部屋には行っていない」と供述して関与を否認していたが、1週間後には関与を認め、自宅にあった凶器のペティナイフを提出し、殺人の容疑で逮捕された。

 しかし、被告人は、逮捕後の取調べで次のように供述した。

「事件前に『人を殺せ』という幻聴が聞こえた」

「被害者とは面識がなかった」

「誰でもいいから殺したかった」

 そこで検察は、被告人の勾留後、約2か月にわたって鑑定留置をし、専門医による精神鑑定を経たうえで、2017年7月、刑事責任を問えるとして殺人罪で起訴した。

【責任能力とは】

 裁判では、もっぱら被告人の犯行当時の責任能力が争点となった。

 というのも、刑法に次のような規定があるからだ。

心神喪失者の行為は、罰しない」(39条1項)

心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」(39条2項)

 「心神喪失」とは、精神の障害によって善悪の判断をする能力またはその判断にしたがって行動をする能力が失われている状態を、「心神耗弱(こうじゃく)」とは、そうした能力が著しく障害されている状態をいう。

 こうした規定に違和感を覚える方も多いだろう。しかし、近代刑法は結果責任からの脱却を図っており、たとえ刑罰法令に触れる行為があっても、非難できない一定の事由があれば責任を問えず、刑罰も科せないという「責任主義」を基本原則としている。「心神喪失=不可罰・無罪」という規定は、その典型例だ。

【「原因において自由な行為」】

 そうすると、犯行の前にあえて覚せい剤を使用したり大量に飲酒し、自らを精神錯乱とし、心神喪失の状態にしたうえで犯行に及べば、無罪放免が狙える、と思う方もいるのではないか。

 しかし、刑事司法の実務はそこまで甘くなく、それでも完全な責任能力があったとして処罰される。

 もともと善悪の判断能力やこれにしたがって行動をする能力があったわけで、にもかわらず自らの自由な意思で犯行を決意し、覚せい剤の影響下で実行に移すことにし、現に犯行の原因となる覚せい剤の使用に及んでいるからだ。

 ドイツの刑法理論を参考にしたもので、「原因において自由な行為」と呼ばれる考え方だ。

 たとえ酒酔い運転のときに酩酊していたとしても、飲酒の時点で酒酔い運転をする意思があった以上は処罰されるというのがその典型だ。

 民事上の損害賠償責任に関するものではあるが、民法にも次のような規定がある。

「精神上の障害により自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態にある間に他人に損害を加えた者は、その賠償の責任を負わない。ただし、故意又は過失によって一時的にその状態を招いたときは、この限りでない」(713条)

 しかし、この事件は被告人が犯行前に犯行に及ぶために覚せい剤を使用したといった事案ではないため、「原因において自由な行為」の論法は使えない。

 弁護人の主張も「27歳から31歳までの5年間、覚せい剤を乱用していた影響で、その後、精神に障害を抱えていた。事件当時も『人を殺せ』という幻聴や妄想に支配されていたわけで、心神喪失にあたる」というものだった。

 これに対し、検察は「そうした幻聴を聞くなどしても、すぐには行動を起こしていない。自らの行動を制御する能力はあった」と主張し、懲役13年を求刑した。

【7つの視点】

 責任能力の有無や程度の認定に関する最高裁の判例は、次のようなものだ。

(a) 法律判断であり、もっぱら裁判所に委ねられる。その前提となる生物学的、心理学的要素についても、究極的には裁判所の評価に委ねられる。

(b) ただし、専門家たる精神科医の意見が鑑定等として証拠となっている場合には、鑑定人の公正さや能力に疑いが生じたり、鑑定の前提条件に問題があったりするなど、これを採用し得ない合理的な事情が認められるのでない限り、その意見を十分に尊重して認定すべき。

 こうした責任能力を判断するに際しては、次の7つの視点が重要だとされている。

(1) 動機が了解できるものか。

(2) 犯行は計画的なものか、あるいは突発的、偶発的、衝動的なものか。

(3) 本人が行為の意味や性質、反道徳性、違法性を認識していたか。

(4) 本人が精神障害によって免責される可能性を認識していたか。

(5) 元来ないし平素の人格と比較して犯行は異質なものか。

(6) 犯行に一貫性があったり、何らかの目的に合致しているか。

(7) 犯行後に自己防御や危険回避的な行動をとっているか。

 あくまで「視点」にすぎず、絶対的な「基準」ではないし、該当する数が多いからといって必ず責任能力があったとされるものでもないが、検察や裁判所、鑑定医も、こうした視点に立って責任能力を検討している。

