アルジェリア人質事件 僕は「Aさん」では死にたくない

アルジェリア人質事件で犠牲になった方を実名で報道するかが、大きな論争になっている。

これほど社会に衝撃を与えた事件で、被害者を「匿名」報道する意味は何なのか。僕が事件に巻き込まれて死亡したら、家族には迷惑をかけるかもしれないが、実名を公表してほしい。

僕は「Aさん」という匿名ではなく人格を持った実名で死にたい。家族にも報道機関の取材があれば、きちんと応じてもらいたいと思う。

故人や遺族の了解なしに実名で報道できるのか、という疑問に、マスコミはきちんと答えてきたのだろうか。

僕は16年間、新聞社の社会部記者として事件を追いかけてきた。

一番辛かったのが遺族から犠牲になった方の話を聞いて、顔写真を提供してもらう作業である。通り魔に顔を切られて包帯を巻いた女の子の写真を「ごめんね」と言って撮ったこともある。

非人間的であり、まともな神経を持ち合わせた人間のする作業では決してない。

しかし、僕が事件の現場にいた十数年前まで、なぜか、遺族や関係者の方々は犠牲になった人について長時間、話してくれた。そして、ほとんどのケースで顔写真を提供してもらった。

人の死とは何なのだろう。

予防接種禍訴訟の取材で、被害者弁護団から母親が全裸の子供の亡骸を両手で抱えて突きだしている写真を見せられ、言葉を失ったことがある。

実名だけでなく最愛の子供の亡骸をさらさなければ、責任を否認し続けた国の壁は崩せなかった。

死をもってしか告発できないこともある。

毎日起きている交通死亡事故の中にも、思わぬ社会の不備が隠されていることがある。遺族への取材が社会を突き動かし、事故対策が進むことは決して少なくない。

その一方で「Aさん」という匿名に社会を動かす力はない。

今回の事件では、アルジェリアで操業していたプラント建設大手、日揮のリスク評価が正しかったのか、アルジェリアとの経済協力を強化してきた日本政府が十分な情報を得ていたのか、という問題が残ることを考えると、遺族の方にも何か言っておきたいことがあると考えるのが当然だろう。

遺族が頑なに取材を拒否した場合、そもそも取材は成立しない。あらゆる取材は、取材対象が何かを訴えたいから始まっている。

恥ずかしながら新聞社に入社したとき「社会部」の意味がよく分からなかった。

社会部は事件や行政、街ネタと呼ばれるヒューマンストーリーを追い駆けるセクションだ。僕は51歳になって、「ソーシャル」が持つ意味を改めて考えている。

インターネットもフェイスブックもTwitterもない時代、新聞はまさしく「ソーシャル・メディア」の王様だった。

その上にあぐらをかいて「ソーシャル」の意味をろくに考えず、横並びの過剰取材を繰り返すうちに「メディア・スクラム」「報道被害」「マスゴミ」と批判を浴び、本来、社会をつなぐ役割を持つはずの新聞が一部から社会の害悪とみなされるようになってしまった。

僕は「個人情報の保護」「匿名報道」という綺麗ごとや事なかれ主義よりも「実名報道」という疼きを伴う地道な作業が社会をつなぐ力を信じたい。

みんなで泣き叫んだり、怒ったり、笑ったりする記憶を共有する社会は「匿名」の中からは生まれてこない。語り、言葉を紡いで、つないでいくという作業から社会に連帯感が生まれてくると信じている。

7人の「Aさん」の死として片づけようとする動きに、今回の事件を日本から遠く離れた北アフリカの地で起きた特別な事例として早く済ましてしまおうという空気を感じるのは僕だけだろうか。

日本経済を支える企業の一員としてイスラム過激派のテロに巻き込まれた方々がどんな生きざまをして、最期はどうだったのか、知りたい。

僕が犠牲者なら事件の背景を徹底的に調べて、何か問題がなかったか報じてほしいと願うだろう。

僕は「実名」で死にたい。それは、僕が社会で生きていく上での誓約でもあり、権利でもある。

(おわり)