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「あんた馬鹿じゃないの?」 「オメガ」「スウォッチ」の新社長にパワハラ疑惑

今野晴貴NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。
画像はイメージです。(写真:イメージマート)

世界最大の腕時計メーカーで「パワハラ」による労災認定か?

 高級腕時計の中でも抜群の知名度を誇る「オメガ」や、18世紀にマリー・アントワネットに愛用された歴史のある「ブレゲ」、カジュアル腕時計の世界的な先駆けである「スウォッチ」など、有名ブランドを多数傘下に抱える世界最大の腕時計メーカー「スウォッチグループ」。その日本法人である「スウォッチグループジャパン」に勤務する、企業広報を担当する管理職の50代女性Aさんが、昨年11月に適応障害によって、中央労働基準監督署から労災認定されていたことがわかった。

 中央労基署は、2021年3月に就任した新社長による「執拗で激しい叱責」が「上司とのトラブル」に当たり、Aさんが低い査定を受けたことやPIP(業績改善プログラム)の対象とされたことが「仕事上の差別、不利益取り扱い」に当たるとして、適応障害の発症の原因となったものと判断している。

 また、Aさんは社長から「あんたバカじゃないの」と何度も罵倒されるなど、パワハラを受けたと主張しており、労働組合「総合サポートユニオン」に加入して同社に改善などを求めて交渉中だ。しかし、現在でも会社はパワハラがあったとは認めていないという。

 世界最大の高級腕時計メーカーで、一体何が起きていたのだろうか。「パワハラ」はなかったのだろうか。総合サポートユニオンとスウォッチグループジャパンへの取材をもとに、実態を明らかにしていきたい。

新社長の就任によって一変した職場の雰囲気

 以前から大手企業においてマーケティング業務に従事していたAさんは、カジュアル腕時計のパイオニアであるスウォッチへの憧れから、2008年にスウォッチグループに就職。いくつかのブランドのマーケティングの責任者を経て、企業広報の担当として働いてきた。歴史と技術のある時計を扱い、そのプロモーションに携わるというやりがいを感じながら、非常に働きやすい環境だったという。

 ところが、2021年3月に新しい社長が就任してから、徐々に社内の雰囲気が全く変わってしまったという。Aさんの印象では、具体的なビジョンや顧客とのコミュニケーションを重視せず、売り上げを上げることばかりを部下に急かす人物だったという。じっさいに、社長交代後に退職者が続出し、各時計ブランドのトップを務めていたベテランの事業部長たちですら、相次いで5名も辞めてしまった。

 Aさんがその「被害」に直面したのは、銀座にある本社ビルのリニューアル事業を任され、社長と直接やりとりする業務が多くなったころだった。

 「バカ」「能力が低い」「何を言ってるのかわからない」など、社長から繰り返し厳しい言葉が発せられ、会議中はもちろん、休憩や退勤後も電話が頻繁にかかってくるようになった。電話に出ないとさらに怒られるため、やむを得ず自宅で受信してしまい、家族のいるリビングルームに、社長の叫び声が響き渡ってしまうほどだった。のちに労基署も「社長から激しい叱責を執拗に受けていた」として、Aさんの労災の原因に社長の発言があったことを認定している。

業績評価の急落、解雇の恐怖で精神疾患に

 さらに追い打ちをかける出来事が起きた。労基署によれば、「担当していたプロジェクトを巡り、請求人(注:Aさん)のミスであるとして社長が複数回叱責した」ことがあったという。ユニオンによれば、じつはこの「ミス」は社長の確認漏れが原因でプロジェクトが失敗したことの責任をAさんが押し付けられたものであった。そして、この件は叱責にだけではおわらず、Aさんは業務から外されてしまったという。

 その結果、入社以降、Aさんは自身にとって全く経験のなかった、低い「C判定」の査定を受け、業績改善プログラム(PIP)の対象者とされた。このことも、労基署はAさんの適応障害発症の原因として挙げている。このPIPには社長に対する「コミュニケーション能力」などが改善項目として挙げられて、具体的な数値はなく、評価基準も曖昧な上、しかも評価者は社長とされていた。そして、基準を満たさない場合には、解雇することがあると伝えられた。

