リベラルが没落し、民族主義ポピュリズムが台頭する オーストリア大統領選で極右候補が首位に
「理想」が引き起こす「反動」
「理想」が過ぎると「反動」が起きるというのが世の常なのでしょうか。反エリートというか反リベラル、そして反移民、反イスラムといった民族主義、欧州懐疑主義を唱える政治勢力が欧州を覆っています。中道の既存政党が力を失い、新興勢力の極右ポピュリズム政党と左派が勢いを増しています。
シリア難民の受け入れ姿勢を転じ、バルカン諸国と協力して難民ルートを封鎖したオーストリアで大統領選の第1回投票が24日行われました。結果は下の円グラフの通りです。
どの候補者も過半数に届かなかったため、上位の2人、国民議会(下院)第3議長で自由党のホーファー(36.4%)と緑の党出身のファン・デア・ベレン(20.38%)が5月22日の第2回投票に進みます。
トップに踊り出たホーファー属する自由党は「自由」という言葉が党名に入っているものの、反移民、反イスラム、反エリートと欧州懐疑主義を掲げる民族主義的な極右ポピュリズム政党です。
選挙前の世論調査ではファン・デア・ベレンが優勢でした。自由党のホーファーは最高でも24%だったため、第1回投票の得票率が36.4%に達したことに大きな衝撃が走っています。自由党の得票率はこれまで欧州議会選で1996年の27.5%、国民議会選で99年の26.9%が最高でした。
沈む二大政党
連立政権を組む中道左派の社会民主党と中道右派の国民党の候補者はそれぞれ11.18%しか票を取れませんでした。オーストリアでは1980年代半ばから社会民主党と国民党が大連立を組み、首相は社会民主党、副首相は国民党から選ばれるようになります。
99年、右翼的な言動で国際社会の注目を集めた党首ハイダー(2008年に交通事故で死亡)に率いられた自由党は国民議会選で躍進し、2000年に国民党との連立政権に参加します。07年にオーストリアの政治は社会民主党と国民党の大連立に回帰し、社会民主党党首のファイマン現政権に至っています。
オーストリアの大統領は象徴的な存在で、形式的な権限しかないものの、極右ポピュリズム政党から元首が誕生するとなると大事です。それを阻止するため、第2回投票では緑の党出身のファン・デア・ベレンに第1回投票で敗れた陣営の票が集まることが予想されます。が、自由党のホーファーの勢いは相当なものです。
難民政策を一転したオーストリア
オーストリアの首相ファイマンは昨年、難民への門戸開放を唱えたドイツの首相メルケルと歩調を合わせて難民を受け入れました。しかし新規の難民申請者が1年間で8万5505人にのぼったため国民の反発が強まり、バルカン諸国9カ国と協力して門戸を閉ざしました。
大統領選の第1回投票で、有権者は難民受け入れに厳しい姿勢を示した自由党を支持したことがはっきりしました。自由党のホーファーは大統領選で「オーストリアは世界の社会政策を引き受けているわけではない」と何度も強調しました。
二大政党の社会民主党と国民党の候補者がいずれも大統領選の第2回投票に進めないのは、第二次大戦後、初めての出来事です。オーストリアの既存政治は完全に崩壊したと言えるでしょう。
自由党の源流
自由党の前身である独立者同盟は旧ナチ党員を主な支持層として組織されました。当初、党内は民族主義の系譜を受け継ぐ「ナショナル」勢力と「リベラル」勢力に分かれますが、両親がナチ党員だったハイダーが1986年に党首に就任してから急進的ナショナリズムに大きく舵を切ります。
自由党は欧州懐疑主義を掲げて、「欧州統合の敗者」である労働者層に支持を広げ、保護主義的な性格を強めていきます。ハイダーがスケープゴートとして攻撃したのは既存政党、反ファシスト、学者、マスメディア、外国人、欧州統合、ユダヤ人でした。
オーストリアの欧州連合(EU)加盟、EU拡大の反動として国内でナショナリズム感情が高まり、自由党の人気を押し上げていきます。米国初の黒人大統領オバマ誕生の裏返しとしてトランプ現象が起きたように、欧州統合という理想が難民危機をきっかけに強烈な反動を欧州に引き起こしています。
(おわり)
参考:「オーストリア自由党の組織編成と政策転換」(古賀光生著)