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オバマ大統領のレッドラインって何だったの?

木村正人在英国際ジャーナリスト

対立が鮮明になったG20

5~6日、サンクトペテルブルクで開かれた日米欧と新興国の20カ国・地域(G20)首脳会議で、シリアのアサド政権が化学兵器を使用したとされる問題で懲罰的攻撃を主張するオバマ米大統領らシリア介入派とロシア、中国など反対派の溝は予想通り埋まらなかった。

現地からの報道によると、米国、オーストラリア、カナダ、フランス、イタリア、日本、韓国、サウジアラビア、スペイン、トルコ、英国の11カ国が「強力な国際的対応」を求める共同声明を発表した。

しかし、このうち、いったい何カ国が国連安全保障理事会決議なしでの米仏主導のシリア軍事介入を支持したのかはっきりしない。

3日の電話会談でオバマ大統領に安保理での武力行使容認決議を得る努力を求めた安倍晋三首相はブエノスアイレスでの国際オリンピック委員会(IOC)総会出席のため中座し、G20首脳会談では発言しなかったと伝えられている。

イタリアも安保理決議なしの軍事作戦には参加しない方針と報じられていた。

米国務省は5日、シリア攻撃を支持しているのはカナダ、オーストラリア、アルバニア、コソボ、デンマーク、フランス、ポーランド、ルーマニア、トルコの9カ国と発表した。

慎重な英国

その中にはこれまで最大の同盟国とされてきた英国の名前はなかった。シリア攻撃を決断する一方で米議会の承認を得る方針を表明したオバマ大統領について、キャメロン英首相は「大統領の立場を理解し、支持する」と言ってきただけに、意外だった。

軍事行動に参加するのでなければ、米国にとって「支持」ではないということなのだろう。しかし、G20では米仏側は11カ国共同声明の「強力な国際的対応」という言葉で何とか結束を演出するのがやっとだったとみられている。

英国議会は8月29日、シリア介入決議を否決。キャメロン首相は米国主導の軍事介入が行われても参加しない方針を決めた。

再決議をはかってもう一度、否決されるという致命的な政治リスクを回避しなければならないキャメロン首相の切羽詰まった事情。最大野党・労働党のミリバンド党首にはこの問題を蒸し返して、人道的介入を主張する旧ブレア派との対立を深めたくない思惑がある。

オバマ大統領のUターン

そもそもG20前の軍事介入を強硬に主張し、キャメロン首相に議会決議を迫ったそのオバマ大統領が突如としてUターンし、米議会の承認を得ると言い出したことに対する不信感が英政権内にはくすぶっている。

米議会では米中枢同時テロがあった日と同じ9月11日に上院の議決、再来週に下院の議決が行われるとみられている。有権者の顔色をうかがわなくて済む上院議員は不人気なシリア攻撃に1票を投じることができるかもしれない。しかし、野党・共和党はフィリバスターと呼ばれる長時間の討論で徹底的に議事を妨害できる。

共和党が多数を握る下院。下院議員と有権者の距離は上院議員に比べてはるかに近い。直近の世論調査ではシリア攻撃に賛成はわずか9%。反対は60%。リビア軍事介入の時は賛成が47%だった。オバマ大統領が下院の承認を得るのは至難の業とみられている。

「米議会の承認を得る」と言えば民主主義を重視しているようで聞こえは良いものの、オバマ大統領が軍事行動を逡巡し、最終決断を米議会に丸投げしてしまったのが真相だろう。

同大統領はリビア軍事介入についても、パキスタン国境地帯での無人航空機(ドローン)によるイスラム原理主義勢力タリバン幹部暗殺についても、米議会の承認を求めたことはこれまで一度もない。

レッドライン

キングス・カレッジ・ロンドンのジェームズ・ボーイズ客員上級研究員(木村正人撮影)
キングス・カレッジ・ロンドンのジェームズ・ボーイズ客員上級研究員(木村正人撮影)

5日夕、ロンドンのシンクタンク、英王立国際問題研究所(チャタムハウス)でシリアについてパネルディスカッションが行われた。その後、パネラーの1人、キングス・カレッジ・ロンドンのジェームズ・ボーイズ客員上級研究員(中東)を直撃した。