 社長からの罵声、解雇をちらつかせるPIPに追い込まれ、Aさんは逆流性胃腸炎やめまい、睡眠障害などを発症し、職場に通うことが難しくなってしまった。病院に行き、生まれて初めて適応障害と診断された。2週間休職して復職するも、医師が提言した残業を避けることや配置転換などの配慮はなされなかった。また社長と一緒に働く環境が続き、深夜までの業務も発生した。結局、2022年2月、再び体調が悪化したAさんは休職し、現在に至っている。

 休職しながらAさんは必死で資料を整理し、3月に労災申請を行った。そして8ヶ月後の11月、無事に労災保険の支給決定が通知されたのだった。

 この社長による「パワハラ」被害から休職、労災認定、告発までの経緯や思いを、総合サポートユニオンのインタビュー動画で、Aさんが自身の言葉で語っているので、こちらも視聴してみてほしい。

社長の「バカじゃないの」発言は「業務指導」であり、パワハラではない?

 冒頭に述べた通り、労災が認定された現在も、スウォッチグループジャパンはAさんに対して「社長はパワハラをしていない」と主張しているという。

 実は、労基署は労災は認定したものの、社長の言動が「パワーハラスメント」にあたり、それが原因で労災が発生したとは認めてはいない。労基署は社長の発言について、「執拗」で「激しい叱責」であり、労災の原因だったとは認めたものの、あくまで「業務指導の範囲内」の行為と判断している。

 社長が「あなた、バカじゃないの?」などの言葉を浴びせており、まさにその発言の録音データをAさんが労基署に証拠として提出していたにもかかわらずだ。後述するように、労基署はあくまでも「上司とのトラブル」が労働災害認定の理由だと考えている。

 会社側が強気でいるのは、この労基署の判断によるものと考えられるのだ。筆者も同社にこの件を質問したところ、下記の回答があった。

「労働基準監督署が、当該従業員の申請を検討のうえ、評価したことは承知しております。当該検討において、当社によるパワーハラスメントはないと判断されています。現在、当該従業員が所属するユニオンとの間で解決に向けた直接協議中ですので、協議中の事項については、詳細をお伝えすることは控えさせて頂きます」

 このように同社は、労働基準監督署によってパワハラが否定されたと主張している。では、労基署の判断では、社長の「バカじゃないの?」という暴言は、業務指導の範囲にあたるというのだろうか?

 じつは、ここには精神疾患の労災認定の仕組みの「落とし穴」がある。精神疾患の労災認定においては、発症した日から遡って6ヶ月間以内に起こった出来事を対象に、発症の原因が業務かどうかを判断される。

 このため、6ヶ月より前に起きた出来事については、労基署は原則的に考慮しない。同時に、「発症日」以降に起きた出来事についても、労災認定には考慮されない。例え発症後にさらに症状を悪化させる出来事があったとしても、あくまで最初の「発症日」以前の出来事だけが対象となるのだ。

 今回の事件で、Aさんは発症日以前から社長の「バカじゃないの」という発言を受けていたという。しかし、当時の録音データは残っていない。そのためか、会社はその時期については社長の「バカ」発言の存在を否定しているという。

 そして最初に心療内科で適応障害を診断されたのが2021年9月であった。一方で、社長の「バカじゃないの」という録音データが残っているのは、10月以降のものだけである。このため、証拠のある「バカじゃないの」について、発症日以降だからと労基署が判断しなかったのは、ある意味で当然のことである。したがって、スウォッチグループジャパンが、労基署の労災認定の判断をもって、発症日以降のパワハラを否定するのは、的外れであろう。

 発症後であったとしても、「馬鹿じゃないの」という発言が事実であれば、一般的な理解としてそれは「人格権侵害」に該当する不法行為であり、パワーハラスメントであると考えられる。

 今後、一度でも発症が確認されてしまうと、それ以降に起きた長時間労働やパワハラなどの業務上の出来事によって症状が悪化しても一切考慮されないという労災認定の調査方法については、労基署が柔軟性をもって対応することが期待される。

