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労災の改変で「ブラック企業」がますます横行? 労働者への「嫌がらせ」激増の懸念

今野晴貴NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。
(写真:イメージマート)

年間60万人が被害に? 今月中に労災保険制度の原則がなくなる?

 今年12月、国の労災保険制度の設立以来からの原則をひっくり返してしまう重大な運用の変更が、社会にほとんど知られないまま実施されようとしている。

 近年、労働災害の認定件数は高止まりしており、2021年度における労災保険給付の新規決定は実に約60万人に及んでいる。だが国に認定されている労災は、実際に発生している被害全体の一部に過ぎない。特に過労死や過労自死は、労働災害として認められるまでのハードルが非常に高く、脳・心臓疾患や精神疾患の被害者・遺族たちは、長時間労働やパワハラの証拠集め、短くても半年以上にわたる審査期間中の生活不安など、幾つもの困難を乗り越えなければならない。

 ただ、この労災保険制度には、これまで一つの前提があった。病気や負傷が労働災害として認められた場合、その被害の起きた企業側からは、認定の取り消しを求められない仕組みになっていたのだ。このおかげで、被害者や遺族は認定後に労災が覆されるという余計な心配をせず、労災保険を申請することができた。

 ところが、企業側から、一度認定された労災を取り消す権利を求める主張が相次ぎ、ついにはその権利を認める裁判例まで登場している。

 そればかりではない。今年10月、厚労省までもが、こうした判例や企業側の主張を「追認」するかのように、認定されたはずの労災に関して、企業が不服を申し立てられる制度をわざわざ導入する方針を固めてしまった。しかも、早ければ12月中に従来の運用を変更するとしており、残された時間はわずかだ。手続きとしてもあまりに唐突で拙速な進め方というほかない。

 一体、何が起きようとしているのか。労災保険制度はこれからどうなってしまうのだろうか。

労災被害者が保護されなくなる? 

 改めて、いま議論されている労災保険制度の論点を概観したい。

 労災保険制度では、被災した労働者やその遺族が、労働基準監督署に労災保険を申請して労災と認められなかった場合、不服申し立てとして審査請求を行い、さらには再審査請求ができる。その結果に納得できない場合は、国を相手取って行政訴訟を起こすことができる。

 一方で企業には、「労災保険給付支給の決定」、つまり決まってしまった労災認定がおかしいとして、国と争える制度や権利はなかった。このことは、申請に困難を抱える弱い立場の被害者や遺族を保護する観点からすれば、望ましい原則だったといえよう。また、労災保険給付は、あくまで国から支給されるものであり、その点については企業に不利益は生じず、労災認定について争う必要性はないはずだ。

 しかし、企業側には、労災認定を取り消すことの「動機」がある。企業が国に支払う労災保険料は、事業場ごとの労働災害の多さに応じて増減される。要は、労災を発生させている企業に対して、保険料を引き上げる「ペナルティ」があるわけだ。この制度は「メリット制」と呼ばれる。

 ややわかりづらいが、この「労災保険料の決定」については、企業側も不服申し立てとして審査請求や行政訴訟を行うことが認められている。とはいえ、その論点はあくまで労災保険料の金額の計算などに限られており、「そもそも労災が認められたことが不当だ。だから労災保険料の引き上げごと取り消せ」という主張はできないことになっていた。

 ところが最近、一度決定された労災認定じたいについて、企業側が争える権利を認める裁判例が現れてしまった。労災被害者や遺族にとって、せっかく認められた労災保険給付の支給をまだ争われるのであれば、安心して暮らすことはできなくなる。企業側が審査請求にとどまらず、行政訴訟で地裁、高裁、最高裁まで争い続けるとすれば、労災認定が確定するまでに途方もない年月がかかることになってしまう。

 また、労災被害者が望んでもいない企業側からの審査請求や行政訴訟の場に引っ張り出され、話したくもない被害について、改めて証言を迫られる事態も引き起こされる可能性がある。特にセクハラ被害者が労災認定された場合において、これまで以上に深刻な「二次被害」が延々と続けられてしまうことが予想される。

 労働者保護の観点からすれば、労災保険制度の根幹を脅かす極めて危険な改革が進められようとしていると言わざるを得ない。

労災被害者を脅かす『「労災認定の取り消し」なき「労災保険料引き上げの取り消し」』

 こうした情勢を「追認」するかのように、2022年10月26日に第一回が開かれた厚労省の検討会が突然、新たな方針を打ち出し、限定的ながら、企業側が労災認定について争えるように制度を変更する方針を固めた。具体的には、従来の制度運用を変更し、

 企業側が「労災保険料の決定」を争う審査請求や行政訴訟において、そもそもの「労災保険給付支給の決定」、つまりすでに決定された労災認定の適否を争うことを通じて、労災保険料の引き上げを取り消せるようにするというものだ。

 ただし、労災認定の決定が覆され、労災保険料の引き上げが取り消されても、一度決定された労災保険給付支給の「取り消し」まではなされず、被害者や遺族に給付はなされるということだ。いわば『「労災認定の取り消し」なき「労災保険料引き上げの取り消し」』を求められる制度といったところだ。

 報道によれば、厚労省は前述の企業側に有利な判決が続出する流れを受けて、労災保険給付の取り消しまではさせないように、この制度によって「妥協」させようという問題意識のようだ。労災保険料の引き上げを否定できる制度ができるのであれば、企業がいちいち労災認定に反対し、取り消しまでを国に対して争う意味はなくなるということだろう。

