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従軍慰安婦を政治問題化する意味とは?

木村正人在英国際ジャーナリスト

日本維新の会共同代表の橋下徹・大阪市長は27日、日本外国特派員協会で記者会見し、従軍慰安婦をめぐる一連の発言について「旧日本兵の慰安婦問題を正当化しようという意図は毛頭ありません。日本は過去の過ちを反省し、慰安婦の方々に謝罪とおわびをしなければなりません」と日本の道義的責任を明確に認めた。

欧米メディアは橋下市長が率直に「過去の過ち」を反省したことを評価し、橋下市長が「国家の意思として、組織的に女性を拉致した。国家の意思として組織的に女性を人身売買した、この点を裏付ける証拠はありませんし、この事実については認めていないというのが日本の立場だと思います」と主張したことも伝えている。

これまで「軍が直接関与した組織的拉致と言えるような強制連行は朝鮮半島では行われなかった」という主張は、先の大戦に対する日本の道義的責任を否定する意図で行われていると受け止められ、韓国だけではなく、欧米からも厳しい批判を浴びせられてきた。

しかし、橋下市長は、日本は確かに悪かったが、いくら何でも組織的拉致のようなひどいことまではしていないし、軍と買春の問題は日本だけの問題ですかと問いかけた。

虚を衝かれた欧米メディアはヘッドラインで「日本の右と呼ばれる政治家が日本の責任を認めたのは初めてではないか」と評価し、記事中、「橋下市長は問題をすり替えている」「橋下市長は、もともと慰安婦問題に火をつけた安倍晋三首相からも批判されている」とつけ加えた。

米紙ニューヨーク・タイムズが橋下市長会見の記事で、慰安婦制度について「軍の売春宿」と表現しているのには正直言って驚いた。「性奴隷(sex slave)」と「売春宿(brothel)」とでは与えるイメージが大きく異なるからだ。

僕は米コロンビア大学東アジア研究所に社費留学中、歴史教科書問題をテーマに論文を書いた。従軍慰安婦について「慰安婦(comfort women)」の表記を「sex slave」に書き換えるよう求める編集者に抗議して、長時間やり取りしたのを覚えている。

欧米の価値基準から見れば、女性の自由意思に反して性行為を強制していたこと自体が問題で、軍が関与したのが「施設の管理、戦地において女性を移動させること、民間業者に女性を集めて欲しいと要請すること」(橋下市長)にとどまるとしても、国家としての責任は免れることができない。

これに対する日本の反論は「朝鮮半島での強制連行」はなかったという極めて限定的なものだ。欧米の論理をわきまえずに「強制連行はなかった」と主張した第1次安倍内閣の安倍首相はオランダから突き上げられて、「狭義の強制連行はなかったという意味だ」という苦しい弁明に追われた。

大戦中、旧日本軍占領中のインドネシアで、日本軍がオランダ人女性35人を民間人抑留所から慰安所に強制連行し強制売春させたことは歴史上の事実だ。オランダ軍は、イラク復興支援のため陸上自衛隊が駐留するサマワを含む地域を警備した。安倍首相の発言を聞いたオランダ人の多くが「恥知らず」と激怒したことだろう。

1993年の慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話はこう記す。

「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」

「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」

「当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」

強制連行とは書いていない。しかし、政治・外交問題化したのは3つ目の「総じて」のくだりである。軍が直接関与して組織的に「甘言」「強圧」を行ったようにも受け取れるし、軍の直接関与がなかったとしても全体としてみれば、そう受け止められても仕方がないと言っているようにも聞こえる。

政治的に灰色決着が図ったことが、かえって「日本政府が旧日本軍による慰安婦の強制連行を認めた」という曲解を広めてしまった。

安倍首相は2007年、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」とする政府答弁書を閣議決定し、首相に返り咲く前、河野談話の見直しを主張していたが、いつの間にか引っ込めた。

米国から圧力がかかったのだろう。北東アジアの安全保障環境を考えれば当然のことだと思う。英国では、政府がいったん公に発表した文書を新たな証拠の発見もないのに取っ替えたり、引っ込めたりはできないだろう。

安倍首相が態度を変えた背景には、北朝鮮の核・ミサイル危機がある。ロンドンで北朝鮮に関連する勉強会にはすべて顔を出すようにしているが、米国は韓国との連携を優先しており、日本のことはそれほど重視していないような印象を受ける。

