『ワン・イヤー、ワン・ナイト』がテロを描いた映画として画期的な理由
テロを映画で描くのは難しい。物語にすれば事実から遠ざかるし、逆に、生々しい描写をすれば被害者を傷付ける。
だが、『ワン・イヤー、ワン・ナイト』はこの点を見事にクリアした。
作品紹介もしないうちに、まだ日本公開も決まっていないのに恐縮だが、ぜひ見てほしい。
■映画特有の感情移入力でテロを感じさせる
『ワン・イヤー、ワン・ナイト』が画期的なのは第一に「映画でしか描けないもの」であるからだ。
「知るため」にはドキュメンタリーの方が優れているが、「感じるため」には映画の方が優れている。なぜなら、登場人物を通じて感情移入ができるからだ。
2015年11月13日のパリ同時多発テロ事件で、バタクラン劇場で起きたことを知るためには、いくつもの報道やドキュメンタリーがある。
それらは客観的で中立的で俯瞰的でなくてはならないため、感情はしばしば邪魔になる。
惨状や被害者にレンズを向けるカメラマンは泣きながら撮影してはいけないのだ。
だから、あの夜コンサートに来ていた若い二人がどう反応し何を感じたのか、その後恋人との人生がどう変わっていったのかは、ドキュメンタリーでは伝え切れない。
例えば、その夜どんな会話をしたのか? 翌朝、目覚めた時(寝られたとしたら)に最初に考えたのは何か? 携帯に溜まった膨大な安否確認メッセージを目にして何を思ったのか?――。
ドキュメンタリーでは、テロの前後からプライベートな空間に入り込み密着し続けることはできない。カップルがどんな喧嘩をするようになったのかは、公的な関心事ではないのでドキュメンタリーでは追えない。
だが、遠慮と配慮なく、被害者の心の中に入ることが許される映画であれば、映像として描写できる。あの夜、銃撃を受けた若い男性と若い女性の立場になって追体験できる。
そして、それは必然的に私たちを「自分ならどうしただろう? 何を感じ、考えたろう?」という自問自答へと導くことになる。
映画特有の、ドキュメンタリーにはない感情移入力のせいである。
■あなたはバタクラン劇場を再訪しますか?
『ワン・イヤー、ワン・ナイト』が画期的な二つ目の理由は「テロの後をメインにしたこと」である。
もちろん「その後」に説得力を持たせるには「その最中」の描写が不可欠だ。残酷で恐ろしいテロの実態をボカしては、トラウマが説得力を持たない。この課題を、コンサート会場ゆえの音楽、照明の強烈さと、闇の中の銃声のコントラストを上手に生かす編集と音響で、血や死体を見せることなくクリアした。
ショッキングな映像抜きでも十分な恐怖を感じた後に、本当の物語は始まる。
テロを報道で知った私たちの関心は、事件の内容と背景と死者と負傷者の数で止まってしまう。
だが、生き残った人たちの人生はテロ後からスタートするのだ。
テロによる心の傷は彼らに無数の質問を突きつける。中でも究極の問題は、立ち向かうのか、逃げるのか、である。
例えば、あなたならバタクラン劇場へ足を向けますか?
■「The Show Must Go On」の無知とお気楽
「立ち向かう」の方が「逃げる」よりも常にカッコいい。だが、パリから引っ越してしまった方が生きやすくなる、というのは間違いなくある。
バタクラン劇場を再訪することを“恐怖克服の証”とすることに何の意味があるのだろう?
結局大事なのは、どっちが幸せに生きられるのか、ではないか。
被害者たちがもらったワーストアドバイスを発表するシーンがある(予告編にも出てくるので見てほしい)。
「殺されなかったことで君は強くなる」
「The Show Must Go On」
こういうお気楽な常套句を、上から目線で放てることこそが、被害者の気持ちがわからない、わかろうとしない証拠だろう。
個人的には「されど、人生は続く」なんて言われても相当、頭に来ると思う。
■悲惨さから逃げるのは、全然悪くない
私たちは「向き合う」という言葉が大好きだ。「ちゃんと向き合って」とアドバイスされることも多い。だが、向き合わないで「逃げる」という選択肢もあっていい。
「事件とちゃんと向き合って!」、「逃げないで立ち向かうのよ!」なんてのは、“テロを体験したあなたの気持ちはまったくわかりません”と告白しているのに等しい。
逃げたっていい、避けたっていい、何も起こらなかったかのように振る舞ってもいい、忘れたフリをしてもいい、もちろん、立ち向かっても構わない。
それぞれが一番生きやすいやり方にすがるべきなのだ。
『ワン・イヤー、ワン・ナイト』、絶対におススメです。
※写真提供はサン・セバスティアン映画祭