Yahoo!ニュース

大久保「ユニフォーム投げ捨て騒動」は再発も?Jリーグの「挨拶」を考える

小宮良之スポーツライター・小説家
勝利して喜びを爆発させるFC東京の大久保嘉人。(写真:アフロスポーツ)

「あれは、やってはいけない行為だったと反省しています」

大久保嘉人(FC東京、33歳)はそう言って、後悔と謝罪を自身のブログに記している。

3月11日のJ1リーグ戦、ガンバ大阪とのアウエーゲームで、その小さな事件は起こった。

所属する東京は0ー3と完敗し、大久保は千載一遇のPKを失敗。その悔しさからだろう。ありあまる熱気は激しい怒気に変換されていた。試合後のサポーターへの挨拶を終えた帰り際、大久保はユニフォームを地面に脱ぎ捨て、それを蹴りつけている。

この行動が、一斉に批判を浴びた。

分別のない行動だったことは間違いない。道徳的に許されないのだろう。一人のプロスポーツ選手として模範的ではない、子供じみた行為だ。

しかし、この行為を誘発させる触媒があったとしたら――?

市中引き回しの刑?

Jリーグでは勝っても負けても、試合後は一つの儀式が通例になっている。ホームスタジアムでは、チームとしてぞろぞろとスタジアムを練り歩き、スタンドのファンの前に整列して「挨拶」をする。アウエーでもゴール裏には必ず出向く。それは、一つのコミュニケーションの形だろう。

一方、欧州や南米のトップリーグにおいて、ピッチで戦ったばかりの選手が試合後にスタジアムをまわって「挨拶」という機会は限られている。ドイツではアウエーに帯同したファンには三々五々で挨拶に行くが、スペイン語圏では選手同士で健闘をたたえ合ったら、さっさとベンチに退くのが通例。スタジアム全体で祝うのは、なにかを勝ち得た試合の後や「ウィニングラン」と呼ばれるようなタイトルの喜びを共有するときで、負けた後に"謝罪行脚"をすることはない。

選手とファンが、熱狂を分かち合う。

それはフットボールの醍醐味である。

しかしながら、無残な敗北を喫した選手たちが通例としてスタジアムを一周する、という姿は奇異に映ってしまう。「市中引き回しの刑」にも見えなくもない。感情量が多い選手ほど、その屈辱に耐えられないだろう。

「お客様は神さま」

その考え方が日本には深く浸透しており、お客様のほうも当然として受け止めるわけだが、負けた後のスタジアム一周は「廊下に立たせる」ような日本的な罰を与える色合いが滲む。

熱が冷めない選手もいる

フットボールは野球などと違って、試合中のコンタクトがあるスポーツだ。押し合い、つかみ合い、一つのボールを巡り、かなりのテンションで90分間にもわたって格闘している。その部分は格闘技に近く、好戦的なアドレナリンが出る場合が多い。

「RABIA」(激怒、憤激)

スペイン語圏の選手は、怒りの激情をプレーに昇華させる。これが乏しい選手は、過酷な戦いを生き残れないと言われる。その熱量と試合後の冷め方は、当然ながら個人差が出る。

大久保はRABIAの熱量が巨大で、なかなか冷めないのだ。

「ピッチに入ると、いつもの自分と違う。スイッチがかちっと入る感じ。試合後に負けてへらへらしているやつもおるけど、俺はそうはなれない。なかなかスイッチがオフにならん。むかついて、どうしようもできないときがある」

大久保はそう洩らすが、ミックスゾーンですら、言葉はいつも以上に強い調子になる。目つきも鋭いままだ。

筆者はマジョルカ時代から密着してきたが、彼の本質は変わっていない。そのプレーは極めてエモーショナル、その激情でプレーを旋回させる。それが川崎フロンターレで風間八宏監督という天才的な指導者に出会い、整理、論理化されることによって、3年連続得点王という結果をもたらしたのだ。