――オバマ大統領は化学兵器の使用がレッドライン(越えてはならない一線)になるとアサド大統領に突きつけてきましたが

「オバマ大統領は自ら引いたレッドラインでコーナーに追い込まれないよう言い方を変えました。昨年8月、大統領選のキャンペーンで、化学兵器使用がレッドラインだとオバマ大統領は宣言しました。しかし、今月4日、ストックホルムでの記者会見で、レッドラインを設定したのは私ではない、国際社会だと修正しました」

――オバマ大統領の本音はシリアに介入したくないのでしょうか

「オバマ大統領は個人的には介入主義者ではありません。この問題から退却することを望んでいます。化学兵器使用という非人道的行為を見逃すことはできない、かと言って軍事介入によってシリア情勢がどうなるかわからないというリスクは背負いたくない。窮地に追い込まれていることに気づいたオバマ大統領はそこから逃れようとしているのです。こうしたオバマ大統領の態度に、米国の単独行動主義を批判してきた英紙ガーディアンでさえ『白々しく聞こえる』と論評しています」

――オバマ政権内で人道的介入を牽引しているのは

「米国のサマンサ・パワー国連大使、国家安全保障会議のスーザン・ライス国家安全保障担当大統領補佐官、ジョン・ケリー国務長官の3人です。この3人が政権に影響力を持ったことで1期目のオバマ政権と2期目の性格は変わりました。人道的介入がすべての政策に優先する傾向が強くなりました」

――オバマ大統領の国際的な指導力に疑問符が灯っていませんか

「今回の動きでオバマ大統領は国際的な指導者としては非常に立場が弱くなってしまいます。国際社会での米大統領のパワーの源泉は圧倒的な軍事力、政治的な強さに加え、道徳的な権威があります。ドローン攻撃を多用していることによりオバマ大統領の道徳的な権威に疑問を唱える声が以前からありました。今回のシリア介入問題でオバマ大統領がいったん掲げたレッドラインをぼかしたことで米国は道徳的な権威を失ったと言うことができます」

――仮にレッドラインをうまくくぐり抜けることができたとしてもオバマ政権自体がレームダック化してしまわないでしょうか

「オバマ政権は2期目に入った時からレームダック化が進行しています。上院外交委員会で対シリア武力行使の容認決議案を可決しましたが、これまで2年間にわたってシリア問題への積極的な関与を主張してきた共和党の上院議員が反対しました。オバマ大統領の外交政策を信用できないというのがその理由です」

――英国や日本などの同盟国は様子を見る必要があるのでしょうか

「私たちは米国議会の審議を見守るべきでしょう。上院も微妙な情勢ですが、下院はもっと難しい」

もう1人のパネラーで、今回も武力行使を強く主張しているマルコム・リフキンド元英外相にも「オバマ大統領は世界の指導者としては非常に弱いのではないでしょうか」と質問してみた。

リフキンド元外相は「オバマ大統領は非常に用心深い大統領だ。私は弱いとは思わない。弱い指導者なら国際テロ組織アルカイダの指導者ウサマ・ビンラディン容疑者をハントすることはできない」と擁護した。

マルコム・リフキンド元英外相(同)
マルコム・リフキンド元英外相(同)

国際社会が不安定化する懸念

国際社会の安定にとって、米大統領が引くレッドラインは非常に重要な意味を持つ。このレッドラインを超えた場合、米国は武力行使をためらってこなかったことが大きな抑止力になってきた。

オバマ大統領が化学兵器使用をレッドラインにしたことの是非はともかく、いったん自分で引いたレッドラインについて「引いたのは自分ではなくて国際社会」と責任転嫁したことで問題をより根深いものにしてしまった。

イラン核開発は「核兵器開発の着手」、北朝鮮による核開発は「他国への核関連物質・技術の移転」、東シナ海の尖閣諸島をめぐっては武力行使による中国の不法占拠が米国のレッドラインというのが一般的な見方だった。

今回、オバマ大統領が自ら外交・武力行使をめぐる大統領権限を米議会に譲り、米国のレッドラインが持つ意味を相対化してしまったことで米国の影響力低下は否めなくなる。

IOC総会参加を理由にG20 首脳会議を中座した安倍首相は賢明だったとも言えるが、レームダック化したオバマ大統領の足元を見て北朝鮮や中国が揺さぶりを強めてくる恐れを十分に覚悟しなければならないだろう。(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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