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日本のメディアが伝えなかったノーベル文学賞授賞式の真実

木村正人在英国際ジャーナリスト

「文学が人間性の装飾であり、天与の権利と信じているから作家は書き続けるのだ」「文学は政治的論争や経済危機には最小限の影響力しか持たない。文学が存在しても人はその大切さに気づかないが、存在しないとき私たちの人生は粗野で残忍になる」

10日、ノーベル賞のクライマックス、晩餐会のスピーチで、今年の文学賞受賞者である中国の作家、莫言氏はこう話した。スウェーデン主要紙アフトンブラデットなどによると、莫氏はスピーチの原稿をホテルに忘れてきた。時間は十分あったのにホテルから原稿を取り寄せることもなかったという。

故意に原稿を忘れたとしたら、その真意は何か。中国共産党と国際社会のはざまで、できるだけ当たり障りのないあいさつで済ませようとしたのだろうか。

莫氏の複雑な胸中は服装の選択にも現れていた。

莫氏がノーベル賞授賞式のために燕尾服をあつらえたと報じられると、中国ではネット上で「どうして中国の人民服を着ないのか」と批判が殺到。このため、莫氏は燕尾服と人民服の両方をストックホルムに持参し、7日の受賞記念講演では人民服を着用していた。

10日の授賞式と晩餐会には燕尾服を着用し、同席した妻も黒のドレス姿だった。

莫氏のふるまいは、西洋に支配された過去は許せないが、西洋に認められたいという中国の矛盾したセンチメントをそのまま現していた。

中国の首脳も普段はダークスーツに朱色のネクタイ、人民解放軍の公式行事には人民服と、服装を使い分けている。

さらに不可思議なのは文学賞を選考するスウェーデン・アカデミー(会員18人)の対応だ。

カール16世グスタフ国王も臨席した授賞式にスウェーデン・アカデミーのペーテル・エングルンド事務局長が「8日に5人目の子供が誕生した」ことを理由に欠席。代わりに会員のペール・ベストベリー氏が莫氏への授賞理由を読み上げた。

このベストベリー氏は、莫氏への授賞を主導したとみられる渦中の人物、中国文学担当ヨーラン・マルムクヴィスト氏の親友。マルムクヴィスト氏が泥仕合を繰り広げている中国系翻訳者について「この男を殺してやる」とスウェーデン・アカデミーのアカウントを使って電子メールを送ると、ベストベリー氏は「殺せ」と返事を書いていたことが地元メディアによって暴露されている。

ベストベリー氏は今年3月、読売新聞に対し、50年間、選考過程は公表しないというルールを破って、「(安部公房は)急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう」と語った人物だ。

莫氏はストックホルムでの記者会見で、中国政府の検閲について、空港の手荷物検査にたとえて「根拠のないうわさや中傷には検閲が必要だ」と述べた。

受賞発表時にはノーベル平和賞受賞者で服役中の民主活動家、劉暁波氏の釈放を求める考えを示していたが、ストックホルムでは具体的な言及を避けた。

ストックホルムを訪れた中国の反体制芸術家が10日、雪の中、裸になって抗議したが、今年のドイツ・ブックトレード平和賞を受賞した中国の詩人、廖亦武(リャオ・イウ)氏ととも拘束され、会場から遠ざけられた。

中国の現実を指摘する声はノーベル賞という権威によって封印された。いったいスウェーデン・アカデミーの正当性とは何なのだろう。

体制を礼賛する中国メディアは莫氏の受賞を伝えるため大挙してストックホルムに乗り込んだ。エングルンド事務局長が授賞式を欠席した真意は何か。これまで人権や反戦を旗印にしてきたノーベル文学賞を莫氏に授与した意味は、いったい何だったのか。

私たちは考え直してみる必要がある。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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