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衝撃のドキュメント『わたしは金正男(キム・ジョンナム)を殺してない』が今作られた意味

清藤秀人映画ライター/コメンテーター

空港内の監視カメラがとらえた衝撃の瞬間

 2017年2月13日午前9時、乗降客でごった返すマレーシアの首都、クアラルンプール国際空港で、北朝鮮の最高指導者、金正恩の実兄、金正男が神経剤VXを顔に塗られ、数分後、体を硬直させ息絶える。近年、これほど衝撃的なニュースがあっただろうか!?すでに北朝鮮の政治の中枢からは外れていたとは言え、国家の要人が、白昼堂々、公衆の面前で暗殺されたのである。それも、ことの経緯は空港内のあらゆる場所に設置された監視カメラに映し出され、それはそのまま、ニュース映像として世界中に打電される。まるで、残酷な暗殺劇を人々に見せつけるように。

撮影クルーはマレーシアにカメラを持ち込んだ

 あれから3年、あの衝撃的な暗殺事件がドキュメンタリー映画『わたしは金正男(キム・ジョンナム)を殺してない』となって僕たちの前に帰って来た。監督はアメリカで最も有名なセックス・セラピストの人物像に迫った『おしえて!ドクター・ルース』(19)や、聖職者による性犯罪の実態を暴露したNetflixオリジナル・シリーズ『キーパーズ』(17)で知られる気鋭のドキュメンタリー作家、ライアン・ホワイト。ホワイトと同じ大学のOBであり、雑誌”GQ”に掲載された記事”金正男暗殺事件の語られざる真実”の著者であるジャーナリストのダグ・ボック・クラークが、その記事を基にしたドキュメンタリーの制作に関して、ホワイトに相談を持ちかけたのがすべての始まりだった。やがて、2人は撮影クルーと共にマレーシアに向かう。当時、暗殺事件の実行犯として逮捕されたインドネシア人、シティ・アイシャと、ベトナム人、ドアン・ティ・フォンの公判が始まったばかりで、その間、クラークの記事の協力者やシティの弁護士に取材するうち、ホワイトはこのドキュメンタリーを自ら制作する決意を固めたという。

改めて解き明かされる事件の経緯

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 本作は、我々の記憶に今も生々しく残っている暗殺の瞬間を映し出した後、驚くべき展開を見せた衝撃的な事件の顛末を、正確かつ冷静に検証していく。当初、アメリカと韓国が思い描いていたのは北朝鮮の工作員による犯行だったが、逮捕されたのはとてもプロの殺し屋とは思えないシティとドアンだったこと。彼女たちの実態が不明なまま、黒幕と思われる北朝鮮の工作員8人のうち、4人は事件後すぐにマレーシアを脱出していたこと。逮捕されたのは化学の専門家と思しきリ・ジョン・チョルだったこと。そして、北朝鮮はジョン・チョルの逮捕を重大な人権侵害だと主張し、北朝鮮に住むマレーシア人を人質にとって彼らを出国禁止にしたこと。やがて、人質解放の条件としてマレーシア政府はジョン・チョルとほか数名を釈放し、さらに、北朝鮮に言われるがまま、金正男の遺体を彼が去って久しい母国へと引き渡した。こうして、事件は究明されることはなく、国家間の思惑と駆け引きによって闇に葬られることになる。

あの日のニュース映像が再び紹介される

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 しかし、ホワイトはシティとドアンが事件に関わることになるプロセスを詳しく開示しながら、表層の内側に隠された背景を改めて詳かにしていく。ベトナムの農村から女優を目指してハノイにやって来たドアンが、同僚を介してバーで工作員の”ミスターY”を紹介され、日本のTV番組のためにイタズラ動画への出演を持ちかけられ、なんの疑問も持たず承諾する。一方、インドネシアの寒村で生まれ育ったシティが、華やかな都会での生活を夢見て移住したクアラルンプールで、日本からやって来たという同じく工作員の”ジェームズ”から、同じくイタズラ動画への誘いを受け、即諾する。その後、2人は別々の場所でイタズラ動画の訓練を受けた後、2017年2月13日のクアラルンプール空港で、初めて互いの存在を知ることになる。当日の午前9時前、デイパックを肩にかけ、無防備にも1人で空港ロビーに現れた金正男が、そこで待ち構えていたシティと、背後から抱きついたドアンによってVXを顔に擦り付けられ、空港職員に異常を訴えている間、ドアンが何事もなかったようにトイレに向かう。空港内の何箇所かで事態を見守り、暗殺が決行されたことを確認すると、即座に出国手続きに向かう工作員たちの姿も、改めて紹介される。彼らがたとえ監視カメラに姿を撮られていたとしても、不思議に自然体で、冷静だったのは、シティとドアンが実行犯として逮捕された時、自分たちはすでにマレーシアを出国した後で、その後の処理は国家間でつつがなく執り行われることを知っていたからだ。こうして、綿密に練られた暗殺計画は、首謀者の思惑通りの展開を見せ、収束に向かう。

踏みにじられた女性たちが再生していくことを願う

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 金正男暗殺事件を改めて検証すると、個人ではどうすることもできない政治の闇が重くのしかかって、事件直後に感じた無力感に襲われる。しかし、監督のライアン・ホワイトと彼のチームは、シティとドアンの弁護を引き受けた弁護士たちが、マレーシア政府が放棄した事実の解明と、不運にも事件に加担させられた2人の尊厳を勝ち取るために奔走する姿を紹介して、理不尽な世の中に正義が存在することを、しっかりと伝えている。そこが最大の救いかもしれない。それでも、シティとドアンが2年間留置所に勾留された後、釈放されたのは、やはり国家間の密約によるものだった。

 東南アジアの貧困と、それを利用しようとした巨大な陰謀が、用意周到に結びついた金正男暗殺事件。それを執拗に、克明に追った本作は、最終的に、人生の目標と希望を無残にも奪われた2人の女性にフォーカスすることで、彼女たちが再生することを心から願っているようにも思える。そこが、今、このドキュメンタリーが制作されたことの意味なのかもしれない。

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『わたしは金正男(キム・ジョンナム)を殺してない』

10月10日(土) シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

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映画ライター/コメンテーター

アパレル業界から映画ライターに転身。1987年、オードリー・ヘプバーンにインタビューする機会に恵まれる。著書に「オードリーに学ぶおしゃれ練習帳」(近代映画社・刊)ほか。また、監修として「オードリー・ヘプバーンという生き方」「オードリー・ヘプバーン永遠の言葉120」(共に宝島社・刊)。映画.com、文春オンライン、CINEMORE、MOVIE WALKER PRESS、劇場用パンフレット等にレビューを執筆、Safari オンラインにファッション・コラムを執筆。

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