 しかし、本当にこの「妥協」が、労災保険給付支給の取り消しを求める企業側の訴訟の「防波堤」になるかは不透明だ。すでに弁護士や運動団体などから指摘もされているが、容易に思いつく懸念点を挙げていこう。

  • 労働災害を調査する労働基準監督署の担当者が、企業側からの審査請求や行政訴訟を気にして、労災認定について及び腰になる
  • 労災の被害者や遺族が、労災認定後も審査請求や行政訴訟が起こることを懸念して、労災申請に萎縮してしまう
  • 労災の被害者や遺族は、労災認定を受けた後、企業に対して責任を追及するために損害賠償請求を行うことが多いが、労災認定じたいを否定する企業が増え、請求が認められるまでのハードルが上がる
  • 企業側が、労災の調査にこれまで以上に非協力的になる
  • 労災であれば療養中の労働者の解雇は違法だが、企業側が労災を否定することで、一方的に解雇するケースが増える
  • 企業側が労災を否定することで、療養中の職場復帰や労災の再発防止策を拒否しやすくなる

 厚労省の方針のように、一度決定された労災保険の給付じたいには影響がないとしても、企業が労災認定について否定し、労災保険料の引き上げを取り消すよう求めることが可能になるだけで、労災の被害者や遺族に対してさまざまなマイナスの効果を持つことがわかるだろう。

 特に、明らかに労災というべき被害ですら、企業側が「この労災認定は不当だ! 現在争っている最中だ」と「時間稼ぎ」する余地が格段に広がってしまい、その間に労働者が正当な権利行使をあきらめてしまう効果は深刻である。こうした労働者に国の制度を使わせないようにする行為は、これまで「ブラック企業」問題として社会に突きつけられてきたはずだ。それが今回の制度改革で助長されてしまう。

労災の「ペナルティ」が逆効果? 注目される「メリット制」廃止論

 残された時間は少ないが、差し当たっては、厚労省の案をひとまず保留にすべきである。それと同時に、より根本的に労働者の権利を守るためには、企業が労災保険支給の取り消しを求める状況に歯止めをかけることが必要だ。厚労省が制度変更をしないとしても、企業側に有利な判決が出ているのは厳然たる事実であり、行政判断が裁判所の決定に追従すること自体は自然な流れともいえる。

 そこで今後の議論の焦点となるのが、労災を起こした企業の保険料を引き上げる「メリット制」そのものの廃止である。労働問題を多く手がけ日本労働弁護団の常任幹事を務める嶋﨑量弁護士は、「メリット制を改廃することで、企業側が労災認定の取り消しを求める動きを食い止めることができる」と述べる。

 また、労働基準監督署、ハローワーク、都道府県労働局、厚労省本省などの職員で組織される労働組合「全労働省労働組合」も、今回の厚労省の検討会を機に、メリット制の廃止を含めた検討を提唱している 。

参考:メリット制適用事業主の不服申立の取り扱いに関する検討について 2022年 11月

全労働HPより
全労働HPより

 確かにメリット制を廃止することができれば、そもそも今回の厚労省案の制度は使えなくなる。それどころか、企業にとって労災について国と争う「動機」が消滅すると言っても良いだろう(労災申請を行う労働者に対する「嫌がらせ」という企業の「動機」は残り続けるかもしれないが)。

 一方で、労災が多い企業に対して労災保険料を増やすメリット制について、労災を起こしていない企業との公平性の観点から評価する意見はあるだろう。加えて、特に労災の被害者や遺族においては、労災を起こした企業に対する「ペナルティ」という意味で、その意義を支持する向きもある。

 しかし、前提として、この制度で労災は減っているのだろうか? じつは、労働災害の現場からは、むしろメリット制が労災を隠蔽するための「動機」にすらなっているという見解もある。労働問題の現場では、メリット制が「労災隠し」を引き起こす原因だという指摘が以前からなされてきたのである。

 労災相談を受け付けている労働組合「労災ユニオン」 に寄せられる相談事例では、明らかに職場で発生した事故に対して、健康保険による治療や、自社による一定の休業補償と治療費の全額負担などの対応で、経営者が労働者に労災保険を使わせないという被害が非常に多いという。

 負傷以降も無理やり企業に出勤させて休ませないことで、労災保険の休業給付を申請不可能にさせるケースまであるという。こうした労災かくしの大きな理由が、特に下請け会社などにおいて取引先に「迷惑」をかけさせないこと、そして労災保険料の引き上げによる負担増であると考えられる。

 とはいえ、メリット制の廃止を検討する声は、まだ極めて少ない。被害者がもっとも影響を被る「労災隠し」の対策こそ、本来は急務であるはずだ。12月7日には第二回の厚労省の検討会が開催され、そこで報告書がまとめられる予定だ。もはや制度変更は秒読み段階である。

 多くの労働者に影響を与えるこの制度について、社会の関心が高まることを願ってやまない。

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NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。

NPO法人「POSSE」代表。年間5000件以上の労働・生活相談に関わり、労働・福祉政策について研究・提言している。近著に『賃労働の系譜学 フォーディズムからデジタル封建制へ』(青土社)。その他に『ストライキ2.0』(集英社新書)、『ブラック企業』(文春新書)、『ブラックバイト』(岩波新書)、『生活保護』(ちくま新書)など多数。流行語大賞トップ10(「ブラック企業」)、大佛次郎論壇賞、日本労働社会学会奨励賞などを受賞。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。専門社会調査士。

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