最も多いのに、最も労災を認められない「上司とのトラブル」

 では、パワハラが認められなかった代わりに、労基署がAさんの労災を認定した理由について、もう少し詳しくみてみよう。

 そもそも、厚労省は精神疾患について、労災認定をする基準となる出来事の項目を定めている。代表的なものが「パワーハラスメント」だろう。さらに、これらの労災認定の基準は、該当する出来事の項目が認められたのち、項目ごとに心理的負荷を「強・中・弱」の三段階で評価される仕組みである。

 今回の事件で労災が判断された理由としては、「上司とのトラブル」「差別、不利益取り扱い」が挙げられている。それぞれで心理的負荷が「中」とされており、総合的に「強」であるとして、労災が認められたかたちだ。

 「上司とのトラブル」の「中」については、厚労省によれば、その出来事が「上司から、業務指導の範囲内である強い指導・叱責を受けた」場合に該当するものとされている。

 この「上司とのトラブル」が、精神疾患の労災として調査される事件のうち、一番多い項目であることはあまり知られていない。2021年度では、精神疾患の労災が認定・不認定とされた1953件のうち、1位は451件(23%)の「上司とのトラブル」なのだ。2位の「パワーハラスメント」とは242件(12.4%)と二倍近く差がついている。

 その一方で、「上司とのトラブル」と判断された事件のうち、労災として認定されたケースはかなり少ない。2021年度に労災認定・不認定の判断がされた「上司とのトラブル」451件のうち、労災認定は17件(3.8%)と、極めて「狭き門」である。もとの件数の圧倒的な多さとは対照的に、その認定率は極めて低く、同年度でワースト1位である。同年度で「パワーハラスメント」が原因であると判断された精神疾患242件中、労災認定されたのが125件(51.7%)であることと比べれば、その違いは歴然だ。

 続けて、「仕事上の差別、不利益取り扱い」とは、厚生労働省の「精神障害の労災認定実務要領」によると、「同僚等と比べて明らかに均衡を失した不利益取扱い」を指しているという。上記の要領によれば、「仕事上の差別、不利益取扱い」に該当する事実があっても「処遇の差異が合理的」だった場合には、「弱」として評価されるという。

 今回のケースについて、労基署は「仕事上の差別、不利益取扱い」の心理的負荷を「中」と評価している。このことから労基署は、Aさんに対するPIPを、「合理的」ではない処遇の差異があるものとして、いわば「非合理的」な処遇であると判断したと推察される。同様の事件として、下記の記事を書いているので参照してみてほしい。

参考:「凸版印刷」で精神疾患の労災認定 「残業したから懲戒」という不可解な論理

 このように、今回のスウォッチグループジャパンの事件は、労災認定された被害の中では、かなりレアなケースであったといえよう。裏を返せば、スウォッチグループジャパンにおいては、それほどまでに激しく執拗な叱責があり、合理的と言えないPIPがあったと労基署から判断されたと解釈することができる。

 「パワハラ」以外の出来事で労災が認定されるケースが増えることは重要だ。一方で、労災認定においては、パワハラはかなり限定的に判断されてしまうという課題がある。

 ただし、労災認定と会社に対する民事的な争いは別だ。例え労基署がパワハラを認めなかったとしても、ユニオンによる会社との団体交渉や、裁判を通じてパワハラを認めさせることや、会社に損害賠償の支払いを認めさせることができる可能性は大いにある。

 業務上の理由によって精神疾患を発症し、「パワハラ」だと感じたら、ぜひ専門家に相談してみてほしい。

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NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。

NPO法人「POSSE」代表。年間5000件以上の労働・生活相談に関わり、労働・福祉政策について研究・提言している。近著に『賃労働の系譜学 フォーディズムからデジタル封建制へ』(青土社)。その他に『ストライキ2.0』(集英社新書)、『ブラック企業』(文春新書)、『ブラックバイト』(岩波新書)、『生活保護』(ちくま新書)など多数。流行語大賞トップ10(「ブラック企業」)、大佛次郎論壇賞、日本労働社会学会奨励賞などを受賞。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。専門社会調査士。

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