【裁判所の判断は】

 2018年9月に東京地裁立川支部で行われた裁判員裁判は、心神耗弱だったと認定したうえで、懲役8年6月の有罪とした。

 幻聴に従って殺害を決意しているものの、返り血を浴びないように毛染め用のガウンを羽織ったり両足をポリ袋で覆うなど、発覚防止のための行動をとっていたからだ。

 これに対し、東京高裁は、2019年4月24日、この一審判決を破棄し、心神喪失だった疑いがあるとして、被告人に逆転無罪判決を言い渡した。

 先ほどの発覚防止策について、はたから見れば極めて異様で人目にもつきやすく、犯行に支障もあって不合理だし、あくまで幻聴による犯行決意後の行動であり、責任能力を認める事情にはならないとしたものだ。

 裁判で心神喪失が認定されて無罪となるのは極めてまれだ。そうしたケースだと、通常は検察段階で不起訴にしているからだ。

【今後の展開】

 さまざまな無罪判決のうち、心神喪失を理由とするものについては、真犯人と認定されなかったとか殺意が認定されなかったといったケースと比べ、検察内でも「致し方ない」といった発想に傾きやすい。

 心神喪失は刑法の規定に基づくものであるうえ、先ほど示したように、法律判断としてもっぱら裁判所に委ねられているというのが最高裁の判例でもあるからだ。

 特にこの事案で重要なのは、精神鑑定の結果などを踏まえ、検察ですらも被告人の事件当時の精神状態に問題があったことを認めていた点だ。

 それだけ微妙なケースだったということであり、上告して高裁の無罪判決を覆すことも困難とみられることから、このまま確定する公算が高い。

 もしそうなれば、「心神喪失者等医療観察法」に基づき、検察官が裁判所に申立てをし、最長3か月間の鑑定入院を経て、裁判官と精神保健審判員(精神科医)の各1名からなる合議体で審判が行われ、入院や通院といった具体的な措置が決められる。

 入院の場合、病状の改善のため、国公立の指定入院医療機関でおおむね18か月間ほど専門的な医療を受けることになる。裁判所の決定で継続も可能であり、退院にもその許可が必要だ。厚労省の資料によると、平均の入院処遇期間は951日だ。

 一方、遺族に対する民事上の損害や慰謝の措置だが、先ほど挙げた民法の規定の原則論により、被告人は賠償責任を負わなくてすむ。

 家族など被告人を監督する法定の義務を負う者が代わって賠償する必要があるが、その義務を怠っていなかったとか、たとえ義務を怠らなくても損害が生じた場合には免責される。

 国の「犯罪被害者給付金制度」に基づく遺族給付金の支給で救済することも考えられるが、最高でも3千万円を超えないし、被害者の収入や扶養状況などによって決まるので、無職で高齢者のひとり暮らしだと金額も期待できない。

 警察の支援を受けて事件直後に申請し、支給ずみであればよいのだが、やむを得ない理由がない限り、遺族は被害者の死亡を知った日から2年以内、死亡の日から7年以内に申請しなければならず、もしこれから申請しようとしても無理だ。

 遺族からすると、到底納得できないことだろう。(了)

1996年の検事任官後、約15年間の現職中、大阪・東京地検特捜部に合計約9年間在籍。ハンナン事件や福島県知事事件、朝鮮総聯ビル詐欺事件、防衛汚職事件、陸山会事件などで主要な被疑者の取調べを担当したほか、西村眞悟弁護士法違反事件、NOVA積立金横領事件、小室哲哉詐欺事件、厚労省虚偽証明書事件などで主任検事を務める。刑事司法に関する解説や主張を独自の視点で発信中。きき酒師、日本酒品質鑑定士でもある。

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15年間の現職中、特捜部に所属すること9年。重要供述を引き出す「割り屋」として数々の著名事件で関係者の取調べを担当し、捜査を取りまとめる主任検事を務めた。のみならず、逆に自ら取調べを受け、訴追され、服役し、証人として証言するといった特異な経験もした。証拠改ざん事件による電撃逮捕から5年。当時連日記載していた日誌に基づき、捜査や刑事裁判、拘置所や刑務所の裏の裏を独自の視点でリアルに示す。

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