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消えた背番号10 イスラム教徒に「表現の自由」は認められない プロスポーツは中国の圧力に屈したのか

木村正人在英国際ジャーナリスト
ピッチから完全に消えたアーセナルのメスト・エジル選手(写真:ロイター/アフロ)

「コーランが焼かれ、宗教学者が一人ずつ殺された」

[ロンドン発]サッカー・ドイツ代表MFとして2014年W杯ブラジル大会優勝に貢献したメスト・エジル選手(32)が英イングランド・プレミアリーグの人気クラブ、アーセナルでプレミアリーグとヨーロッパリーグの選手登録から外される事実上の「戦力外」通告を受け、ピッチ上から完全に姿を消しました。

エジル選手は21日「今季、プレミアリーグの選手登録をされなかった事実に深く失望している。新型コロナウイルスが流行する前、新しいミケル・アルテタ監督の下での展開に満足していた。私のパフォーマンスは本当に良かったが、状況は再び変わった」とツイートしました。

アーセナル・サポーターは、エジル選手がチームの中で浮き、スタミナ不足から守備に貢献せず、試合後半に全く存在感を失ってしまう不甲斐なさに不満を募らせてきました。しかし米紙ニューヨーク・タイムズは26日「メスト・エジルの消去 中国を怒らせ、減給を拒否した後、彼は消え去った」と報じました。

エジル選手の姿がピッチから消えるイメージを添え、記事のインパクトを強めています。同紙が注目するのは昨年12月、エジル選手がツイッターやインスタグラムへの投稿で「東トルキスタン共和国」の旗をバックに中国新疆ウイグル自治区でのイスラム教徒弾圧とそれに対する国際社会の沈黙を非難したことです。

「コーラン(イスラム教の聖典)が焼かれ、モスク(礼拝所)が閉鎖され、イスラム神学校マドラサが禁止され、宗教学者が一人ずつ殺された。 これらすべてにもかかわらず、イスラム教徒は静かなままだ」。世界中にファンがいるエジル選手のツイートを中国共産党が黙認するわけがありませんでした。

「核心的利益」という地雷

東トルキスタン共和国は1933~34年と1944~50年に現在の新疆ウイグル自治区に樹立された政権です。主権と領土保全は中国共産党の「核心的利益」。エジル選手のツイートに対して中国のサッカーファンはエジル選手の背番号10のついたアーセナルのユニフォームを燃やし、クラブにエジル選手を解雇するよう要求しました。

中国のミニブログサイト、新浪微博にはエジル選手のフォロワーが約600万人もいましたが、エジル選手は炎上。フォロワーはアッという間にいなくなりました。インスタグラムでも「中国を攻撃するつもりなら、お前は私たちの心の中で汚れたアリと同じぐらい取るに足らない存在になる」となじられました。

当時、中国外務省の報道官は記者会見で「エジル選手は一度、新疆ウイグル自治区を訪れてみるべきだ。彼が常識を持ち、善悪を明確に区別でき、客観性と公平性の原則を支持しているなら、別の新疆ウイグル自治区が見えてくるだろう」と反論しました。

中国のTV局はアーセナルの試合の放送を拒否。エジル選手はビデオゲームのキャラクターから削除されました。エジル選手は中国の「核心的利益」という地雷を踏むことになると承知しながら、イスラム教徒の弾圧をどうしても見逃せなかったのです。

全米プロバスケットボール協会(NBA)のヒューストン・ロケッツのゼネラルマネージャー(GM)、ダリル・モーリー氏は昨年10月、ツイッターで香港のデモを支援しました。このためロケッツのグッズはアリババグループのネット市場から外され、中国のスポンサー企業はパートナーシップを一時停止しました。

ロケッツの試合はネットで中継されなくなり、NBAへの圧力も増しました。今季、中国の国営TVネットワークもNBAファイナルの第5試合まで放送を見送りました。そしてツイッター騒動から約1年後の今月15日、モーリー氏は来月1日でGMを退任することを発表したのです。

モーリー氏は高度な統計に基づいてチームをつくる大リーグの「マネーボール」に相当する手法をNBAにもたらしたGMとして知られていました。

「勝てばドイツ人、負ければ移民」

エジル選手の言動が物議を醸すのはこれが初めてではありません。W杯ロシア大会で1次リーグ敗退を喫したエジル選手は2018年7月、ツイッターに投稿した書簡で「勝てばドイツ人、負ければ移民として扱われた」とドイツサッカー連盟(DFB)のラインハルト・グリンデル会長を非難して代表からの引退を表明しました。

