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映画『ジョーカー』で明らかになった、ジョーカーとバットマンの怪しいモラル(ネタバレ)

木村浩嗣在スペイン・ジャーナリスト
貧者の反乱が始まった現実社会はジョーカーには順風、バットマンには逆風だ(写真:REX/アフロ)

まず最初に一言。

もしあなたが作品を見ていないのならこのページを閉じて真っ直ぐ映画館へ。ここにはネタバレがあります。映画は一期一会ですから、予告編を見ず、批評も読まずに見るのが一番。で、鑑賞後に良ければ読んでください。

では、ここから本題。

ダース・ベイダーは?ジョーカーは?

映画『ジョーカー』の興味は公式ページにある通り。すばり、「心優しいアーサー」「が、なぜ狂気溢れる“悪のカリスマ=ジョーカー”に変貌したのか?」である(カギカッコ内は同ページからの引用)。

悪人に生まれたわけではない普通の人間が、なぜ、ダークサイドに行ってしまったのか? ここに説得力があるかどうかで、少なくとも物語的価値は決まる。

これ、あのダース・ベイダーの場合はどうだったろう?

詳しくは書かないが、愛する人を救いたいという純粋な気持ちだったのに、失恋によって悪が加速し、宇宙征服まで突っ走ってしまった。若気の至り、というか、「まだ青いな」という感じ。「次に素敵な人が現れるよ」と慰めてくれる人がいれば……と、その後の宇宙戦争を想うと思わずにいられない。

あれは青少年向けのお話だから失恋でもいいが、『ジョーカー』は大人向けだから、そういう訳にはいくまい。では、何が理由なのか?

ジョーカーはソフィーを殺したか?

この謎を解くにあたって、その前の小さな謎を解く必要があった。それは、ジョーカーはソフィーを殺したのか、どうか?だ。

映画の中でははっきり描かれていなかったから鑑賞後もモヤモヤしていて、この文章が書けなかったのだが、最近の報道でこの疑問にトッド・フィリップス監督が答えてくれた。

「もちろん彼女を殺していない」

私はどっちもあるな、と思っていたが、みなさんはどうだったろう?

監督の言葉によれば、「悪人にも倫理がある」とのこと。つまり、ジョーカーが殺すのは、彼を身体的または精神的に傷め付けた者だけだ、というのだ。となると、それは復讐である。

ソフィーは彼の恋心を傷付けた張本人なのだが、ダース・ベイダーとは違って、そこは大人の分別でもって潔く引き下がった、ということだろう。

ジョーカーには倫理も分別もある。笑いながら無差別に殺すサイコパスではない。

物語の中でもジョーカーを英雄視する人々(暴徒)が出て来るし、鑑賞後にジョーカーに共感する人もいるというが、もし、良心の欠片も無い、罪の意識が欠如した人間というふうに描かれていれば、そんな求心力は生まれなかったろう。

あくまで復讐であり、それも社会的な復讐である。

個人的な復讐が社会に抗う結果に

最初に殺されるのは金融機関のブローカーである。小金をかせいで調子に乗っている連中で、多分、社会を舐めてもいるだろう。よって、私たちの心の中のジョーカーも“殺しても良し!”と囁くのだ。

あれ、場末のチンピラだったら(その方が落書きだらけの危険な地下鉄にはふさわしい)どうだろう? ジョーカーは殺しただろうか? 多分、殺したろう。暴力に暴力で対抗しただけの彼には、相手がブローカーだろうがチンピラだろうが関係ないからだ。

だが、チンピラを殺しても英雄にはなれない。巨大企業ウェイン・エンタープライズに所属する増長した若造たちに私的な制裁を加えたからこそ、英雄になれた。

ごく一部の富裕層だけに金と権力が集中し、彼らを為政者とする政治は当然、社会保障を削減して自己責任を問うような、貧者には苛烈なものにしかなり得ない――そういう弱肉強食の社会だから、ジョーカーは英雄に祭り上げられた。

ジョーカーに世直しの意志は無かったろう。たまたま、支配層との対立構造の中で生まれ、育っただけだ。

ジョーカーの母はウェイン家に仕えた家政婦で、彼はウェイン社の総帥トーマス・ウェインの子(かもしれない)。で、トーマスは妊娠した母を厄介者扱いし放り出した血も涙も無い男(かもしれない)。とりわけ、ジョーカーの住むボロボロのアパートと、とんでもなくでかくて門から奥の建物が霞んでいるウェイン家の邸宅の対比は、鮮やかでわかりやすい。

“あんな金持ちで、どうせ搾取してきたんだろ。よって、殺しても良し!”と私たちの心の中のジョーカーがまた囁くのだ。

強者が弱者を叩く。バットマンの正義

こう考えていくと、ジョーカーを正義の名で裁くバットマンの立ち位置が揺らぎ始める。

バットマンって、なぜ大金持ちって設定なんだろう?とずっと疑問だった。なぜヒーローが大富豪の息子(しかもハンサムでプレイボーイ)という社会的強者なんだろう?と。

その疑問が、ジョーカーの生まれが貧者で社会的弱者であることを知って、さらに深まった。

「正義」という大義名分があるとはいえ、社会的強者が社会的弱者を叩くのはあんまりスカッとしないというか、モラル的な混乱が起こる。

一方で、巨大企業のトップとして格差社会を牽引し犯罪の温床を作っておいて、もう一方で、搾取した金を使って武装し犯罪者を裁くというのは、欺瞞である。放火して消火するマッチポンプである。

バットマンは狭義の正義だけでなく、社会正義をも貫く人であるべきではないか? 犯罪者を裁く傍ら、有り余る金を貧者にばらまき社会に還元すべきではないのか?

悪の権化には未到達。だから続編

ソフィーを殺さないモラルの持ち主であるジョーカーは、冒頭に引用した「狂気溢れる“悪のカリスマ”」という形容には当てはまらない。「狂気」は「溢れ」ていない。唯一、狂気じみているのは、殴る蹴るに対して銃殺、という復讐の明らかな過剰さだけである。

彼はまだ「狂気溢れる“悪のカリスマ”」の高みには達していない。悪の快感に目覚めた男が、女子供も見境なく殺戮する本物の悪になるためのプロセスが欠けている、と思っていたら、続編があるそうだ。

今作品では、貧者で弱者であるジョーカーが“アンチシステム”(資本主義や社会の収奪構造、政治体制自体をぶち壊そうとする、スペインを含む欧州で頻発する運動)さながらの過激な社会運動家となったプロセスが描かれていた。次作では、どうやって同情も共感も介入する余地のない本物の悪になっていくのか?に注目したい。

ジョーカーが残虐非道なほど自らの正義が正当化されモラル的葛藤から解放されるから、バットマンもそれを待っていると思う。

在スペイン・ジャーナリスト

編集者、コピーライターを経て94年からスペインへ。98年、99年と同国サッカー連盟のコーチライセンスを取得し少年チームを指導。2006年に帰国し『footballista フットボリスタ』編集長に就任。08年からスペイン・セビージャに拠点を移し特派員兼編集長に。15年7月編集長を辞しスペインサッカーを追いつつ、セビージャ市王者となった少年チームを率いる。サラマンカ大学映像コミュニケーション学部に聴講生として5年間在籍。趣味は映画(スペイン映画数百本鑑賞済み)、踊り(セビジャーナス)、おしゃべり、料理を通して人と深くつき合うこと。スペインのシッチェス映画祭とサン・セバスティアン映画祭を毎年取材

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