しかし東京では、彼の直感とはパスのタイミングが大きくズレているのだろう。それが本人は許せない。開幕以来、たまってきている、言語化できない怒りがある。巨大な熱だけが変換されないまま、身体を巡るしかない。そして、アウエーのゴール裏への挨拶で情けない自分が人の目に晒された。それが「分別を欠いた行動」につながった――。

そして、こうした「事件」は氷山の一角で、再び起こりうるはずだ。

もしジエゴ・コスタに怒りのエネルギーがなかったら

「負けたのにスタジアムをまわって、整列して頭を下げる? それは悪い冗談だよ。きっと喧嘩騒動になるぞ。ファンだって、言いたい放題になる。そんな屈辱に耐えられるようなら、フットボーラーではない」

あるスペイン人選手は極論的に言って、違和感を指摘していたことがある。平常心は尊ばれるべきだろうが、感情を燃やしてプレーする選手もいる。選手全員が、正面から罵声を受け止めきれるものでもない。

そして、気性の荒さがドラマを生み出し、勝利をもたらすことも真理だ。

例えばストライカーと呼ばれるポジションの選手は、RABIAが豊富にある。クリスティアーノ・ロナウド(レアル・マドリー)、ジエゴ・コスタ(チェルシー)、ズラタン・イブラヒモビッチ(マンチェスター・ユナイテッド)らは怒りのエネルギーを変換し、ゴールを奪う。思い通りにいかない彼らの不機嫌ぶりは、手がつけられない。独善的にも映る。しかし、その衝動がなければ過酷な競り合いに勝ち、神経を研ぎ澄ませ、ゴールを奪うことはできないのだ。

もしジエゴ・コスタに怒りのエネルギーがなかったら、これほど多くのゴールを生み出せただろうか?

言うまでもないことだが、日本には日本のしきたりがある。Jリーグでは、感謝とリスペクトがいい塩梅で存在している。それは美しい関係だろう。試合で勝つたび、ホームではラインダンスをする、というのは一つの風物詩になっている。

しかし、それをしないチームがあったとしても、責められるべきではない。

「ピッチですべてを表現したい」

そう考える選手がいて、そこで力を燃やし切る、という必死さを求めるファンもいるだろう。挨拶などでごまかさない、ごまかされない。結果で回答を出すのがプロ、という関係だ。

挨拶は試合のウォーミングアップの前にする、というのも一つの案だろう。ホームではピッチで手を振って、声援に応える。アウエーではゴール裏まで足を運び、感謝をする。試合後は整列したとき、周りに向かって頭を下げるだけ。そして、目に見えないような力に突き動かされたとき、選手が自発的にゴール裏へ足を運び、歓喜の花を咲かせる。良識あるファンは、「挨拶」以上の「謝罪」を求めることはないはずだ。

日本のスタジアムでも、大久保の一件以外にも一触即発という雰囲気はいくつもある。「やる気あんのかよ」と挑発されるような野次に、選手が激昂する場面も。しかし基本的に敗れた選手は、罵倒されるにしろ、慰められるにしろ、排出できない熱を抱えたまま、じっと口を結んで頭を下げ、謝り続けるしかない。それは健康的ではない光景と言えるだろう。

試合後の大久保の行為に情状酌量の余地はないが、誰かに暴力を振るったわけでも、威嚇したり、貶めようとしたわけでもなかった。あくまで自分への怒りだ。普段の彼は愛嬌があって、憎めない男である。人見知りだが、距離が近くなると人なつっこく、軽率なところはあっても、意外に人に対する気遣いを忘れなかったり、悪気はない。なにより、怒るほど真剣にサッカーに向き合っている。

「サッカーの勝負が始まると、人が変わる」

彼はしばしば言うが、そのスイッチが切れていなかった、だけの話だ。必ずしも、従容として敗北を受け入れることが正しいことではない。 

「負けた自分を、どうしても許せない。感情が制御できなくなる。アルゼンチンでは負けることは許されていないから」

世界最高のフットボーラー、リオネル・メッシの言葉である。

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

小宮良之の最近の記事