塀の中の成人式 少年院で親が子どもに添える「ごめんね」の言葉

(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

テレビでは煌びやかな着物と鮮やかに彩られた頭髪で、カメラに向かって笑顔を向ける新成人たち。別のシーンでは、成人式でふさわしいとは言えない行動を取り、つかみ合いの喧嘩をする若者の姿があった。毎年のことである。

筆者はその二日前、東京都八王子市にある多摩少年院で開催された成人式に参加させていただいた。静寂に包まれた会場に、33名の新成人が入場してくる。スーツにネクタイ、背筋をピンと伸ばして行進するのは、成人式を少年院に収容されるなかで迎えた若者たちだ。

誰一人、会場で話をする者はいない。スマートフォンのマナーモードが震えることもない静かな会場では、「開会の辞」「国歌斉唱」「式辞」「来賓祝辞」という、全国の成人式でも行われることが多摩少年院においても、式次第通りに進んでいく。

すべての少年にスピーチの機会が与えられる

多摩少年院での成人式は、成人を迎えるすべての少年に「誓いのことば」と題してスピーチの機会が与えられる。ひとり一人が壇上にあがり、それぞれの言葉で言葉を紡いでいく。ほとんどの少年が反省や償い、後悔を口にする。そして、これまでの行いがどのようなものであれ、最後まで支えてくれた家族への感謝と出院後は身近な人間を幸せにできる人間への成長を誓う少年が多い。

その一方で、保護者などが座る場所には、新成人を迎えた少年たちの数に比べると少なく見えるご家族が並ぶ。最後まで自分を信じてくれる家族に恵まれなかった少年が、少年院にいる事実も見過ごしてはならない。

何人かの少年の言葉には、家族や友人など近しい存在がなく、成人後の未来を独力のみで切り開くこと、誰も助けてくれないのだという意味にとれる言葉も伺えた。もちろん、来賓席に座る保護司や教戒師、篤志面接員、更生保護女性会の方々のみならず、NPOやJクラブの関係者は、出院後の少年の更生自立に手を差し伸べる存在だ。

それでも少年院で迎えることになった成人式に、家族が来る少年とそうでない少年の心境はどれほどのものかを考えてしまう。家族が来ない少年のなかには、出院後の帰住先として、引き受け手としての家族はいない。10代、20代前半の少年にとって、物理的にも精神的にも支えてくれる家族がいないことは、彼らの更生自立にとって大きな壁である。

参考:誰が少年院に入院しているのか(工藤啓)- Y!ニュース

親から我が子への「ごめんね」の言葉

すべての親がそうではないが、少年院に収容される少年が育った家庭環境は厳しい。現場の法務教官からも、経済面のみならず、養育面での環境の厳しさについて話を聞く機会も多い。

次第の「お祝いの言葉」では、家族が持ち寄った少年の幼少期を映した一枚の写真をスライドで投影していく。家族に囲まれた少年が生まれたばかりの写真もあれば、きょうだいと遊具で遊ぶ姿、おどけて笑いを誘っているように見える振る舞いを映したものなどが次々と流れていく。

少年も親も、十数年後の成人を少年院で迎えるとは思ってもいなかっただろう。実際にそのような言葉も多々あった。スライドショーに添えられた言葉には、母親として出産時に不安であったこと、それでも一生懸命育てようと思ったこと。

忙しい日々の生活で、保育園へのお迎えも一番最後。それでもその日あった出来事を笑顔で教えてくれた息子の姿に感じた喜び。そして、我が子と十分な時間を取り、機会を与えてあげられなかったことへの「ごめんね」の言葉。

そんな我が子と迎える成人式が少年院であることが、それぞれの親にとってどのようなものであるのか想像し難いが、その言葉には少年院で保護されていることに感謝すること、現実を受け入れることを願い、それでもあなたは家族にとってかけがえのない存在であることを伝えるものであった。

今年の成人式、少年が「合唱」として歌ったのは、かりゆし58の「アンマー」であった。その歌詞を見ながら聞いているご家族の目、そして歌っている少年の目には涙が流れていた。それぞれの少年の誓いと流した涙が、出院後の彼らの更生自立につながることを願ってやまない。