映画『フライド・バリー』と『モンスター』で考える、主人公の美醜の問題
映画の主人公にどんな外見の俳優を起用するかは、重要な問題だ。年代とか職業とか脚本のプロフィールに合っていることが大前提だが、それをクリアした場合には普通は美男美女を選ぶ。
魅力的な外見をした彼、彼女には人を引き付けるものがある。単純に、彼、彼女が主演するだけで作品の魅力度が増すからだ。
シッチェス・ファンタスティック映画祭で見た『フライド・バリー』の主人公も作品の魅力を上げている、というか、彼の外見が作品のすべてである、と言っていい。が、それは「美男美女の起用という王道」とは正反対の意味で、だ。
■宇宙人的な外見の俳優に物語が依存
こんな外見の俳優をよく見つけて来たな、と感心した。大男で筋肉隆々で、美男とは正反対の、一度見ると忘れられない顔をしている。
脚本的には「ドラッグ漬けの暴力的な飲んだくれで、ある日、宇宙人に誘拐される」という設定なのだが、彼の表情や動きがまさに「宇宙人に遠隔操作される男」そのものの奇妙さ、異形ぶりなのだ。歯並びやおでこは特殊メイクだろうが、それ以外はほとんどいじっていないことは、俳優(ガリー・グリーン)のプロフィール写真でわかる。
あまりに印象が強烈で、多分、今後彼のどんな作品を見ても、「あの『フライド・バリー』の……」と思ってしまうだろう。
ただ、作品としては、あまりに特徴的な外見に依存しているように思う。彼に奇妙なことをさせていれば映像としては成立してしまうから、物語の方がお留守になってしまっている。
人類の抹殺とか地球の征服をたくらむとか、もっと宇宙人らしいことを積極的にしてほしいのだが、地球人を観察するというオブザーバー的な受動的な行動に止まってしまっている。結局、奇妙なのは宇宙人の行動ではなく、クレイジーな地球人の行動の方なのだ。
これって、別に宇宙人に誘拐されなくてもよくない? せっかく宇宙人を出しているのだから、もっと地球外生物らしく、特殊能力を使った常軌を逸した行動を取ってほしかった。
■美しい女優による「醜い」という役作り
主人公が美男美女ではない、ということで言うと、テレビドラマ『ベティ~愛と裏切りの秘書室』を思い出す。邦題はインパクトを弱められているが、原題はそのものズバリ、『私はベティ、醜い女』(Yo soy Betty, la Fea)である。
20年ほど前コロンビアで初めて放送されたこのドラマは、スペインでも大人気で今も再放送されている。「主人公は美男美女でなければならない」というステレオタイプをぶち壊したことで知られている。
もっとも、主演のアナ・マリア・オロスコは「醜い女」ではない。
前髪をパツンと切りそろえた髪型と、重そうな髪質、やぼったい眼鏡に、歯列矯正器具まで投入して、醜いという役作りをしているのだ。
醜い主人公の役を美人がする必然性は、ドラマの中で主人公が成長しキャリアアップを成し遂げて、幸せを手に入れ、外見的にも洗練されていく、という点にある。どんどん綺麗になっていく、というプロセスを映像的にも見せなければならないのだ。アンデルセン童話『みにくいアヒルの子』に通じるお話である。
■セロンが『モンスター』を主演した意味は?
こう考えると引っ掛かるのが、映画『モンスター』を美人女優シャーリーズ・セロンが主演したことだ。
実在した女性連続殺人犯をモデルにしたこの作品では、セロンの役作りが話題になった。体重を増やし特殊メイクを使って、本人とはまったく違う外見にした。のちに、この努力はアカデミー賞主演女優賞受賞によって報われることになる。
衝撃的な物語の面白い作品で、セロンと助演のクリスティーナ・リッチの演技も良い(リッチの方がモンスターに見えてくる……)のだが、これ、セロンが演じる必要性があったのだろうか? 過激な役作りをせずとも、殺人犯に体形的にも外見的にももともと似ている女優に演じさせてもよかったのではないか? 物語は、主人公の体形や外見が変化する、というものではなかったのだから。
『レイジング・ブル』でボクサーを演じた、ロバート・デ・ニーロの過激な減量と増量には意味があった。絞り込んだ肉体の現役時と、だらしなく太った引退後の両方を演じる必要があったから。体形の変化こそが、主人公の人生の象徴だった。
役作りは演技の一部であり、評価に値する。『フライド・バリー』の主演俳優の外見は、作品の魅力のすべてと言っていい。その意味で必然的なキャスティングだった。
だが、『モンスター』のセロンはどうだったろうか?
※『フライド・バリー』の写真提供はシッチェス・ファンタスティック映画祭