ドイツでは2000年代に入ってから移民の第2、3世代である「M(多文化主義)世代」が増えました。トルコ系移民3世のエジルはM世代の新星。しかし、試合前にドイツ国歌を斉唱せずにコーランを唱えていることから、独メディアの批判にさらされてきました。

エジル選手とイルカイ・ギュンドアン選手(マンチェスター・シティ)が18年5月、トルコ大統領選を前にロンドンを訪れたレジェップ・タイップ・エルドアン大統領と会い、クラブのユニフォームを手渡して写真撮影に応じたことが、ドイツ国内で政治論争を巻き起こしました。

ドイツの価値観とは相容れない「独裁者エルドアン」の選挙キャンペーンを応援したとして、ドイツ代表のエジル選手とギュンドアン選手は政治論争に巻き込まれてしまいます。「私の大統領に敬意を込めて」とユニフォームにサインしていたギュンドアン選手は謝罪に追い込まれました。

1次リーグ敗退の責任を自分になすりつけようとしたDFBのグリンデル会長の対応が我慢ならなかったエジル選手は書簡に悲しさと虚しさ、怒りをぶつけました。

「私はドイツで育ったが、家族はトルコにルーツを持っている。私にはドイツとトルコの2つのハートがある。子供の頃から母親に、自分のルーツを大切にし、絶対に忘れてはいけないと言われて育った」

「私にとってエルドアン大統領と写真を撮ることは政治や選挙に関するものではなく、家族の出身国の最高位の職に敬意を示すものだ」「エリザベス英女王もテリーザ・メイ英首相(当時)もロンドンで大統領を歓待した。トルコの大統領であろうとドイツの大統領であろうと、私の対応に違いは何一つない」

「私はこれ以上、グリンデル会長の無能と能力不足のスケープゴートにされるのはまっぴらだ。彼と彼の支持者にとって、私は勝っている時はドイツ人、負ければ移民に過ぎないのだ」

「あるドイツの政治家は私のことを『ゴートファッカー(イスラム教徒への蔑称)』と呼び、ドイツの劇場の主任はトルコの移民街へ帰りやがれと言った。差別を政治のプロパガンダに使うことは即座に辞任につながる忌むべき行為だ」

朝鮮戦争の米韓両国の犠牲を追悼したBTSの株価暴落

新型コロナウイルスの大流行で無観客試合を強いられるプレミアリーグのクラブはアーセナルだけではなく、どこも経営危機に瀕しています。それに加えて巨大市場である中国で不買運動が起こされ、試合放送まで拒否されるとアーセナルは致命的な打撃を受けます。

今年4月、アーセナルの選手とアルテタ監督とは自主的に12.5%の年俸返上に応じましたが、エジル選手はその使途が十分に明らかにされていないとして自主返上に応じませんでした。エジル選手の週給は35万ポンド(約4800万円)と伝えられています

8月には55人のスタッフが解雇されました。その中にはアーセナルのマスコット、ガンナーザウルスの中に27年間も入ってきた男性も含まれており、その男性の給料をエジル選手が支払うと発表しました。ニューヨーク・タイムズ紙はこれで「クラブは激怒した」と報じています。

エジル選手のパスは本当に繊細で神がかり的です。しかしピッチの外からはチームワークを乱す不協和音のように見えていたのも事実です。エジル選手がピッチから完全に消えた原因は中国の圧力か、エジル選手のパフォーマンス不足か、それともクラブとの対立なのか真相は藪の中です。

米白人警官による黒人男性暴行死事件に端を発した人種差別撤廃運動「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命は大切だ)」を支持するためプレミアリーグでは試合の前に選手全員が跪いています。

プロテニスでは大坂なおみ選手が犠牲になった黒人の名前をプリントしたマスクを着けて入場、全米オープン女子シングルスで2年ぶり2度目の優勝を果たし、米誌タイムの「世界で最も影響力のある100人」に2年連続で選ばれました。

しかしエジル選手は誰からも称賛されることも擁護されることなく、ピッチから完全に消し去られてしまいました。

世界的に人気の韓国男性音楽グループ「BTS(防弾少年団)」リーダーのRMさんが今月7日、オンラインイベントで朝鮮戦争(1950~53年)に触れ「米韓両国が共に経験した苦難の歴史と無数の男女の犠牲を忘れない」と発言をしたことに中国のネチズンが猛反発。

BTSが所属する芸能事務所ビッグヒットエンターテインメントの株価は半値以下に暴落しました。ピッチから消されたエジル選手、BTS株の暴落、ヒューストン・ロケッツGMの退任は一つの糸でつながっているように筆者には思えるのですが…。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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