韓国は北朝鮮の内部情報に詳しいし、北朝鮮の攻撃に対抗できる能力を備えている。

これに対して、わが国では、米国本土に向かって発射された北朝鮮の弾道ミサイルを日本が迎撃ミサイルで撃ち落とすことが集団的自衛権の行使に当たるかどうかが議論されている。米国が日本のように自国の安全を他国に委ねることはあり得ない。

北朝鮮問題に関して日本が有するレバレッジ(てこ)は何か。誤解を恐れずに言えば、朝鮮半島が統一した時に「日本は統一支援のためにオカネを出してくれれば十分」ということだろう。

中国は金融制裁などを通じて北朝鮮に働きかけるレバレッジをたくさん有している。「安倍首相は歴史問題でハレーションを起こさないでくれ」というのがオバマ政権の本音だろう。

オバマ米政権の北朝鮮政策は実際のところ韓国に丸投げしている状態で、今後は朴槿恵政権の意向に合わせ「南北宥和」に動き、朝鮮半島は「緊張」から「緩和」のサイクルに入っていく可能性が強いと僕は考えている。

先日、英ケンブリッジ大学のジョン・スウエンソン=ライト博士に会ったとき、「北朝鮮の留学生は戻ってきそうですか」と尋ねてみた。ケンブリッジ大学は2011~12年に3人の北朝鮮留学生を受け入れたが、12年後半、次の留学生について北朝鮮は突然キャンセルしてきた。

なぜだろうと思っていたら、13年に入って北朝鮮は3度目の核実験を実施、核攻撃をちらつかせるなど「瀬戸際戦略」をエスカレートさせた。北朝鮮の金正恩第1書記がこのまま緊張を高めるつもりなら、留学事業を再開しないのではないか。

そんな疑問を抱く僕に、スウエンソン=ライト博士は「うまく行けば10月に北朝鮮から留学生が来るかもしれない。良いサインだ」と話した。

英紙フィナンシャル・タイムズのコラムニスト、フィリップ・スティーブンズ氏は「歴史を修正しても日本は復活しない」と題して、安倍首相の愛国主義と国民精神に訴えるアプローチについて「韓国との関係を悪化させ、米国を警戒させた。東シナ海の緊張を高めているのは中国の拡張主義ではなく日本の国家主義だと主張する中国を利することになる」と警鐘を鳴らした。

さらに、オバマ政権は、安倍首相が日米安保を尖閣諸島の有効支配を守りながら中国に一撃をくらわせる盾のように扱っていることを警戒しているとまでスティーブンズ氏は指摘している。

オバマ政権は中国を敵視せず、関与する方針だが、中国が将来、傍若無人に振る舞うことに備えて、日米安保を維持している。米国は中国の軍備拡張を抑えるため、おそらく東シナ海や太平洋の「共同管理」という概念を持ち出すようになると僕はみている。

アベノミクスによる「円安・株高」は調整局面に入り、一番警戒していた長期金利が上昇を始めた。

日本にとって最優先にすべき課題は従軍慰安婦問題を政治的に議論することではなく、中国と紛争を起こさずに尖閣諸島の主権を守り抜くこと、約20年間、停滞したままの日本経済の成長力を取り戻すことである。

ロンドン大学の教員として日本の近現代史を海外の学生に教えている鈴木里奈さんは「歴史を研究する上で大切なことは善悪を取り除いて史実を議論することです」と指摘する。従軍慰安婦問題は10代か大学で徹底的に議論しなければならない問題だと思う。

米コロンビア大学では、硫黄島の戦いで日本兵が米兵の首と男根を切り落とし、男根を生首の口にくわえさせ、これみよがしに置いていたこと、逆に米兵が生きている日本兵の金歯を引っこ抜いていたことを教え、学生に戦争の非人間性を議論させていた。

橋下市長の議論は教室では必要だが、政治的に日本にとって何の意味があったのだろう。従軍慰安婦問題を政治家が発言し、そのたびに日韓関係を損ない、引いては日本の安全保障環境に影響を与えることにどれだけの意味があるのだろうか。

日本が先の大戦から学ぶことは、国際社会から孤立してはならないということだ。そして、インターナショナリズムを伴わないナショナリズムは極めて危険だということだ。次世代に「大東亜戦争」をもう一度戦わせたい政治家は、偏狭なナショナリズムを煽るだけ煽るがいい。

しかし、日本の安全と復活を本心から望むのなら、政治家もメディアも、もっと賢明に現実的に振る舞う必要がある。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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