鬼を怖がり、鬼になり、鬼を迎え入れるという、成熟のサイクル。映画『泣く子はいねぇが』
世の中には鬼がいた方がよい。少なくとも、「鬼がいる」と子供は信じていた方がよい。鬼がいて、お手伝いをしなかったり、宿題をしなかったり、片づけをしなかったりすると山を下りて来て、怖い目に遭う。
この鬼役は怖いお父さん、怖いお母さんでもよいのだが、子供はすぐ知恵を付けて親の目を盗むことを覚えるから、第三者の鬼に任せた方がよい。
両親以外に鬼がいた方がよいのは、鬼から子供を守る存在になれるからでもある。親の言うことを聞かないと鬼が来るし、鬼から守ってくれる親は尊敬もされるしと一石二鳥だ。
なまはげはよくできている。さすがに伝統行事だけある。
この作品を見た後、なまはげ関連のビデオを見ていたら、玄関に乱入して来た鬼を最初に親が迎え撃つもすぐにやられ、子供を鬼に差し出す、というシナリオのものもあった。子供の驚愕と恐怖は計り知れない。家と親という子供にとって二大安心の象徴が、鬼に軽く踏みにじられ、なおかつ裏切られるのだから。
なまはげが独身男性に限るわけ
と、子供への教育的効果ばかりを考えていたら、なまはげには大人への教育的効果もあるのだそうだ。
鬼を怖がった子供が成長し、立派な若い衆になったら鬼の面をかぶって怖がらす役に回る。主人公は既婚者だったが、本来、鬼役は独身男性に限るということだったらしい。若者の地方離れで最近は既婚者も駆り出されることになったようだ。
考えてみれば、大晦日の夜に家を不在にするようなことを、妻帯者に任せてはまずい。
逆に、人間ではない鬼だからこそ大晦日の夜に出現せねばならない。家族が団らんする夜の平和を破壊する者だからこそ、鬼なのだ。大晦日の夜に人並みにこたつで寝転がる者は鬼ではない。型破りだからこそ異形の者であり、神様の使いであり得るのだ。
やはり、なまはげはよくできている。
主人公の奥さんの怒りは、父親になっても大晦日の夜に青年会の仲間と振る舞い酒を飲み歩くような夫に向けられていたが、本人の自覚のなさだけでなく、継承者不足という事情もあるのだ。
鬼を卒業できない主人公
鬼を怖がり→鬼になり、というサイクルは、→鬼を迎え入れる、ということで完結する。
父親となって、自分の子供のために家へ鬼を迎え入れる。宴席を用意し、散々子供を泣かせた後は、鬼役の若い衆に酒を飲ませ、食事を持たせて労をねぎらう。
これで子供、青年、大人のなまはげの輪が繋がる。この輪はぐるぐる回り続けて、家族の一体感と地元の連帯を保証してきたのだ、と思う。
主人公が鬼を演じ続けられるのは、彼を待つ妻も子も“不在”だから。まだ鬼を卒業できていないわけだ。
この作品が最優秀撮影賞を獲った、サン・セバスティアン映画祭のあるスペインはカトリック教国だから、鬼役は神様がやり、神が見ているから悪事は働けないことになっているのだが、最近は抑止力が下がっている。教会へ行くのは年配者ばかりだし、学校教育の場でも宗教はもはや必須科目ではない。子供は神罰を信じず、神様は商業主義と結託し、プレゼントばかり配る子供のご機嫌取りに成り下がっている。
我が国のなまはげとは大違いだ。
最近、なまはげに対して「怖がらせるな!」という苦情があるそうだ。愚かなことである。子供をちゃんと泣かせて生活指導してくれ、親をヒーローにしてくれる異形の者が、他にどこにいるのか? 怖がらせっぱなしではなく、翌年ちゃんと言いつけを守っているかチェックにまで来てくれるのだ。
地域ぐるみで、よい子、よい青年、よい大人を育てる1年に1度の伝統行事。ホームセキュリティを解除し、ズカズカと家庭に踏み込ませてほしい。
写真はすべてサン・セバスティアン映画祭提供